2017/4/23 イエス様と共に死に、イエス様と共に生きる

池田真理

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イエス様と共に死に、イエス様と共に生きる

(ルカによる福音書 23:50-24:12)


 先週はイエス様の復活を祝うイースターでした。今週からまたいつものシリーズに戻りますが、ルカによる福音書のシリーズではもう少しイースターが続きます。イエス様が復活された後の出来事について、今日も入れてあと3回読んで、ルカ福音書は終わります。今日読む箇所は、イエス様の死の直後に戻り、復活の直前の出来事から始まります。イエス様はユダヤ人の習慣に従って埋葬されることになりました。23:50-56を読んでいきます。


A. イエス様と共に死ぬ

23:50 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、51 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。52 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、53 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。54 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。55 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、56 家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

1. ヨセフと女性たち、弟子たち

 イエス様が十字架上で息を引き取ったのは、金曜日の午後でした。ユダヤ人の安息日は土曜日です。はっきりしたことは分かりませんが、安息日に十字架刑にされた犯罪人をそのままにしておくことはユダヤ人の掟で禁じられていたようです。特に、死んだ人の遺体をそのままにしておくことはできなかったようです。ですから、イエス様の遺体はそのままいけば、犯罪人用の墓地に運ばれるか、良くて一般の人の共同墓地に入れられることになったはずです。でもここで、アリマタヤのヨセフという人が登場して、イエス様の遺体は彼によって引き取られ、身分の高い人用の新しい墓に納められました。それは金曜日の夕方でした。イエス様と旅を共にしてきた女性たちはこの様子を見ていて、埋葬の準備をしたとあります。香油や香料を遺体に塗るのは、死体の防腐処理のためではなく、死者への敬意を表すためだったそうです。ヨセフも女性たちも、自分たちがイエス様のためにできる、最後の弔いのつもりだったでしょう。ここに弟子たちは登場しません。後で出てきますが、彼らはユダヤ人たちに捕まることを恐れて、家の戸口に鍵を閉めて隠れていました。そして、そのまま、それぞれ土曜日の安息日を迎え、一日が過ぎて行きました。次の日、日曜日の朝には、イエス様は復活することになります。
ここで今日は考えたいことがあります。なぜ神様は、イエス様の十字架の死から復活までに三日間をかけたのでしょうか?正確に言えば、丸一日を、しかもユダヤ人の安息日を、間に挟んだのでしょうか?その答えは、究極のところは神様にしか分かりません。でも、一つだけ私たちにも答えられることがあります。それは、ヨセフも女性たちも弟子たちも、イエス様の死を彼ら自身が体験しなければならなかったということです。イエス様の苦しみの一部を、自分のものとして経験しなければならなかったということです。彼らは、イエス様を神様からの救い主メシアだと信じてきたのに、そのイエス様は目の前で残酷な方法で殺されてしまいました。しかも、そうなったのは自分たちにも責任があると分かっていました。助けようともせず、逃げ出して、遠くから見ていただけでしたから。彼らは、自分がしてしまった過ちを後悔し、それが取り返しのつかないということに絶望していたはずです。安息日は彼らにとっては神様の恵みを感謝する一日ですが、その時の彼らに神様に感謝を捧げることは無理だったでしょう。神様はどこにいるのか、神様は何を考えておられるのか、恵みの神は本当にいるのか。彼らは混乱していたはずです。それは、イエス様が十字架の上で置かれた状況に似ています。神様に見捨てられたという絶望です。イエス様は、逮捕されてから十字架で死なれるまで、この絶望を味わいました。同じ苦しみと絶望を、弟子たちはイエス様の死によって体験しました。もっと長くても良かったのかもしれませんが、神様はその期間を丸一日だけにしました。

