主を待ち望もう

池田真理

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主を待ち望もう (イザヤ 8:16-17, 8:23b-9:6, ヨハネ 8:12)


今日から教会のカレンダーでは「待降節」「アドベント」と呼ばれる1ヶ月が始まります。イエス様がこの世界に来られたことを思い出し、イエス様の誕生を待つ4週間です。今日は旧約聖書のイザヤ書8-9章から、私たちは既に来られた主を今も待っているということをお話ししたいと思います。そこに、私たちの希望があります。最初にイザヤ8:16-17です。


0. 主は来られる (イザヤ 8:16-17)

16 わたしは弟子たちと共に
証しの書を守り、教えを封じておこう。
17 わたしは主を待ち望む。
主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが
なおわたしは、彼に望みをかける。

 イザヤはイエス様が生まれるより700年前に生きた預言者です。後でまたお話しすることになりますが、イザヤの生きた時代、イスラエルの人々は王国滅亡の危機にひんしていました。17節で、「主は御顔をヤコブの家に隠しておられる」と言っているのは、そういう状況だったからです。イザヤはそれでも主を信じ続け、「わたしは主を待ち望む」「なおわたしは、彼に望みをかける」と言い続けました。今はいないように感じても、必ず主は来てくださると信じて、待ち続けたということです。
このイザヤの願いは、彼の死後700年後にイエス様が来られたことによって、半分現実のものになりました。半分現実というのは、主は来られたけれども、また去ってしまったからです。イエス様は今から2000年前にこの世界に来られましたが、十字架の復活の後、天に帰られて、私たちの目には見えなくなってしまいました。だから、イザヤの願いが完全に現実になるのは、イエス様がやがて再び目に見える姿でこの世界に戻って来られる時です。その時を、私たちも待っています。私たちも、イザヤと同じように、やがて来られる主を信じて待っているということです。
でも、もう半分の現実は、「主は来られた」という事実です。それがクリスマスに達成されたことです。そのことを最初に確認していきましょう。イザヤ9:5を読みます。


1. 主は来られた (イザヤ9:5)

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 今から2000年前に、神様は思い切ったことをされました。自ら人間になって、この世界に来ることにしました。それがイエス様でした。でもそれは、その時急に神様が思いついたことではなくて、ずっと前から、それこそ世界の始まりから計画していたことを実行に移したということです。神様はこの世界も人間も良いものとして創られたのに、人間が罪によって神様を裏切り、人間もこの世界も神様の悲しむものになってしまいました。悪いのは人間ですが、神様は人間を見捨てずに救おうとされました。人間の罪の償いを人間に負わせる代わりに、神様自らが償い、人間の代わりに神様が死のうという計画です。そのためには、神様が人間の一人にならなければなりませんでした。それがイエス様で、2000年前のクリスマスの出来事です。神様が人間としてこの世界に来られたという事件です。
神様はその時までは、預言者たちの口を通して、この壮大な計画を人間に伝えてきました。イザヤはその一人でした。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」この中で注目したいのは「力ある神」という名です。イスラエルの人々にとって本来、どんなに優れた王様でも預言者でも、人間である限りは神様の名で呼ばれることは決してあってはならないことです。でもここでははっきり、この子供は神様であると言われています。その通り、イエス様は人となられた神様でした。そして、その神様は私たちのために命を捧げるために生まれてこられたのでした。それは、もう2000年前に完了している事実です。私たちはこの事実を根拠に、神様がどういう方であるかを知っています。私たちのために人間になられた方、私たちのために命を捧げた方、それが私たちの信じる神様です。だから私たちは、根拠のない希望ではなく、根拠のある希望を持っています。イエス様という根拠です。イエス様が神様を信じることのできる根拠で、私たちの希望の根拠だということです。
不思議なのは、イザヤはイエス様が生まれるより700年前の人であるにもかかわらず、イエス様が既に生まれたかのように言っていることです。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(英語では現在形ですが、元々のヘブライ語では完了形です。)まるで、イエス様の誕生に立ち会ったかのような言い方です。こういう言い方は、これから読んでいく9章1-6節全体に見られます。まだイザヤの時代には起こっていないことを、イザヤは既に起こったこととして完了形で言っています。実はここに、私たちにとって大切なことが隠されています。主はやがて来られると信じて待つことは、主は既に来られたと信じることでもあるということです。私たちの主はかつて来られ、やがて来られ、今も共におられる方です。そのことはイエス様を通して最も明確にはっきりと示されましたが、イエス様が来られる前から変わらない神様の真実です。イザヤはそれを信じていたので、イエス様に会ったことがなくても、私たちと同じように言うことができました。私たちはイザヤよりもずっと恵まれた時代に生まれました。神様をイエス様という名前で呼び、神様がどういう方かをはっきりと知ることができるからです。だから、今はイエス様が目に見えなくても、イザヤ以上に確信を持って、その方はかつて来られ、やがて来られる方だと言うことができます。
それでは、それが私たちの生活にどんな意味があるのか、もう少し具体的に見ていきたいと思います。イザヤ8:23b-9:1(英語では9:1b-2)です。


2. 主を待ち望もう

 

a. 闇の中で光を見る (イザヤ8:23b-9:1)

23b 先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた
異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。。

