神の家の住人

永原アンディ

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神の家の住人
(マタイによる福音書 21:12-16)

 

 

 春らしい日が増えてきました。あと2週間でイースターです。十字架につけられ、死んで葬られたイエスが復活したことを記念する日です。私たちにとってはクリスマスと同じようにうれしい日ですが、忘れてはいけないのがイエスの十字架です。「雨が降らなければ虹は出ない」とハワイの友人が言ったことがあります。ハワイらしいことわざですね。苦しみ、悲しみを通って大きな喜びが与えられたのです。死ななければ、復活ということはあり得ません。そしてイエスの死は、全ての人の罪を負うという、誰も経験したことのない苦難の果ての死でした。私たちはこの出来事を忘れないように毎月聖餐式を行うとともに、イースターの前の一週間を「受難週」として特別な想いを持って過ごします。来週は池田牧師がフィリピのシリーズを離れて、受難週のためのメッセージをしてくれる予定です。今日はまだ受難週ではありませんが、私も詩編のシリーズを離れて、受難週の出来事の一つを紹介します。マタイは、受難週の最初の日にエルサレムに入り、最初になさったこととして紹介しています。読んでみましょう。

12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

 

A. 神の家へ侵入した泥棒たち

1.  神殿商売人と巡礼者 (12,13)

ユダヤ人にとってエルサレムは、神の家「神殿」のある、他と比べることのできない特別な都市です。神殿はエルサレムの中心で、どこよりも神聖な場所でした。キリスト教のカレンダーでいえば受難週ですが、ユダヤ人にとっては、彼らが最も大切にしていた出エジプトの出来事を記念する過越の祭りの直前でしたから、そこには国内外から多くの人々がエルサレムに集まっており、神殿も普段に増して賑わっていました。ここでイエスが追い出した「売り買いをしていた人々」とは、この祭りの時に礼拝にやってきた巡礼者たちと商売人たちです。巡礼者は、献金をしたり、犠牲の動物を捧げたりするのですが、そこには細かい決まりがありました。献金のためのお金は、当時流通していたローマ帝国の発行する貨幣ではなく、ユダヤ独特の貨幣シェケルでなければなりません。そこで両替屋が必要となったわけです。また、犠牲のための動物は無傷のものでなければならないなどの条件があったため、自分で持ってきた場合は祭司に相応しいかどうか見てもらわなければなりませんでした。巡礼者にとっては最初から神殿内で売られている検査済みの動物を買う方が簡単だったのです。
これらの商売は、商売人だけでなく、祭司たちに大きな利益をもたらしていました。祭司たちは「神様を正しく礼拝するために」という理由で、お金を払わせましたが、心からの礼拝を捧げる場を提供してはいませんでした。彼ら自身も心からの礼拝を捧げる者ではありませんでした。イエスはこのことを見抜いてこう言ったのです。

「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」

 イエスが売り手だけではなく、買い手、つまり巡礼者をも追い出したことに注目しましょう。そこに“礼拝をささげに来た”巡礼者たちも、イエスの目から見れば、あくどい商売の被害者ではなく「強盗」の仲間だったのです。特別の祭の週に、ここにやって来られるのは、高いレートの両替ができ、犠牲の動物を買える裕福な人々です。宗教者たちが人々に守らせようとしていた律法は、貧しい者、弱い者には守りたくても守れないものでした。巡礼者の心は「私たちは、律法を守る、正しいものだから祝福されている。この祝福を維持するために、定められた祭を定められた方法でしなければならない」ということに占められていて、神との関係を大切にするための礼拝ではなかったのです。

 

2.  祭司長や律法学者 (15)

その場の多くの人々が、イエスの行動に眉をひそめたはずです。特に強く憤っていたのは、祭司長や律法学者と呼ばれる、当時の宗教指導者たちです。
というのも、イエスは、彼らとは違い、弱い者、小さい者に慕われていたからです。 イエスは、商売人や巡礼者を追い出すと、目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、彼らを癒しました。それを見て、「ダビデの子にホサナ」と子供たちまで叫んだのが我慢できなかったのです。同じ章の9節にも、イエスがエルサレムに入ってくるときに同じ言葉で人々が迎えたことが記されていますが、それは詩編118編25、26節の、喜びのうちにメシアを迎える歌なのです。宗教指導者にとっては、ガリラヤ地方の田舎から出てきた若者が、救い主として迎えられたら、自分たちの立場がありません。しかし、体の不自由な人々、貧しい人々、弱い立場の人々、子供達の目には、宗教指導者たちとイエスのどちらが本当に神様とつながっているかは、明らかだったのです。
このことが、彼らに怒りを起こさせ、彼らは、結局イエスを十字架にかけてしまいます。

 


B. 神の家の住人

1.  目や足が不自由な人々 (14)