2. 私たち

 私たちもイエス様の死を自分で体験する必要があります。弟子たちが丸一日味わうだけで済んだように、私たちもその苦しみをずっと味わわなければいけないわけではありません。でも、自分のこととして知らなければいけないことです。
それはまず、イエス様が死なれたのは私たちのためだったと、知ることから始まります。私たちはみんな、神様に頼らずに生きられない存在なのに、神様を捨てました。自分は神様を頼らなくても生きていけると思うのは、勘違いです。自分が今一番頼っているもの、一番大切にしているものが、自分の一生を正しく導いてくれるかどうか、ぜひ考えてみてください。反対に、人生の目的が分からず、何を信じて進めばいいのか分からないと思っているなら、その感覚は間違っていません。私たちが本当に頼るべきもの、人生を委ねて安全なものは、自分でも誰かでもなく、神様しかいません。それなのに、私たちはどうしても神様を否定したくなる性質を持っています。それが私たちの罪であり、この性質に従って、私たちは神様を拒んできました。その結果、間違った判断によって誰かを傷つけ、自分も傷つきます。そして、最終的には神様に見捨てられて、死ぬしかありません。そんな結末を食い止めるために、イエス様は私たちの身代わりになって死なれました。このことを、私たちはまず自分のこととして知らなければいけません。そして、何度でも思い出す必要があります。神様を嫌うのは、私たちの罪であり、私たちの古い性質です。この古い性質を持った私たちは、イエス様と共に死ななければいけません。
もう一つ、私たちが知らなければいけないのは、私たちはイエス様と共に苦しんでいるということです。イエス様を苦しめて殺したのも私たちの罪なのに、その私たち自身も苦しんでいるというのは矛盾しているようですが、それが罪のもたらす現実です。神様はどこにおられるのか、なぜ助けてくださらないのか、なぜ私を見捨てたのか。前回の十字架の場面でもお話ししましたが、この叫びはイエス様の叫びであり、私たちの叫びでもあります。もし、これまでの人生を振り返って、神様がいるとしたらひどい神様だと思っているなら、神様はあなたの人生を遠くから眺めて楽しんでいるのではなく、一緒に苦しんできたと知ってほしいと思います。あなたを苦しめてきた人たちの罪を、神様は知っています。先にお話しした通り、あなたにも罪がありますが、他の人たちの罪について、あなたに責任はありません。神様は、あなたが味わう必要のない苦しみを味わっている時、共に苦しんでいました。イエス様がその証拠です。イエス様は、何の罪もなかったにもかかわらず、人々にも神様にも見捨てられ、絶望のうちに死にました。それは、私たちが感じる絶望と同じです。だから、人に傷つけられ神様にも見捨てられたと思う時、私たちはイエス様の絶望を味わっていると言えます。でも、少し先取りになってしまいますが、イエス様は復活されたので、この絶望はもう過去のもので、恐れる必要はありません。絶望は、イエス様が十字架で死なれた時に、一緒に終わったのです。絶望してしまうのは、私たちの古い姿です。この古い私たちも、イエス様と共に死ななければなりません。
私たちの罪との戦いは続いていて、その中で苦しみもあります。でも、罪と罪のもたらす絶望は、イエス様が十字架で担ってくださいました。だから、罪と絶望はもう古くなりました。イエス様と共に、この古い自分に死にましょう。
では新しい私たちはどう生きるのか、続きを読んでいきたいと思います。


B. イエス様と共に生きる

1. イエス様は復活したという事実

24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 女性たちは、イエス様への最後のお世話だと思ってお墓に向かったのに、お墓にはイエス様の遺体はありませんでした。かわりに天使たちに出会い、イエス様は復活したと告げられました。このことを11人の使徒たちも女性たちから聞きましたが、誰も信じませんでした。お墓を見に行ったペテロも、確かに遺体がなくなっていることは確認したものの、何が起こったのかは理解していません。女性たちもまだ完全には分かっていませんでした。彼らがイエス様の復活の意味を理解するのは、復活したイエス様自身に彼らが会ってからです。そのことは次のところでお話ししたいと思いますが、私たちは先にここで、イエス様が復活した意味を考えておきたいと思います。
今日前半でお話ししてきた通り、イエス様は死ななかったわけではなく、確かに一度死にました。そうしなければ私たちを救うことはできなかったからです。でも、死んだままではありませんでした。生き返って、罪の力も死の力も神様には勝てないということを証明しました。イエス様は罪の力にも死の力にも勝利したということです。そして、罪と死に終わりを告げ、永遠の命を私たちに与えて下さいました。前半で、私たちは罪と絶望には死ななければいけないとお話ししました。その代わりにイエス様の復活を通して私たちに与えられたのは、神様の愛に生きる人生です。虚しいものを追いかける人生ではなく、神様を愛して、神様を追いかける人生です。そして、神などいないと思われるような絶望の中にこそ、神様は共にいて、私たちと共に苦しみ、愛してくださっていることを知る人生です。この人生は、肉体が死んでも、神様の愛の中で永遠に続きます。神様は、イエス様を通して証明されたように、死を超えて永遠に生きておられ、私たちを愛しておられる方です。私たちは、体がある間も、なくなってからも、この神様と共にいることができます。それが、イエス様の復活によって私たちに与えられた、新しい生き方で、新しい命です。
天使はイエス様のお墓にやってきた女性たちに言いました。「なぜ生きている方を死者の中に探すのか。」私たちは、自分の罪と絶望によって、大切なものが見えなくなってしまうことがよくあります。今日、これまでお話ししてきたことを聞いても、自分には遠いことのように感じる方もいるかもしれません。でもそれは仕方のないことでもあります。イエス様が復活したと天使たちから聞いた女性たちも、そのことを女性たちから聞いた弟子たちも、すぐには信じられませんでした。私たちは誰も、他の誰かに言われて、この新しい生き方を始めることはできません。私たちは、一人ひとり、自分でイエス様に出会わなければいけないのです。でも、それは決して難しいことではありません。イエス様の方から会いに来てくださっているからです。
イエス様の遺体がなくなっていることを知った女性の中に、マグダラのマリアという人がいました。ヨハネによる福音書には、このマリアが復活したイエス様と出会ったときのことが書かれています。20:11-16を読みます。

