何を信じて生きるのか

池田真理

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何を信じて生きるのか (ガラテヤ 6:11-18)

Otto Greiner [Public domain], via Wikimedia Commons

 

A. 何を信じて生きるのか (11)

11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。

 この手紙が書かれた当時、手紙は口述筆記の形をとることが多かったそうです。おそらくパウロも、ここまでは自分で書いたのではなく、自分が言うことを誰か他の人に書き取ってもらっていました。でも、手紙を終えるにあたって、改めて、「これは私があなた方に向けて書いているのだ」ということを強調するために、自ら書くことにしたようです。しかも「こんな大きい字で」と言っています。手紙の途中で筆跡が変わり、字が大きくなったら、誰でも注意を引かれます。パウロがどうにかして、最後まで、自分の思いをガラテヤの人たちに伝えたいと願っていたことがうかがえます。パウロが伝えたかったことを、私たちも最後までよく聞き届けたいと思います。それは、この手紙を読んだあなたは、今何を信じて生きようとするのか、という問いです。12-13節にすすみます。

 

1. 人間の力を信じるのか (12-13)

12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。

 何を信じて生きているのか、ガラテヤの人たちに尋ねたら、彼らは「もちろんイエス様を信じています」と答えたでしょう。また、彼らに割礼を受けるように教えていたユダヤ人たちに聞いても、同じように「私たちもイエス様を信じて生きています」と答えたでしょう。でも彼らの問題は、イエス様を信じると言いながら、人間の力も信じていたことです。彼らはそこに矛盾を感じませんでしたが、それは大きな間違いでした。人間の力を信じることと、イエス様を信じることは、決して両立することはありません。私たち人間は誰でも、神様からすれば、どうしようもない罪にまみれた存在です。イエス様を信じるということは、この自分の罪深さに絶望して初めてできることです。ガラテヤの人たちも、彼らに割礼を勧める人たちも、自分の罪深さを甘く見ていました。自分の罪に対する絶望が足りなかったということです。その結果、自分の力に頼り、神様よりも人間を頼りました。そして、自分たちがイエス様の恵みを妥協していることにも気が付きませんでした。

 

2. イエスの十字架を信じるのか (14)

14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

 ここで少し注目したいのは、パウロがここで「わたしたちは」ではなく「わたしは」と言っている点です。これはまず、12-13節の割礼を勧める人たちと自分は違う、と言いたかったのだと思います。でも同時に、ガラテヤの人たちとも距離を置いているとも言えます。つまり、パウロはここでこう宣言していることになります。彼ら(割礼を勧めるユダヤ人たち)が何を信じていようと、また、あなたたち(ガラテヤの人々)が何を信じようと、私はイエス・キリストの十字架だけを信じるのだ、と。パウロはもちろん、ガラテヤの人たちにも同じようにイエス様の十字架だけを信じてほしいと、繰り返し訴えてきました。でも、手紙を書き終えるにあたって、少しトーンを下げて、私はこう信じるが、あなたたちはどうするか、と問いかけているのだと思います。

 私たちは何を信じて生きるのでしょうか?イエス様を信じると言っても、ガラテヤの人たちが間違えたように、信じているつもりで信じていないこともあります。パウロはイエス・キリストの十字架だけと言っていますが、それはどういうことなのか、考えていきましょう。もう一度14節から、16節までを読みます。


B. 新しい創造=罪に死に、愛に生きる (14-16)

14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

 14節の後半でパウロは、世界は自分に対してはりつけにされており、自分は世界に対してはりつけにされていると言っています。つまり、世界は自分に対して死んでいるし、自分は世界に対して死んでいるということです。ここで言われる「世界」というのは、神様ではなく人間が支配しているこの世界のことです。罪が支配する世界、罪にまみれた人間社会とも言えます。この世界が私に対して死んでいるということは、私はこの世界には支配されることがないということです。そして、私がこの世界に対して死んでいるというのは、私はこの世界のために身を捧げているということです。この二つを続けて考えるなら、私はこの世界に支配されることはないけれども、この世界のために全てを捧げるということです。罪に支配されることはないけれども、罪に苦しむ人々のために自分を捧げるということです。それが、イエス様の十字架で起こったことでした。

