2017/6/18 正しい怒り

池田真理

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正しい怒り(ガラテヤの信徒への手紙1:1-5)


 今日からガラテヤの人々への手紙を読んでいきたいと思います。数ページしかない短い手紙ですが、2千年の教会の歴史の中で大きな影響力を持ってきた手紙です。それは、この短い手紙の中に、私たちの信仰で一番大切な部分からぶれてはいけないという警告が繰り返されているからです。今日は最初の5節だけを読むので、具体的な警告の内容には入っていきません。短いので最初に全部を読みたいと思います。でも、この最初の5節だけでも、ちょっととげとげしいものがすでに現れています。この手紙を書いたパウロの怒りが最初からにじみ出ています。ガラテヤの人々への手紙1章1-5節です。

1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、2 ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。


A. 教会の危機を救うために
1. パウロの怒り

 この手紙をガラテヤの人たちに送ったのは、ここに書かれてある通り、パウロです。パウロはイエス様と直接行動を共にした弟子の一人ではありませんが、イエス様の復活後に不思議な方法でイエス様と出会って、イエス様を信じるようになった人です。そして、ペテロたちと同時代に、今のイスラエル、シリアから、トルコ、ギリシャ、イタリアを旅して、イエス様のことを人々に教え、各地に教会を起こしました。でも当時は、聖書といえば旧約聖書しかなく、イエス様のことを記録した福音書はありません。ですから、イエス様のことを知るための手がかりはペテロやパウロたちのような人の言葉を通して、つまり口伝えでしか知ることはできませんでした。そのために様々な誤解や混乱が生じました。パウロが各地の教会に手紙を書き送ったのはそのためです。イエス様を信じるということについて、自分がいない間に人々が大きく間違えることがないように、それぞれの教会の具体的な問題に合わせて細かな指示を書き送りました。そんなパウロの手紙が聖書の中に収められて、当時の教会だけでなく、時代に関わらずに普遍的に大切なことを教えてくれるものとして読まれてきました。このガラテヤへの手紙も、そんなパウロの手紙の一つです。

 今読んだように、手紙の最初の部分で誰々から誰々へというあいさつがあるのは、他のパウロの手紙でも同じです。でも、このガラテヤは他とは明らかに違う点がいくつかあります。まず、1節で「人々からでもなく、人を通してでもなく」自分は神様によって使徒とされたのだと言っています。自分は使徒パウロであるということは、他の手紙でも言われていることですが、そこにこの「人々からでもなく、人を通してでもなく」と付け加えられているのはガラテヤだけです。しかも、「人々からでもない」ということと「人を通してでもない」ということは、特に違いはありません。なぜこのことを強調したかったのかは、この手紙を通して少しずつ明らかにされていきます。ただ、手紙の最初の1行目からすでに、パウロは自分の主張を抑えることができなかったということが分かります。それは、この後の6節で言われていることからも分かります。

1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、他の福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。

パウロは、ガラテヤで起っている問題に危機感を持っていました。そして、怒っていました。その怒りが、冒頭のあいさつにもにじみ出て、最初からけんか腰のあいさつになってしまったということです。

 普通でないのは1節だけではありません。5節も、皆さんも読んで違和感を感じたかもしれません。このまま手紙が終わってしまうような印象を受けないでしょうか?普通は、こういう言い方「神様に限りなく栄光がありますように」は祈りの最後や手紙の最後に言われることです。それをなぜか、冒頭のあいさつの終わりに言っています。その理由は後で考えたいと思いますが、ここにも、パウロの危機感が表れていると言えます。パウロは、本当にこの手紙を結ぶ時にはこう言っています。

6:17 これからは、だれも私を煩わさないでほしい。

もし、この手紙が聖書の一部として2千年にわたって読まれるとわかっていたら、パウロはこんな感情的な書き方はしなかったかもしれません。でも、だからこそこの手紙は生の声であり、教会の危機を救おうとしたパウロの思いが伝わってきます。パウロは、ガラテヤの教会が置かれている危機的状況に対して、冷静に穏やかに対処したのではありませんでした。それは言い換えるなら、私たちも、パウロのように怒らなければならない時もあるということです。

 実は、おそらくガラテヤの人々はこの手紙に書かれているパウロの助言に従いませんでした。そして、そのまま歴史から消えてしまった可能性があります。だから、私たちにとってもこの手紙のパウロの言葉に耳を傾けることは、とても重要なのです。少しだけガラテヤの教会のことをお話ししておきたいと思います。

