2017/4/9 十字架からの声

池田真理

しゅろの日曜日

Albrecht Dürer [Public domain], via Wikimedia Commons


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十字架からの声(ルカ 23:26-49)


 来週のイースターに向けて、今日はイエス様の十字架の苦しみを覚える日です。ルカのシリーズの続きが、ちょうどこのイエス様の受難の記事ですので、今日は1ヶ月前の続きで、23:26-49を読んでいきます。前回、イエス様は無罪であるにもかかわらず、人々の狂ったような要求によって十字架刑にされることが確定しました。今日読んでいく箇所は、十字架に架けられるためにイエス様が連行されていく場面から始まります。犯罪人とされたイエス様が処刑されるのを見ようと、大勢の群衆が連行されるイエス様の後についていきました。そんな状況の中、ルカは、イエス様が人々に語りかける声を記録しています。それは十字架の苦しみの中から、私たちに語りかける声でもあります。早速読んでいきましょう。最初に26-32節です。


A. 十字架からの声

1. 罪を知りなさい (26-32)

26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。30 そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。

 本題に入る前に、キレネ人のシモンという人が登場していることについて触れておきたいと思います。普通、十字架刑になった罪人は、自分が架けられることになる十字架を自分で処刑場まで背負っていかなければいけませんでした。イエス様もそうだったはずですが、おそらく、イエス様の体力がそこまでなく、自分で十字架を背負っていくことができませんでした。そこで、通りがかりのキレネ人シモンが無理やり代わりに背負わされたということです。イエス様は、十字架刑が確定する前に人々から受けた暴行によって、すでに消耗しきっていたと考えられます。イエス様が十字架に架けられてから息を引き取るまでの時間が通常より早かったのも、そのためだと考えられています。十字架刑は、手足に釘を打ち付けますが、それだけではすぐに死ぬような傷ではありません。イエス様は、十字架にかけられる前からすでに瀕死の状態で、重い木を組み合わせた十字架を担いで歩くことができませんでした。今日読んでいくイエス様の言葉は、そんな状態で語られているということを心に留めておきましょう。

 それでは本題に入っていきたいと思います。イエス様は泣きながらついてくる女性たちに向かって言いました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」なぜなら、都エルサレムはやがて敵に滅ぼされ、エルサレムの住民は大きな苦しみを味わうことになるからだ、と言われています。そして、こう問いかけます。「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」これは謎めいた言葉ですが、おそらく、生の木というのはイエス様のことで、枯れた木というのはエルサレムのことです。神様との関係に生きており、罪のないイエス様が、生きている木、緑をつけた木です。一方、神様を忘れ、神様との関係に死んでいるエルサレムは枯れた木です。罪のないイエス様が苦しまなければならないなら、罪のあるエルサレムにはどれほどの苦しみが待っているか分からない、ということです。これは、エルサレムに対するイエス様の憐れみの言葉です。イエス様はこれまでにも何回かエルサレムの滅亡について予告し、涙を流して嘆きました。そして、この十字架の最期の場面で、最後にもう一度嘆き、同時に最後のの警告をしていると言えます。自分自身を振り返り、神様に立ち返ってほしい、そうでなければ滅んでしまうという警告です。イエス様の死後約40年後にエルサレムが滅びるのは、ユダヤ人がローマ帝国に反逆して、逆にローマ帝国に征服されてしまうからですが、それも究極的には人間の罪に原因があります。神殿には火がつけられ、多くの人が犠牲になりました。イエス様を十字架刑にしたのは、ユダヤ人指導者たちの妬み、ローマ人たちの無関心、群衆の狂気、そして弟子たちの臆病です。それはすべて、人間の罪の性質からくるものです。イエス様、自分が味わっている苦しみと、エルサレムの人々が味わうことになる苦しみを思い、嘆いています。人間の罪は、互いの間に競争を生み、憎しみを生みます。そしてそれが複雑にからみあい、社会全体に恐怖と悲しみを生み、苦しみが終わることはありません。そんな私たちにイエス様は、自分自身の罪を知りなさい、そして罪がもたらす苦しみを知りなさい、と言われています。イエス様を殺したのも、エルサレムを滅ぼしたのも、世界に苦しみが絶えないのも、私たち人間の罪です。そのことを私たちは知らなければいけません。

 続きを読んでいきましょう。33-38節です。

2. 私はあなたを赦している (33-38)