 神殿の境内と書かれている場所は「異邦人の庭」と呼ばれる神殿の外側の部分です。書かれている通り、異邦人はここまでしか入ることができません。障害を持った人々も同じでした。その内側も、成人男性だけが入れる部分、祭司だけが入れる部分とと別れています。イエスは、そばに寄ってきた人々を癒してあげました。「神様、助けてください、救ってください」というほかない人々こそ礼拝を捧げるのに相応しい者です。イエスにとってはそのような人々こそ、神の家の住人だったのです。イエスはここでは神殿という言葉さえ使いません。彼は「神の家」といいます。「家」は「神殿」とは違い生活の場です。イエスは神殿の中まで入れるような人々を強盗と呼び非難しましたが、反対に異邦人の庭までしか入れないような人々でも、自分に救いを求める者には、惜しみなく、必要に答えてくださいました。

 

2.  子供たち (16)

 子供たちもまた、神殿内には入れない存在でした。子供たちもまた、神殿宗教という、巨大な大人たちの欲望のシステムに黙って従うしかなかった存在です。しかし彼らの目は大人たちのように曇ってはいませんでした。今まで自分たちが見てきた大人が絶対しないような、イエスの乱暴な行為と、その直後に、寄ってきた目の見えない人や足の不自由な人たちを癒すのを見て、イエスが特別な方であることを直感しました。そして、この人こそメシア、救い主だと叫び始めました。イエスは、幼子のような信仰を持つ者でなければ天の国に入れないと言われました。(マルコ10:15)

 イエスは誰が、神様の家の住人で、神殿を巣としている強盗なのかを、この短い出来事の中ではっきりと教えてくださいました。私たち自身は、この言葉をどう受け止めればいいのでしょうか?ユアチャーチは神の家、イエスの家と呼べるでしょうか?それとも、イエスが非難された神殿のようでしょうか?皆さんのリーダーたちは、祭司長や律法学者のような者でしょうか?皆さん自身は、自分の利得のためにここにいる者ではないでしょうが、あの神殿を訪れ、両替をし、犠牲の動物を買って、自分の幸福のために礼拝を捧げる巡礼者のような者になってはいないでしょうか?

  そうではないことを喜びたいと思います。しかしそうなる危険はいつでもあることを忘れてはいけません。あたたかい神の家であったはずの教会が、強盗の巣のような「神殿」となってしまう例をいくつも見てきました。

 そうならないためには、この神の家が誰のものなのか?誰のためのものなのか?私はここにあってどういうものなのか?を覚えておくことです。その答えは子供たちが叫んで歌った詩編の歌にあります。

わたしはあなたに感謝をささげるあなたは答え、救いを与えてくださった。
家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。
これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと。
今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。(詩編118:21-25)

ユアチャーチは誰のものでしょう?21-23節は、当時の閉鎖的な宗教社会の中で、十字架で苦しめられ、捨てられたイエスが、私たちの人生の、家族の、教会の信頼できる基礎となることを預言しています。ユアチャーチはイエスのものです。牧師のものでも、他の誰のものでもありません。

 誰のためにものでしょう?弱い者、小さい者、貧しい者、虐げられている者、迫害されている者のために存在しています。あなたはどのような者でしょうか?

 もしかしたら「私は弱くもないし、小さくもないし、貧しくもないし、虐げられてもいないし、迫害されてもいない」と思っているかもしれませんが、イエスはあなたの弱さを知っています!大丈夫、ユアチャーチはあなたのための家族でもあるのです。

 しかしイエスは、私たちを弱いままにはしておきません。私たちを慰め、励まし、癒し、強くしてくださる方です。少しずつ、あらゆる面で、癒しを進め、成長させてくださいます。

 だから、何も心配もせずに、イエスを喜んで叫んでいた子供たちのように、イエスを信頼して、イエスがそうなさったように、弱い者、小さい者、貧しい者、虐げられている者、迫害されている者に仕える人として歩みましょう。

家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと

これが十字架と復活の出来事です。今日からの2週間、ぜひ心を十字架と復活の出来事にフォーカスして過ごしてください。

 


メッセージのポイント

イエスは、当時の宗教の中心的場所で行った対照的な二つの行動によって私たちに、教会のあり方を教えてくれています。教会はイエスに従う者の、イエスを頭とする大きな家族です。自分の利益のために利用しようとする者や、聖書で人を裁くような者は住人ではなく不法侵入者です。

 

話し合いのために

1) なぜイエスはこのような乱暴な行動に出たのでしょう?
2) ユアチャーチはどのような共同体を目指すべきですか?

 

子供たちのために

読ませて、なんでイエスが乱暴な行動に出たのか考えさせてください。それは大切な住人を守るために、不法侵入者を追い出すことでした。しかし神殿が神聖なのではありません。本当の神の家は、ユアチャーチのようなイエスを愛し従う人々の大きな家族だと伝えてください。