2. ガラテヤ地方の教会の状況 (2)

 2節でパウロは、この手紙の送り先を「ガラテヤ地方の諸教会へ」と書いています。ガラテヤ地方はだいたい今のトルコのアンカラのあたりです。そのあたりの一つの教会ではなく、いくつかの教会にあてられた手紙だということです。パウロがどのようにガラテヤ地方で活動したのかは、聖書の中でこのガラテヤの手紙以外には非常に限られた記録しかありません。使徒言行録にも、ただそこを通った、そこでも教えて回った、と一言しか言われていません。(使徒16:6と18:23)ただ、ガラテヤの教会がパウロの助言を聞き入れなかったと推測できる根拠が一つあります。それは、パウロの他の手紙で、途中からガラテヤの名前が登場しなくなってしまっていることです。(Iコリ16:1とローマ15:26)決定的な根拠ではありませんが、その後の歴史的資料にもガラテヤ地方の教会というのは登場しないため、聖書学者たちはおそらくガラテヤでのパウロの宣教は失敗したのだろうと考えています。

 こう言うと、パウロが悪くてパウロが負けてしまったようですが、そうではありません。この手紙は、ガラテヤの人たちを説得することはできなかったかもしれませんが、その後2千年にわたって多くの教会を導きました。今からちょうど500年前に宗教改革を起こしたマルティン・ルターも、ガラテヤ書に大きな影響を受けていたと言われています。ガラテヤの教会が持っていた問題は、いつの時代にも、形を変えて私たちが直面する問題です。それは、さっき読んだ6節のパウロの言葉で触れられていましたが、本当の福音とは違う福音です。イエス様を信じるということは本当はシンプルなことですが、人間はすぐにそれに色々付け加えて、本質を変えてしまいます。ガラテヤの教会で起こっていた問題は、イエス様を信じる上で何が必要か必要でないかについての問題でした。イエス様を信じるか信じないかではなく、信じる上で何が必要か、です。つまり、問題は信じている人たちの間で起こったのであり、教会の内側で起こったということです。いつの時代も、福音を福音でなくさせるのは、福音を信じている人たちなのです。私たちは、イエス様を信じているつもりで、いつの間にか「信じているならこれがこれをやるべき、これはやらないべき」と自分にも他人にも押しつけるようになります。パウロは、それがいかに間違っているかを、誰よりも早く見抜いて、私たちに警告してくれました。パウロの怒りは、私たちを正しく導くために必要な正しい怒りだったということです。

 具体的な問題については、これからこの手紙を通して少しずつお話ししていくことになりますが、今日は、私たちがパウロに従って、自分たちの間違いを見抜くことができるためにどうすればいいのかを考えておきたいと思います。それは、すでに触れた、1節と5節に現れているパウロの態度から分かります。


B. 人ではなく神様に従うために
1. 人の権威によらず、神様の権威による (1)

 1節でパウロは、自分は人間の誰かに選ばれて使徒となったのではなく、神様によって立てられたのだと強調しているとお話ししました。手紙の冒頭からこのことを強調するのは、ガラテヤの教会の事情があったからですが、このパウロの確信は私たちすべてに必要なものです。パウロはこの確信に基づいて、10年以上行動を共にしたバルナバと別れました。ペテロとも対立しました。このこともこの後この手紙で語られていくことです。彼は、イエス様の愛を正しく伝えるためなら、友人を批判することも恐れませんでした。多くの人に尊敬されている人でも、自分自身が尊敬している人でも、イエス様に優ることはないと確信していたからです。そして、イエス様の愛を少しでも小さくしたり歪めてしまうような人間に対しては、少しも妥協しませんでした。それによって、パウロは孤立したことも少なからずあったと思います。世渡りの上手な人なら避けていく衝突を、あえて自分から引き起こすような人だったのだと思います。大体そういう激しい人は仲間内でも煙たがられてしまいますが、まだ福音書もないような最初期の教会の時代には、彼のような人が必要だと神様は知っていたのだと思います。

