2017/5/14 主の家に住む

永原アンディ

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主の家に住む (詩編 27:1-6)



 今日のテキストは詩編27編の前半です。この詩は前半と後半でずいぶん雰囲気が異なります。前半では主に対する確信と希望を歌っているのですが、後半は困難な状況の中で、主に向かって助けを求める内容です。それで、学者の中には元々違う詩だったのではないかと考える人々もいるほどです。しかし、主に従うということはまさに、どれほど大きな困難の中にあっても、主を信頼して歩み続けることなのです。主に叫び求めるのは信頼していないからではなく、むしろ主が答えてくださることを知っているからです。そのことが実感できる2部構成になっているので、今週は今日の部分だけでなく後半も通して読み直してみてください。それではまず全体を読んでみましょう。

【ダビデの詩。】主はわたしの光、わたしの救いわたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦わたしは誰の前におののくことがあろう。 さいなむ者が迫りわたしの肉を食い尽くそうとするがわたしを苦しめるその敵こそ、かえってよろめき倒れるであろう。 彼らがわたしに対して陣を敷いてもわたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来てもわたしには確信がある。(1-3)

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り主を仰ぎ望んで喜びを得その宮で朝を迎えることを。(4)

災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。(5-6a)

わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ主に向かって賛美の歌をうたう。(6b)


A. 主に対する信頼 (1-3, 5-6a, ヨハネ 8:12, 12:36, マタイ 5:14, イザヤ 60)

主はわたしの光、わたしの救いわたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦わたしは誰の前におののくことがあろう。

 詩人と私たちの置かれている状況とは違います。また私たちにしても、それぞれが置かれている状況は異なります。でも自分ではコントロールできない問題を全く持たない人はいません。自分だけがと思いがちですが、それぞれに苦しみや恐れがあるのです。次回にお話しする後半では、詩人が神様へ叫ぶしかないような苦難の中に置かれていることが記されています。苦難の中にあって詩人は神様への信頼をどう表現しているでしょうか?彼は、主はわたしの「光」「救い」「命の砦」と言っています。私たちは詩人と同じように神様を信頼することができます。危険から救い出してくださる。命を守ってくださる。希望と導きとなってくださるのです。今日、特に注目したいのは「光」です。「主はわたしの光」という表現は旧約聖書の中ではとても珍しいのです。ここ以外にはミカ書 (Micah 7:8) に一回出てくるだけです。ところが新約聖書では、多くの箇所で、主あるいは神様が光と表現されています。さらに、ヨハネによる福音書ではイエス自身が「わたしは光」と言っています。

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ 8:12)

 イエスは暗闇のように先行きはおろか、自分の立っているところさえはっきりわからないような状態に差し込んでくる魂の光です。私たちは、イエスによって自分の過去、現在、未来を示されます。確信を持って、喜んで歩けるようになる。それだけでも嬉しいことですが、もっと素晴らしいことがあるのです。それは私たちもイエスを信じることによって光となるということです。イエスはこのように勧めています。

光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。(ヨハ 12:36)

あなたがたは世の光である (マタ 5:14) 

 あなたが光源ではありません。光を受けてその光で人々を照らすことができる、ということです。日の光で輝く月のように、主の光を反射して輝く光です。このことはイエスが突然言い出したことではなく、預言者イザヤを通して預言されていたことでした。今日は読む時間がありません。ぜひ今週イザヤ書60章も開いてみてください。主は光、私たちも光の子となり、輝く存在になれることをわかりやすく説明してくれています。主が共にいて守り、導いてくださるという確信を詩人は次のように言い表します。彼の置かれている状況が困難であること、それでも主に信頼を置いていることがわかります。

さいなむ者が迫りわたしの肉を食い尽くそうとするがわたしを苦しめるその敵こそ、かえってよろめき倒れるであろう。 彼らがわたしに対して陣を敷いてもわたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来てもわたしには確信がある。(2、3)
災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。(5-6a)

