2017/3/19 主を畏れる人は誰か?

永原アンディ


ビデオ  第一礼拝(日本語 Youtube)   /  第二礼拝 (日本語 / 英語 Youtube) 

オーディオ (第一礼拝 日本語)

オーディオ (第二礼拝 日本語 / 英語)


主を畏れる人は誰か?(詩篇25:12-22)


 今日の詩編は神様を畏れることの大切さ、素晴らしさを歌っています。しかし本題に入る前に「神様を畏れる」ということはどういうことなのか確認しておきましょう。「おそれる」は様々な意味を持った言葉です。日本語の「おそれる」という言葉にはいくつかの漢字が当てられます。普通は「恐れる」が使われますが、神様を「おそれる」の場合「畏れる」を使います。英語の場合 fear はいろいろなニュアンスで使われます。神様を畏れると、飛行機に乗ることを恐れるとでは違うと誰もが思いますが、それではどう違うか言葉に表そうとすると簡単ではありません。普段はおとなしいけれど怒らせれば身の危険を感じるような人を恐れることとも違います。宗教の中には、神様を機嫌を損なわないように 儀式をしたり、捧げ物をすることを教えるものもありますが、聖書の教える唯一の神様、創造主は御自身に対する人の態度や、その時の気分で態度を変える方ではありません。ですから、主を畏れるとは、罰や理不尽な要求を恐れることとは違います。主を畏れるとは、強さにおいて、聖さにおいて、愛において、誰も比べられないることのできない唯一の方が自分の主であるということを意識することです。つまり主を畏れる人とは、神様を自分の主と信じ従って歩む人だということです。神様を怖がる必要はないのです。


A. 主を畏れる者への約束 (12-14)

12 主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。
13 その人は恵みに満たされて宿り子孫は地を継ぐであろう。
14 主を畏れる人に主は契約の奥義を悟らせてくださる。

 詩人は主を畏れる者です。主を畏れることが良い人生をもたらすことを信じています。しかし、次の部分でお話しするように彼の置かれている現実は楽しいものではありませんでした。それでも神様に期待するのは単なる願望ではありません。詩人は自分の先祖たちに対する神様の態度から確信しているのです。恐らく、詩人はこの三つの節を書いた時、民族の父アブラハムのことを思っていたのでしょう。アブラハムへの約束は、主を畏れる者への約束の原型です。創世記はアブラハムがユダヤ人に限らず、すべての民の父だと言っていますが、それは一民族に限らず、主を畏れる者は誰でもこの約束を与えられているということです。 私たちは皆、少しスケールダウンしたアブラハムなのです。イエスに出会って、アブラハムのように新しい道に踏み出しました。日々、導かれて歩んでいます。この導きの先にあるものが悪いものであるはずがありません。
去年から今年にかけてユアチャーチではベビーブームが続いていますが、その両親の多くは、まだボーイフレンド、ガールフレンドもいない若者だった時にイエスに従う決心をして今日まで歩んで来たました。そして若いお父さんお母さんとなっています。素晴らしい祝福です。しかし神様の祝福の表れは、結婚して父母になることだけではありません。ある人にはパウロのように独身の賜物を与えるのです。パウロは、それがあって自分が自分らしく用いられたことを知っています。結婚しても、子供を与えられないことも、呪いではなく別の祝福であることを知るべきです。彼らには神様が、実の親が育てられない子供の親になることを計画しているのかもしれません。二人だけだから歩める特別な計画があるのかもしれません。
ここに書かれている契約の奥義とは、神様の約束の意味の大きさ、深さです。アブラハムも神様の呼びかけに従って故郷を離れた時には、神様の約束の意味を深く悟っていたわけではありませんでした。同様に私たちも、イエスに従っていこうと決心した時は、全てを知ってついてゆくことにしたわけではなかったはずです。私たちが主を畏れる者として歩み続けるなら、主はもっと私たちに、約束の豊かさ、深さを教えてくださいます。