 私たちも、一人ひとりイエス様と出会い、神様の愛を知りました。神様が本当におられ、自分を愛しているということは、一人ひとりが自分で体験して知ることです。具体的に祈りが聞かれることかもしれないし、祈りが聞かれなくてもイエス様が共にいてくださるという確信を与えられることかもしれません。一人ひとりの体験は具体的な生活の中で起こることで、他の人からは見えないことの方が多いと思います。でも、私たちは確かに、聖霊様によって一人ひとりに確信が与えられます。その確信は、人間に与えられるものではありません。神様にしか与えられないものです。そして、一度与えた確信を保ち、成長させてくださるのも神様です。私たちは互いに励ましあうことはできますが、最終的に決めるのは自分一人と神様の関係の中でのことです。この一対一の関係を邪魔できる人は誰もいません。牧師であってもリーダーであっても、他の教会では長老や役員という呼び方をされている人であっても、誰も一人一人と神様の関係に邪魔はできません。また邪魔をさせてはいけません。私たちはみんな、一人ひとり、自分と神様の関係の中で、何が正しくて何が間違っているのかを判断しなければいけないし、判断できるようにされています。その中で、自分が尊敬している人が間違った道を歩もうとしていることに気が付くかもしれません。励まし合ってきた仲間が、神様を悲しませる過ちを犯していることに気が付くかもしれません。そんな時必要なのは、波風を立てずに黙っていることではありません。勇気を持って、正面から間違いを正すことです。それが神様の意志にかなうことなら、たとえ相手が受け入れなくても、無駄になることは決してありません。このガラテヤの手紙がそうであるようにです。パウロのように、それによって友人を失うことになったとしても、別の多くの人を救うことになるかもしれません。ルターのように、大多数の人から非常識扱いされたとしても、戦わなければいけない時があるかもしれません。

 ただし、最後に、全てにおいて欠かしてはならない祈りがあることを覚えておきたいと思います。それが、パウロが5節で言っていることです。

2. 神様の栄光のためだけに (5)

わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。

 最初の方で、これは普通は手紙の結びや祈りの最後に言われる言葉なので違和感があるとお話ししました。もしかしたら、ここにほんの少しだけパウロの迷いが表れているのかもしれないと思います。パウロは、この手紙によって起こるであろう反論と分裂を予想していたはずです。それでも言わなければいけないことが分かっていました。パウロは自分の主張が正しいと信じていましたが、自分の正しさを証明するためにこの手紙を書いたのではありませんでした。パウロにとって重要だったのは、自分の正しさではなく、神様の正しさです。そして、自分が認められることよりも、神様が正しく理解されることです。そのことを、手紙の最初で言葉にしておかずにはいられなかったのが、この5節になったのではないかと思います。

 私たちはどこまでいっても罪人である人間にすぎません。神様の愛を実現するために、神様のために行動しなければと思う時に、どこかで間違える危険は常にあります。神様のためにというのが、いつの間にか自分のためになってしまう危険です。それを恐れていたら何もできないのですが、それを恐れずには何もするべきではないとも言えます。私たちにできることは、全てにおいて「神様に栄光がありますように」と祈り続けることです。何をするにしてもしないにしても、それが神様に栄光をもたらすのかどうか、神様をたたえることになるのかどうか、祈り求めるということです。それは答えが完全に出るまで待つという意味ではありません。祈りながら、失うものを恐れずに、始めるということです。神様は私たちの祈りを聞いています。そして、私たちの迷いを確信に変え、確信を情熱に変えて、パウロのように力強く生きることができるようにしてくださるはずです。

 私たちは一人ひとり、「人々からでもなく、人を通してでもなく」、神様によって選ばれています。そして、正しい怒りを持って、自分自身と自分の周りの人々を正しい道に導くことができます。それは全て、私たちを愛して呼んでくださった神様に栄光をもたらすためです。


メッセージのポイント

パウロはガラテヤの人々を危機から救うために、彼らに対して怒りを隠しませんでした。彼らがイエス様から離れ始めていると知っていたからです。私たちもお互いに対して間違いを正す責任があります。私たちは、人間の権威にではなく神様の権威に従っています。神様の愛に反することであれば、たとえ相手が聞き入れないとしても、断固として「ノー」と言わなければいけない時があります。それは決して自分勝手な怒りではなく、神様の愛が実現するために必要な正しい怒りです。

話し合いのために

1) なぜパウロの怒りは正しい怒りだと言えますか?
2) どうやって正しい怒りとそうでない怒りを見分けますか? 

子供たちのために

子供達はいつも「けんかしちゃだめ」と言われていると思います。でも、パウロは実はこのガラテヤの手紙でけんかをしていると言えます。神様は、私たちに誰とでも仲良くしてほしいと望まれていることは本当ですが、同時に、間違っていることにははっきり間違いだと言わなければいけないと言われています。「間違っていること」とはなんでしょうか?神様がけんかしなさいと言うのはどういう時でしょうか?答えがはっきり出なくてもいいので、できたらみんなで話し合ってみてください。