 私たちは詩人より恵まれています。主をイエスとして、詩人よりはっきりと知っているからです。あなたの主であるイエスを信頼してください。


B. ただ一つ主に願うこと (4, エフェソ2:19-22)

 詩人はこの確信を保ち続けるために必要なことも教えてくれています。4節を読みましょう。それはあなたが生涯にわたって主の家に住むこと。主を見上げて喜びを与えられ、新しい1日を始めることです。4節を読みます。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り主を仰ぎ望んで喜びを得その宮で朝を迎えることを。

 「主の家」という表現は、先に取り上げた「主は光」と対照的に旧約聖書だけにみられます。それも広い意味で使われています。今日のテキストでは、生涯にわたって身を置くべきところと指していますが、以前にお話しした23編では、いつか入ることのできるところを指しています。そして一般的には実際の建物である神殿を指す言葉です。ところが新約聖書には主の家という表現が全くありません。私には神様の、私たちが神殿についての誤った認識を持たないための配慮だと思えます。イエスは何度も、建物ではなく私たち自身が「神殿」なのだと言われました。目に見える立派な建物に主が住むのではないということです。しかしそれは私たちがバラバラにそれぞれ主の家だという意味ではありません。エフェソの信徒への手紙でパウロはこう説明しています。

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(エフェソの信徒への手紙 2:19-22)

 お話ししてきたように、主の家はこのビルディングではありません。地球上のあらゆる国からここに集い互いに組み合わされて、今も成長を続けている未完成のこのコミュニティーです。人の神経細胞の複雑な配線は生まれた時から完成しているわけではありません。成長過程の中で完成に向かいます。神の住まいである私たちも同じです。私たちが共に集って礼拝するのはこのためです。健康な形で主につながるということは一人でできることではないからです。


C. 私たちの決意 (6b, ホセア 6:6, ローマ 12:1)

それでは最後に、この主の家で私たちがすることについてお話しします。6節の後半を読みます。

わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ主に向かって賛美の歌をうたう。

 私たちも週の初めに共に集っていけにえをささげます。しかし私たちは主が望まれるのは動物のいけにえではないことを知っています。預言者ホセアは

わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア6:6)

という神様の言葉を預言しました。ユダヤの宗教指導者たちは、この預言をずっと無視してきましたが、イエスはこの預言を引用して二度も教えられました(マタイ 9:13, 12:7)。パウロはローマの信徒への手紙12章1節で

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

と教えています。私たちが主と共にいること、主から十分な霊的な栄養をいただくために必要なことを皆さんはもうお分かりだと思います。それはこの週の初めの日に、心を込めて礼拝すること、主に向かって歌うことです。毎週、主の中で、魂に十分な休みと力を得て、毎日、働きの場に出てゆくのです。
今日も主に向かって礼拝と賛美を捧げましょう。ここからが礼拝のメインパートです。聖書のメッセージも礼拝の一部です。皆さんが神の言葉を受け取るために、私たちは手を抜かずに準備しています。しかし私たちユアチャーチはメッセージは礼拝の中心とは考えていません。ここからは、歌と音楽を通して主と語り合う時です。心の思いを主にぶつけてください。そして、主からの応えを受け取ってください。まだ皆さんは今の時点では礼拝の恵みの半分以上を受け取ってはいません。他のことを全部脇に置いて、主に声を届けましょう。主の声を聞きましょう。


メッセージのポイント

状況が困難であればあるほど、主への信頼が大きな力となります。私たちの主は必要な時には必ず事態に介入してくださいます。こちらで具体的な指示をしなければ動かないような方ではありません。言葉を重ねて多くを祈ることより、決して忘れてはいけない、主に願うべきことがあります。主の家に住むことです。それは自分の全ての営みの中心に主にいて頂くということです。


話し合いのために

1) 主の家はどこにありますか?
2) どうしたら主の家にすみ続けられますか?


子供たちのために

週の始め、1日の始めを礼拝ではじめることの素晴らしさを伝えてください。そこでいただける神様の力が、日々の歩みを助けてくれます。両親とともに捧げる短い礼拝から1日を始めることを勧めて下さい。家庭も教会も主の家の一部です。