 そして、私たちがイエス様を信じるということは、この十字架にならって生きるということです。自分の罪には死に、愛するために生きるということです。それは、前回の箇所でも言われていたように、それぞれが自分の十字架を背負い、同時にお互いの十字架を背負い合うということとつながります。自分の過ちによる苦しみも、他人の罪によって受けた傷も、簡単には消えません。一生背負い続けなければいけないものもあります。でも、イエス様に罪を赦されて、愛されていることを知った私たちは、他の人たちを赦し、愛することができるようになっていきます。それは、15節でパウロが言っているように、神様が私たちに起こしてくださる「新しい創造」です。私たちは自分で自分を作り変えることも、他人を変えることもできませんが、神様は私たちを生まれ変わらせてくださいます。それは、生き方を少し改善したり、考え方を少し転換するという小手先の変化ではありません。一度死んで、よみがえるという、新しい創造です。私たちがあきらめなさえしなければ、神様は私たちを一生を通して新しく変え続けてくださいます。私たちの罪との戦いも一生続きますが、神様の新しい創造も私たちの生涯を通して続くということです。そして私たちは、罪に苦しみながら罪に支配されることなく、イエス様のように愛することができるように新しくされていきます。

 それでは、とうとうパウロのガラテヤの人たちに対する最後の言葉を読んでいきたいと思います。ここには、パウロの痛みと希望が両方見えますが、それは私たちの痛みと希望でもあります。


C. イエス様を信じる者の痛みと希望 (17-18)

17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

 17節には、パウロの疲れがにじみ出ています。「イエスの焼き印」というのは、パウロが迫害によって受けた傷のことで、焼き印は奴隷のしるしなので、自分はイエス様の奴隷で、イエス様のものであるということも言いたかったのでしょう。そして、だから「これからは誰も私を煩わさないでほしい」と言っています。パウロはイエス様を信じ愛して、そのために苦しい道を歩かなければいけませんでした。イエス様を信じたことになんの後悔も迷いもなく、喜んでいたことは間違いありませんが、それによって多くの誤解、憎しみ、裏切りを味わうことになったのは、人間として苦しいことに変わりありません。このガラテヤの手紙のように、嘆いたり怒ったりを繰り返しました。私たちはパウロが遭ったような迫害に遭うことはありませんが、イエス様が愛するように人を愛そうとする時に、様々な形で傷を受けることは同じです。イエス様の愛とはかけ離れているのが、人間の現実だからです。伝わらなかったり、利用されたりします。でも、パウロが言うように、それが「イエスの焼き印」であるということに希望があります。その傷跡こそ、私たちがイエス様のものであるしるしだということです。そして、イエス様のために、人のために苦しむ痛みは、私たちのものであると同時に、イエス様のものです。私たちが苦しむより前に、イエス様が苦しんでおられるということです。そうやって、私たちがもっとイエス様の近くで共に苦しみ、共に喜ぶ者となるように、神様は私たちを造り変えてくださいます。

 パウロは最後に一言だけ、18節の祝福の祈りをしてこの手紙を閉じています。他のパウロの手紙では、もっと長い別れの挨拶がありますが、このガラテヤの手紙ではそういう挨拶が一切省かれています。それは、11節からの直筆の問いかけに対する答えを促しているからだと思います。あなたは何を信じて生きるのか。まだ人間を信じるのか。自分の力を、誰かの力を信じるのか。それとも、イエスを信じて、自分の十字架を背負い、愛するために生きるのか。それは簡単な道ではありませんが、神様による平和と憐れみを約束された道です。

 


メッセージのポイント

何を信じて生きているのか、自分に問いかけてみましょう。イエス様を信じるということは、人の罪(自分の罪も他人の罪も)に苦しみながらも、人を愛し続けることです。パウロのように、嘆き、いら立ち、怒りながらも、希望を失わずに愛し続けることです。それは私たち自身の力ではできません。でも、私たちを日々新しく創造し直すことができる神様にはできます。

 

話し合いのために

1) イエス様を信じる者の痛みとは?
2) イエス様を信じる者の希望とは? 

 

子供たちのために

14節の後半と15節を中心に話してみてください。イエス様と共に生きるということは、毎日新しく生まれ変わることができるということだと教えてください。洗礼式を思い出してもらってもいいかもしれません。一度水に沈んで、また水から起き上がるのは、イエス様と共に古い自分(罪)に死んで、新しい自分(イエス様と共に永遠に生きる命)に生まれ変わることを象徴しています。洗礼式自体は一生に一度ですが、何歳になっても、私たちは神様によって心を新しく生まれ変えさせられていかなければいけません。