2017/3/5 栄光に輝く王とは誰か?

永原アンディ


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栄光に輝く王とは誰か? (詩篇24)


1. 創造主 (1,2, 創世記 1)

【ダビデの詩。賛歌。】地とそこに満ちるもの世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き潮の流れの上に世界を築かれた

 私たちはイエスを主と呼びます。それはただの主人、支配者という意味ではありません。英語では文の中でも大文字で始まる特別な“主”として「主イエス」と呼ぶのです。この“主”は、すべての存在を創られ、全てを支配する神様を指す言葉です。なぜ私たちは歴史上の人物であるイエスを、この特別な「主」と呼ぶのでしょうか?それは私たちが、イエスを人となられた創造主、神様だと信じるからです。神様が人となる?理解し難いかもしれませんが、今日のお話を最後まで聞くとわかっていただけると思います。
私たちは自分で購入したものや、誰かにいただいたものを自分のものと考えます。自分自身が誰のものなのか、皆さんは考えたことがありますか?たいていの人は自分は自分のものと考えていると思います。なぜかわからないけれど、私の意識につながっているこの体はこれ一つなのだから自分のものに決まっていると思っています。神様という存在を信じる人でも、神様からいただいたと考えるかもしれません。しかし神様は、ご自身が創られたすべてのものについて、誰とも売買契約も譲渡契約もしていません。ただご自身にかたどって作った人間には特別な契約を結ばれたことが聖書の一番最初の章に記されています。それは、人類を世界の支配人として任命した委託契約です

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:27,28)

 神様は世界の未来を人類に託し、創られたものすべてに満足して天地創造を終えたのです。
 しかし残念ながら、人類はこの契約を誠実に守ることができませんでした。預かったのにもらったように振る舞い始めたのです。「世界は私たちのものだから思い通りにする」 そして地球はこの有様です。神様が創造された「全てのものが極めて良い」世界ではありません。これは私たちの契約違反の結果です。ここに書いてある通り、世界は今も主のものです。このことに立ち返らない限り、世界が良くなることはありません。しかし、あなたが利己的、自己中心的な人生観ではなく、主に従って生きる人生観を持ったとき世界はあなたの周りから変わり始めます


2. 誰が主の聖所に立つことができるのか?(3-6, 詩篇15)

どのような人が、主の山に上り聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく欺くものによって誓うことをしない人。 主はそのような人を祝福し救いの神は恵みをお与えになる。 それは主を求める人ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。〔セラ

 神様に似た者として創られ、神様の創られた世界を管理するという神様からの委託契約をいただいた私たちですが、お話ししてきたように、実際の人類の歩みは神様をがっかりさせるものでした。その原因は、自分は自分のものと疑わない私たちの性質にあるのです。自分が自分のものなら、自分が自分の主ということです。自分を喜ばせることが人生最大の目的ということになります。そして、そのためには自分という主に貢物を送り続けなければなりません。他の人から買う、できるだけ安く買う、できればタダでもらう、騙し取る、、、自分という主を喜ばせるためになんでもする。それが本当の主を主としない、私たちの持って生まれた罪の性質です。
 誰も自分は人と比べて救いようのない罪人だと絶望する必要はありません。どんなに立派な人でも、今読んだような厳しい神様の基準から見れば、ほぼ同様の落第点しか取れないのです。100点満点のテストで、全ての人が0点から10点の間だったようなものです。10点の人だってあなたはトップですと褒められはしないでしょう。あなたが0点だったとしても、10点の人に劣等感を覚える必要はないのです。むしろ私たちが自覚しなければならないのは、誰もそのままでは神の前に立てない存在であるということです。去年の秋、詩篇15編についてのメッセージをしました。15編は主の山に登ることのできる人の条件がさらに具体的に描かれています。そしてそれも私たちにはほとんど不可能な内容でした。メッセージの題は「だめだ無理すぎる!でも…」(Oh, no! That’s Impossible! But…)でした。「でも」が大切なところです。でも大丈夫、主と共にいることができる、歩むことができる。それは神様がイエスとして世界に来てくださり、私たちがその行いと言葉に従っていけるようにしてくださったからです。イエスは今でも私たちを導いていてくださるので、前回23編のメッセージでお話ししたように、どんな状況でも主と共に歩めるし、主の守りの中で憩うことができるのです。