2. 生きているイエス様に出会う (ヨハネ 20:11-18)

20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

 イエス様は復活された後、このマグダラのマリアに現れ、その後40日間に渡って弟子たちに現れましたが、40日後には天に昇って行かれ、人間の目には見えなくなりました。ですから、私たちは今は目に見える姿のイエス様に会うことはできません。でも、イエス様に出会う方法は、私たちもマリアも同じです。マリアがイエス様に気がついたのは、イエス様に自分の名前を呼ばれたときでした。私たちも、イエス様が私のことを知っていると分かるときに、イエス様に出会います。イエス様が生きているのだと分かるということです。それは、一人ひとり違う経験です。劇的な経験をする人も中にはいますが、多くはその人にしかわからないような、日常の中での経験です。他の人にはわからなくても、自分にははっきりと分かります。イエス様は私のことを知っていて、人間には与えられない深い愛で愛してくださっていることが分かります。一度それが分かると、この人と共に生きていきたいという願いが自然に起こります。私たちはみんな、そういうふうにしてイエス様との歩みを始めました。そして、今までこのことを知らなかった皆さんが今日ここにいるのは、先にこのことを知った人たちが、ぜひ皆さんにもこういう生き方があると知ってほしいと願っているからです。イエス様は、私たち一人ひとりに分かる方法で教えてくださいます。どうぞイエス様に期待してください。

3. イエス様と共に生きる

 今日は最初に、イエス様と共に死ぬというお話をしました。それは、罪と絶望の中に生きてきた古い自分に死ぬということです。言い換えれば、私たちはもう自分の罪と絶望の中で生きる必要はないということです。そのかわりに、イエス様と共に生きる命を与えられています。それは、私たちの中には決して見つけることのできない、生きる力です。神様に愛されて、肉体の死を超えて生きるという希望です。イエス様に出会い、神様の愛を知り、尽きることのない希望を持ちましょう。私たちは日々、新しい命をいただき、生まれ変わることができるようにされています。今日も生きておられるイエス様と共に生きましょう。


メッセージのポイント

イエス様は私たちの罪のために死なれました。私たちは自分の罪がもたらす苦しみを知り、イエス様と共に古い自分に死ななければなりません。でも、それはイエス様と共に永遠に生きる新しい命の始まりです。イエス様は死に打ち勝って、罪と死の力に支配されない生き方を私たちに与えてくださいました。イエス様は生きておられるということを自分で体験し、他の人にも伝え、イエス様と共に生きましょう。


話し合いのために

1) イエス様と共に死ぬとは?
2) あなたはどのようにイエス様は生きておられると体験しましたか?


子供たちのために

ヨハネ20:11-18の方が分かりやすいかもしれません。イエス様は本当にいる、私/僕と一緒にいる、という体験を子供たちはしているでしょうか?誰かに言われたから信じるのではなく、自分でイエス様に呼びかけることができ、イエス様は一人ひとりに答えてくださる方だということを教えてください。私たちもマグダラのマリアと同じように、イエス様は生きているということを自分で体験するまでは、イエス様に本当に出会っているとは言えません。みんなもそういう経験を重ねるように、すすめてください。難しいことではなく、ただイエス様に呼べば答えてくださるはずです。