今日最初にお話ししたように、イザヤが生きた時代はイスラエル王国が滅亡する危機にありました。ゼブルンの地・ナフタリの地というのは王国の北半分に属する領地でしたが、アッシリアによって奪われて、北王国は滅びようとしていました。でもイザヤは、やがてその北から希望が生まれると預言しました。ガリラヤは北王国の土地にあり、やがてイエス様はそこで生まれ育つことになります。イザヤは、絶望的な状況の中で、その希望を信じました。そして、ここでもその希望がすでに達成されたこととして語っています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」
今私たちが生きている世界も、イザヤの時代と同じように暗い影に覆われているように思います。というよりも、この世界は常に苦しみと悲しみに満ちていると言えるかもしれません。人間の罪がなくなっていないからです。それは私たち一人ひとりの生活の中でも同じです。良いことだけしか起こらない人生はありません。誰の心にも、他の人には消すことのできない闇があります。でも、イエス様を信じるなら、私たちはイザヤと同じように宣言できます。闇の中に光が輝いたと言うことができるはずです。イエス様はヨハネによる福音書8:12でこう言われています。

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

イエス様がこの世界に来られたことによって、この暗い世界にはすでに光が差し込んでいます。その光は、小さくなることも消えてしまうことも決してありません。まだ暗闇のすべてが照らし出されているわけではありませんが、イエス様の光は私たちを照らし続けています。だから、今目の前が真っ暗に見えたとしても、光はすでに輝いていて、これからも輝いていると言い続けましょう。

B. 争いの中で平和を求める (イザヤ9:2-4)

2 あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり
人々は御前に喜び祝った。
刈り入れの時を祝うように
戦利品を分け合って楽しむように。
3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
あなたはミディアンの日のように折ってくださった。
4 地を踏み鳴らした兵士の靴
血にまみれた軍服はことごとく
火に投げ込まれ、焼き尽くされた。

4節(英語では5節)は、戦争を生々しく描写しています。イザヤは、アッシリア軍の兵士たちが足音を響かせて攻めてくるのを実際に聞き、敵も味方も血まみれになり、死んでいく様子を見ていたのかもしれません。しかも、アッシリアは強く、イスラエル王国はやがて滅ぼされてしまいます。そんな状況にもかかわらず、イザヤが預言したのは戦争の終結と勝利、平和の訪れでした。実際には厳しい戦いが続いている中でそんな預言をすることが、どんなに難しいことか、戦争を体験したことのない私たちは想像するしかありません。
少し前に、友人が内戦の続くシリアで民間人がどんな日常を送っているかを記録したドキュメンタリー映画を教えてくれました。私は部分的にしか見ていないのですが、友人から聞いた話と合わせて、それだけでも十分ショックで、でも感銘を受けました。「Last Men in Allepo」という映画です。シリアでは警察や消防などはもう機能していないので、ふつうの市民たちがボランティアで救助活動を行っているそうです。爆撃が続く中、生存者を救出するために駆けつけ、その途中で命を落とす人たちもいます。救出しようと駆けつけても、生存者よりも死体の方が多く、毎日のように親戚や友人が死んでいき、子供も大人も関係なく犠牲になっていきます。無差別に降り注ぐ爆弾の中で、一人を救出しても、明日には結局もっと多く死んでしまうかもしれない。彼らの悲しみと怒り、無力感、心身の疲労は、どれほどのものかと思います。それでも、彼らは働き続けています。内戦そのものを止める力は彼らにはありません。でも、あきらめないで、一人でも多く命を救えるように、少しでも悲しみが少なくて済むように、狂気の中で正気を保っています。
イエス様を信じるということは、アレッポで戦い続ける彼らのように、争いの只中で平和をあきらめないということだと思います。私たちは彼らが置かれているほど過酷な環境にいるわけではありません。でも、実際に戦争が起こっていなくても、私たちは個人的なレベルで日常的にお互いに間違いを犯し、争って傷つけ合っていることは同じです。その中で、やられたらやり返すのではなく、虚しくあきらめるのでもなく、神様が望む世界を実現するために自分にできる小さなことを続けることが、私たちにはできるはずです。家族や友人、会社、学校の中で、自分がそこに置かれている意味を考え、争いの中に平和をもたらす人になりましょう。イエス様は来られ、光はすでに輝いていることを忘れずに。
それでは最後に6節(英語では7節)です。

C. 争いの中で平和を求める (イザヤ9:2-4)

ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

今日最後に心に留めていただきたいのは、「主の熱意」という言葉です。主の熱意がこの世界を造り、自らイエス様としてこの世界に来られる結果になりました。その熱意によって、私たちを救うために十字架にかかり、死なれました。闇に光をもたらしたいと願い、争いに平和をもたらしたいと願っているのは、誰よりも主ご自身です。そして、その主の熱意が、今も私たちを変え、この世界を変え続けています。罪の支配を終わらせ、神様の愛が実現されるように。やがてイエス様がこの世界に再び戻ってこられる時まで、主があきらめることは決してありません。私たちが時にくじけてあきらめてしまっても、主はあきらめません。やがて来られる主は、かつて来られた主、そして今も共におられる主です。だから、イザヤと共に、どんな時でも主を待ち、主に望みをかけましょう。

 


メッセージのポイント

私たちの生活の中でも世界情勢でも、暗闇と争いが絶えることはありません。神などいないと思われるような状況も多くあります。それでも、2000年前のクリスマスに神様がイエスという人となられて、この世界の中に来られた事実は変わりません。それが私たちの希望の根拠です。イエス様を信じて、闇の中でも光を見、争いの中でも平和を求め続けましょう。

 

話し合いのために

1) イエス様がなぜ私たちの希望の根拠なのですか?
2) イザヤと私たちで違うもの、同じものはなんでしょうか?

 

子供たちのために

子供達に、この1年間で自分の生活の中や世界で起こったことで、悲しかったことや怖かったことを聞いてみてください。イエス様を信じるということは、そういうことが全部なくなるわけではなく、そういうことがこの先もたくさん起こってきても大丈夫と言えることです。読むとしたらイザヤ9:5とヨハネ8:12がいいと思います。