B. 主を畏れる者の置かれている現実 
 (20-22)

主は恵み深く正しくいまし罪人に道を示してくださいます。裁きをして貧しい人を導き主の道を貧しい人に教えてくださいます。その契約と定めを守る人にとって主の道はすべて、慈しみとまこと。主よ、あなたの御名のために罪深いわたしをお赦しください。

 詩人の気持ちを皆さんは理解できますか?このような気持ちになったことはありませんか?貧しさから、孤独から、悩みから、苦労から、罪から私を救い出してください。私たちはイエスと共に歩んでいても、そのような状況に置かれます。神様が信頼できる方であるのに、私たちが厳しい状況に置かれるのはなぜなのでしょう?呪いなのでしょうか?罰なのでしょうか? それ以外に答えはあるのでしょうか?他の詩編 (109:28)は呪いではないことをイエスは罰ではないことを明らかにしていますが (ヨハネ9:1-3)、「ではなぜ?」に聖書は直接答えてはいません。

彼らは呪いますがあなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥に落とされますがあなたの僕は喜び祝います。(詩篇109:28)

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネによる福音書 9:1-3)

しかし神様が人間をどのような者として創られたか、人間がどのように歩んできたかを考えるなら、納得できる答えが浮かび上がってきます。神様は私たちを、他の生き物たちとは違い自分に似せて創造されました。植物は行動できませんし、人間以外の動物に与えられたのは本能です。神様のプログラムに従って生きる他の生き物と違い、自分の意思に従って生きる者として創られたということです。それは神様に従うことも、背を向けて利己的な生き方をすることもできるということです。今、世界には74億の自由意思が存在するのです。影響力の大きな一人の意思が、他の人々の意思を巻き込んで世界を悲劇に巻き込む出来事を私たちは知っています。また逆に、ある人の意思が同調する多くの意思とともに、抑圧されていた人々を解放する運動があったことも知っています。74億の意思が複雑に絡み合い、この世界の状況を形作っているわけです。厳しい状況はこのために起こります。人々のエゴが影響しあって悪い状況を生みます。それでは、自分は罪人ではなく良いことだけを自動的にしてしまう動物として作られた方が良かったと思いますか?私は、それでも自分が神様に似せて作られたことを嬉しく思います。意志を持って生かされていることを感謝しています。


C. 主を畏れる者の希望 
 (20-22)

20 御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し恥を受けることのないようにしてください。
21 あなたに望みをおき、無垢でまっすぐならそのことがわたしを守ってくれるでしょう。
22 神よ、イスラエルをすべての苦難から贖ってください。

 私たちが自由な意思で良い生き方を選び取ることを望まれた神様は、イエスキリストの十字架を通して永遠の命を下さっただけでなく、苦しみや悩みのあるこの世界での歩みにおいても、お話してきたように恵みを約束して、この世界で生きる希望を与えてくださいました。主イエスは、私たちが自分の意思で、ご自身に従ってくることを期待しておられるのです。詩人はこの詩を、決心と願いと信頼の言葉で閉じようとしています。神様に望みを置き、まっすぐな心でいるなら、どんな状況に置かれていても、神様は守っていてくださることを確信しています。私たちもこう祈りましょう。詩人は「神よ、イスラエルをすべての苦難から贖ってください。」という願いでこの詩を閉じていますが、私たちは「神よ、全ての民ををすべての苦難から贖ってください。」と祈りたいと思います。なぜなら私たちの主イエスは、全ての人が神様との関係を回復するために十字架にかかってくださったのですから。


メッセージのポイント

主を畏れるとは、罰や理不尽な要求を恐れることとは違います。強さにおいて、聖さにおいて、愛において、誰も比べられないることのできない唯一の方として意識することです。そこから生まれるのは平安と希望であって、罰を恐れてびくびくすることではありません。


話し合いのために

1)主を畏れることと、怖がることとはどう違うのでしょう?
2)主を畏れるものにはどのような希望がありますか?


子供たちのために

神様を心から信じ、喜んで従ってゆく人を神様が豊かに恵みを与えてくださること、選ぶべき道を教え、苦しみや、悲しみから助け出し希望を与えてくださる方であること、どんなに困った状況でも守って、導いてくださる方であることを伝えてください。