3. 主こそ栄光に輝く王 
(7-10, イザヤ26:1-6, 詩118:19-21)

 

城門よ、頭を上げよとこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。城門よ、頭を上げよとこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。〔セラ

今日最初に、イエスは人となられた創造主と言いましたが、ではなぜ人となられたのでしょうか?全てを創った者が、創られたものの一つになる必要がどこにあったのでしょう?人間が悟りを開いて神様になって新しい宗教を始めるというのはよく聞く話ですが、神様が自分の創造した人間になるという教えは、聖書以外には見当たりません。確かに創った神様が創ったものの姿になるというのは、不思議ですが、有限な人間が無限な神様になるというような不可能なことではありません。
イエスとしてこられたのは、勝手に契約に背いて苦しむ私たちを愛し憐れまれたからです。本当の主、本当の羊飼いがわからなくて迷い、互いに争い、弱っている羊のような人類に、目に見える形で現れ、もう一度、本当の主を知るチャンスを与えるために来られたのです。それもただ模範を示し、言葉で教えるだけではなく、最終的、決定的方法で行くべき道を示されたのです。それがイエスの十字架です。先週の水曜日から、レントと呼ばれる特別な時を迎えました。イースターの前日の土曜日まで46日間、十字架に向かって進むイエスを心に深く思いながら過ごす時です。イエスに従う者たちはずっとこの時を大切に過ごして来ました。レントの最後の週の日曜日の出来事は全ての福音書に記録されています。ヨハネはこう伝えています。

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ12:12、13)

 イエスは、地上の王たちとは正反対の方法で、その栄光を表されました。地上の王は武力や経済力によって支配しようとします。出て行って戦い、敵から全てのものを奪い去り、歓喜の声の中を城へと帰還します。イエスは、同じような歓声に迎えられエルサレムに入城しましたが、期待されていたような王とは明らかに違っていました。
 人々は自分勝手に生きながら、神様との取引のように動物の犠牲を捧げてきました。しかし神様はそんなことを望んではいませんでした。むしろ(神様は)、人々が自分は自分のものではなく、神様のものとして歩むことを望んでおられるのです。イエスは、そのことを知らせるために十字架に向かいました。そして権力者の、宗教指導者の、そして失望した群衆の怒りに無抵抗のまま十字架に架けられ苦しみ死なれることを選んだのです。得ること、奪うことではなく、与えること、それも自分自身の命をさえ惜しまずに与えることを実際になさったのです。与えることが愛することの本質であることを命をかけて教えたのです。私たちはイエスを愛し素直についていきたいと思う一方で、私たちの罪の性質が働いてそれを拒もうとして葛藤するのです。与えるより得たい、仕えるより仕えられたい、自分を主としたい欲望が、「私に従って歩み、永遠に私の家に憩いなさい」という恵みの勧めに背を向けるようにと誘惑します。私たちは生涯、この罪と戦い続けますが、諦めて戦いをやめてしまわない限り勝利は約束されています。すでにイエスは十字架と復活によって罪と死に勝利されたのです。いわば続いている戦いは、すでに勝利が決まっているものの局地的に敵の反抗が起こっているようなものです。イエスは武力紛争には全く興味を持たれませんが、私たちの罪との戦いについては、共にいて戦ってくださる方です。私たちは、イエスが共にいてくださったのでここまで戦い続けることができたのです。そしてこれからもよりよく生きるために、イエスと共に罪と戦い続けるのです。それは愛し続けるという戦い、信じ続けるという戦いです。


メッセージのポイント

 私たちが従って歩むイエスは、世界を創られた方です。世界とそこに住むものは全て主イエスのものです。この方と共にいるために、私たちはいつも自分のあり方に注意を払うことと、イエスにより近づこうとすることが欠かせません。これら二つのことは別の言い方をすれば、私たちに挑む罪との戦いです。イエスはこの戦いを共に戦ってくれる頼もしい王なのです。


話し合いのために

1) イエスはなぜ創造主だと言えますか?
2) 誰が主の聖所に立つことができるますか?


子供たちのために

全てのものを創造した神様がイエスとして来たこと(一人の神様の創造主と救い主としてのあり方)を思い起こさせてください。イエスと離れずに共に歩くとは、イエスのように、できるだけ正しく清くあろうとすることですが、そうできるようにしてくれるのはイエスだということを伝えてください。そのために、いつでもイエスと会話するように祈ることを勧めてください。