33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

 自分を十字架につけ、嘲る人々でも、イエス様は責めたり憎んだりしませんでした。反対に彼らのために祈っています。34節「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」彼らは何を分かっていなかったのでしょうか?それは、彼らはイエス様を苦しめることで、実は神様を苦しめていたということです。彼らはイエス様が神様だとは信じませんでした。なぜでしょうか?自分たち自身が神様だったからです。自分たちが正しいと思い込んで、イエス様がどんなに正しいことを教え、行ったとしても、彼らの心には届きませんでした。それが人間の罪です。私たちもみんな持っているものです。自分が正しい、自分が一番大切だと思う性質です。この罪の性質に気が付いて、方向修正をしない限り、私たちはみんな罪に支配されたままです。そして、神様を悲しませ、苦しませるだけです。

 でも、イエス様の祈りは、そんなふうに罪に支配されたままの私たちを責めるどころか、深く憐れんで、赦して下さっています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」私たちは、自分の罪の中で、また他人の罪に巻き込まれて、間違いを犯します。そして神様を悲しませ、人を傷つけます。それに気が付きもしません。でも、イエス様はその全てを受け止め、私たちを赦して下さっています。先ほど、イエス様は私たちに「自分の罪を知りなさい」と語りかけているとお話ししました。でもその次にここで言われていることは、自分の罪を知らない私たちに対して、私はあなたを赦している、ということです。イエス様は、私たちが罪の中で神様が見えなくなっていることを知っています。そしてそのことを憐れんで、それでもいいと言われます。そんな私たちのためにこそ、イエス様は来られたからです。イエス様は、私たちが罪を悔い改めたら赦してやろうと言われたのではありません。罪を知らない私たちのことを悲しみはしても、決して責めたり憎んだりはしません。イエス様は、十字架の上で、痛みと苦しみの中で、私はあなたを赦していると言われました。この言葉を私たちも受け止めましょう。

 次に39-43節です。

3. 私はあなたと共にいる (39-43)

39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

ここで初めて、イエス様の味方が現れました。それは、イエス様と一緒に十字架に架けられた二人の犯罪人のうちの一人でした。彼がどういう人だったのかは聖書には何も書かれていないので、何も分かりません。でも、彼とイエス様のやり取りは、私たちに大切なことを教えてくれています。彼は、これまでお話ししてきた、イエス様の語りかけをしっかり受け止めていました。自分の罪を知っていて、しかしイエス様はそれを赦してくださっている方だということを知っていました。だから、自分は十字架刑に値する罪を犯したという自覚がありながら、恐れずにイエス様に願いを打ち明けています。死んだらあなたと一緒にいさせてくださいと。これは私たちもしていいことです。罪を知り、イエス様の赦しを知り、イエス様と共にいたいと願うことです。イエス様の答えは読んだ通りです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
聖書の教える楽園は、単に苦しみも悲しみもない、死後の世界というわけではありません。イエス様と一緒にいるところが、楽園です。それはやがてこの世界に終わりが来て、イエス様がこの世界に戻ってこられるときに完全に実現する世界ですが、既に始まっているとも言えます。イエス様の愛によって私たちが神様を愛し、互いに愛し合うとき、神様の楽園が実現しています。だから、死んだら行くという場所ではありません。イエス様は、一緒に行きたいと願った犯罪人に、あなたは今日そこに私と一緒にいることになる、と言われました。それは、生死を超えて、私はあなたと共にいる、ということです。そして、あなたの体が死んでも、あなたは私と共に生きる、ということです。私たちもこの楽園に招かれています。今日ここで、イエス様は共にいて下さる方です。そして、私たちの体が滅びても、私たちはイエス様と共に永遠に生き続けます。
それでは、最後に、イエス様が息を引き取る場面を読みましょう。


B. 十字架がもたらしたもの(44-49)

44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

1. 罪の中でも主を信頼できる (参照:詩編22篇・31篇)

 イエス様の最期の言葉は、福音書によって少しずつ異なっています。一番有名なのは、マタイとマルコに記録されている、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉です。それとこのルカが記録する、「私の霊をあなたに委ねます」という言葉は矛盾しているように感じられるかもしれません。ヨハネ福音書ではさらに短く、「成し遂げられた」としか言われていません。どれが本当なのかと問いたくなりますが、答えはおそらく、どれも本当なのです。イエス様は十字架で、神様に見捨てられました。神様はイエス様を助けませんでした。イエス様は人間にされるがまま、殺されるがままでした。だから、「なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びは真実です。でも、それこそが神様の意志にかなうことでした。イエス様は、人間のされるがままに殺されることを自ら選びました。神様に見捨てられて苦しむことを受け入れました。逃げることもできましたが、そうしませんでした。それが神様の望みだったからです。だから、ルカ福音書の「私の霊をあなたに委ねます」という言葉も、ヨハネ福音書の「成し遂げられた」という言葉も、やはり真実です。

 もう一つ、イエス様の最期の言葉を聞く上で大切なことは、これらの言葉が詩編の歌にあるということです。「なぜ私を見捨てられたのか」という言葉は詩編22篇にあります。今日読んでいるルカの「私の霊をあなたに委ねます」という言葉は詩編31篇にあります。それは両方とも、苦しみの中で神様を信頼する歌です。イエス様は決して罪を犯しませんでしたが、罪に支配されているこの世界に来てくださいました。そして、本当は私たちが歌うべきこの歌を、共に歌ってくださいました。31篇の一部を読みましょう。

6 まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。私を贖ってください。7 私は空しい偶像に頼る者を憎み、主に、信頼します。… 10 主よ、憐れんでください。私は苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも、苦悩のゆえに衰えていきます。11 命は嘆きのうちに、年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ、骨は衰えていきます。12 私の敵は皆、私を嘲り、隣人も、激しく嘲ります。親しい人々は私を見て恐れを抱き、外で会えば避けて通ります。13 人の心は私を死者のように葬り去り、壊れた器と見なします。14 ひそかな声が周囲に聞こえ、脅かすものが取り囲んでいます。人々が私に対して陰謀をめぐらし、命を奪おうとたくらんでいます。15 主よ、私はなお、あなたに信頼し「あなたこそ私の神」と申します。

 私たちは、罪によって神様が見えなくなっていても、それでもあなたを信頼しますということができます。神様は黙っておられるのではなく、私たちの苦しみを共に苦しんで下さっています。イエス様と共に、私の霊をあなたに委ねます、と言いましょう。

2. 私たちを変え、歴史を変える力

 最後に、このイエス様の死によってもたらされた変化をお話しして終わりにしたいと思います。イエス様が十字架で死なれた時、神殿の垂れ幕が裂けたとありました。神殿の垂れ幕は、神殿の最も奥にある聖なる場所と人間を分断するためにありました。聖なる神様と罪ある人間は隔てられなければならなかったからです。でもイエス様が私たちのために死なれたということは、その幕はもうないということです。私たちと神様を隔てていた罪という壁は、イエス様が壊してしまいました。だから私たちは、罪の中で死ぬことなく、神様の愛に生きることができます。

 ただ、このことは三日後にイエス様が復活されたことによって初めて分かることです。イエス様を慕ってついてきた弟子たちや女性たちは、イエス様の最期を遠くから見届けながら、絶望に包まれていたはずです。それでも、イエス様の最期を見届けた人々の心に、何かが届いたのも事実です。ローマの百人隊長が神様を賛美し、群衆は感動しながら帰っていったとありました。彼らは、それまでイエス様のことを自分とは関係ない犯罪人だと思っていたはずなのに、この人は何かが違う、人間を超えた力がこの人に働いているということを感じていました。イエス様の何が特別だったのか、なぜそれに心を動かされるのか、その答えは復活の後に分かることになります。そして、その答えがさらに人の心を動かし、私たちにまで届けられました。イエス様によって人生を変えられた人たちが、また別の人の人生を変え、歴史を変えてきました。私たちの罪との戦いは一生続きますが、十字架からのイエス様の声に耳を傾けましょう。そして、罪の中で死ぬことなく、神様を愛して、人々を愛して生き続けましょう。


メッセージのポイント

イエス様は、十字架刑の苦痛と人々からの嘲りの中でも、誰も責めることはありませんでした。反対に、自分を苦しめる人たちのために祈っています。そして、私たちすべての罪を清算するために自分の命を捧げて下さいました。私たちの罪の性質は変わらず、この世界には憎しみ、争い、苦しみが尽きませんが、イエス様はその罪の支配を終わらせてくださいました。罪の中でも、共にいてくださるイエス様に信頼しましょう。


話し合いのために

1)私たちの罪の性質は変わらなくても、イエス様の死によって罪の支配は終わったとはどういうことですか?
2)イエス様の言う「楽園」とは何ですか?


子供たちのために

34節のイエス様の祈りに注目してみてください。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」誰かにいじめられたり、いじわるをされたりしたら、怒ったり悲しくなったりするのが普通です。イエス様も悲しかったはずですが、怒ることはしませんでした。自分に悪いことをする人を憎まないでいることは難しいことです。イエス様にそれができたのはイエス様が神様だから、と言ってしまえば簡単ですが、イエス様は人間でもあります。なぜイエス様は悲しみや怒りに負けなかったのでしょうか?答えは出なくてもいいので、話し合ってみてください。