イエス様は死なれた

池田真理

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イエス様は死なれた
(マルコ15:33-37, イザヤ 53:6, ヨハネ 10:11-16)

 

 

 教会のカレンダーでは今日から受難週が始まります。イエス様が十字架で死なれ、復活されたことを祝う、教会にとって一年で最も重要な時期です。今週はイエス様の十字架の死を特に心に留めて過ごましょう。そのために今日は、イエス様が死なれたという題で、それは①絶望の中であったこと、②私たちの罪のためであったこと、そして③それはイエス様が良い羊飼いだからだということをお話ししてきます。最初に、イエス様は絶望の中で死なれたことを思い起こしましょう。十字架の場面から読んでいきます。ここでは一部しか読みませんが、ぜひ今週はそれぞれ家で福音書の十字架の場面全体を読みましょう。それではマルコ15:33-37です。

 

1. 絶望の中で (マルコ 15:33-37)

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

 イエス様はここに至るまでにもすでに多くの苦しみを味わっています。弟子の一人であるユダの裏切りに始まり、数年間旅を共にしてきた弟子たちは一人残らず逃げ出してしまっていました。1週間前にはイエス様のことを新しい王として喜んで迎えたエルサレムの人たちは、手の平を返したようにイエス様をののしり、十字架につけろと叫びました。罪人として捕えられたイエス様を、兵士たちは侮辱し、暴行を加えました。十字架に架けられる前にすでに、イエス様は心も体もぼろぼろの状態だったと言えます。親しい人に裏切られる痛み、孤独、体の痛み、死への恐怖。イエス様は人間が経験する苦痛を全て経験されていました。
そして、その中でも最大の苦しみは、十字架でイエス様が叫ばれた言葉にあります。神様に見捨てられるという絶望です。神様に助けを求めても助けてくださらない、呼んでも応えてくださらない、神様が沈黙しておられるという絶望です。人に裏切られて見捨てられるだけでなく、神様にも見捨てられてしまったら、もう救いはどこにもありません。
そして、これは同時に神様の義に関わる問題でもあります。神様が正しい人を良しとし、正しくない者を裁かれる良い方なら、イエス様がそのまま死んでいいはずがありませんでした。なぜなら、イエス様は生涯、神様の意志に従って生きた方だったからです。神様の意志に従って死ぬためにこの世界に生まれ、最後まで神様に従順だったイエス様を、神様は見捨てるのか。十字架で屈辱的な死を遂げさせるままにしておくのか。もしそうだとしたら、神様は正しい者を見捨てる方だということになります。そして、罪のない人を苦しんだままにしておかれる理不尽な神様だということになります。
ですから、イエス様が十字架の上で味わった絶望というのは何重にも折り重なっています。人から見捨てられる絶望。神様に見捨てられる絶望。そして神様は正義の方ではないという絶望。神様が正しいことをなさらないなら、神様はおられないも同然だということになります。私たちはイエス様が復活されたことを知っているので、神様が決して正しい者を見捨てることのない正義の方であると知っています。でも、この十字架の時点では、まだそれは起こっていないことです。イエス様が十字架で「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだ時、イエス様は神様に絶望していました。神の子であるイエス様が神様に絶望するとは矛盾しているようですが、それが十字架で起こった現実でした。神様ご自身が、神様の沈黙に、神様の不在に苦しまれたという現実です。なぜそんなことが起こったか、それには理由と目的がありました。それが次にお話ししていきたいことです。まずはイエス様が苦しまれた目的についてです。イザヤ書53:6を読みましょう。

 


2. 私たちの罪のために (イザヤ 53:6)

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

 私たちは、それぞれ違う価値観を持っています。そしてその価値観に基づいて、自分の人生に対する希望や願いを持っています。それが正しいかどうか、それが本当に自分を幸せにするのか、自分の周りの人を幸せにするのか、あまり考えません。これは全ての人間に共通する性質で、いつの時代も変わりません。イザヤは今から3千年近く前の預言者と言われていますが、その頃から人間は自分勝手でした。
イザヤが言うように、私たちはそれぞれ間違った道を行き、ばらばらの方角に向かって進む羊の群れです。ばらばらすぎて、もう群れとも呼べないかもしれません。少し先にある草がおいしそうだと思ったら、羊飼いの声を無視してそっちに行ってしまいます。その草は体に悪いかもしれないし、毒かもしれないし、そこに行くまでの道は危険かもしれません。でも私たちは、自分の目に見えるもの、自分の目に良いと写るものしか見ようとしません。そして、その草は食べてみたらやっぱりおいしく、自分は間違っていなかったと思うようになります。そしてどんどん羊飼いから離れても気にせず、勝手に進み始めます。体に毒がたまっていたとしても気がつきません。おかしいと気がつく頃には手遅れです。周りに草はなくなり、荒地が広がっているのに気がつくかもしれません。慌てて転んで、動けなくなってしまうかもしれません。その頃には毒も全身に回って、自分ではどうしようもない状態になってしまいます。
私たちが自分の価値観を疑わずに、それが絶対に正しいと信じて人生を歩むと、こういう結末が待っています。そんなにひどくはないだろうと思われるかもしれませんが、なぜそう言えるのでしょうか。問題なのは、自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか、私たちは見ようとしないということです。自分はなぜ生まれてきたのか、何のために生きているのか、知らないままでどうやって人生を正しく歩んでいると言えるのでしょうか。私たちは目の前のことしか見ようとしません。目の前のことがうまくいかなくなって初めて、はたと気づくのかもしれません。とんでもないところに来てしまったと。
これが私たちの罪です。間違ったものを正しいと信じることです。正しいものが何か分からないでいることが罪なのではありません。迷っているなら探し続ければ必ず神様は答えてくださいます。ただ、本当に正しいものは人間には与えることはできません。人生の意味、この世界の目的が何か答えられる人は、人間の中にはいません。目に見える人間とこの世界の中に答えを探す限り、私たちは決して満たされることはありません。それを認めないで、間違ったところに正しいものを求め続けるなら、その先にあるのは虚しい死だけです。誰からも見捨てられた、孤独な絶望の死です。
イエス様は、私たちが当然たどっていたはずのこの絶望の死を、代わりに引き受けてくださいました。私たちが間違いに気が付けるように。苦しむことがないように。そして、もっと良い草原があり、戻る道は備えられていると私たちに教えるために。ヨハネによる福音書10:11-16のイエス様の言葉を読みましょう。

 


3. 良い羊飼いだから Because He is a good shepherd (ヨハネJohn 10:11-16)

11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

 イエス様が十字架で死なれたのは、イエス様が良い羊飼いだったからでした。言い換えれば、十字架を通して、私たちはイエス様が良い羊飼いであることを知ることができます。神様は、私たちにご自分がどういうものであるかを示すために、イエス様をこの世界に送ってくださいました。イエス様としてこの世界に来てくださったとも言えます。神様とイエス様は一体だからです。イエス様が十字架で絶望の叫びをあげられたのは、神様が私たちの絶望を引き受けてくださったからでした。イエス様が死なれたのは、神様が私たちが死ぬことを望まなかったからでした。神様はそういう方であると、つまり私たちの身代わりになって苦しむほど私たちを大切に思っておられる方だと、イエス様は教えてくださいました。私たちは自分の罪のために神様がどういう方か分からなくなっていましたが、イエス様を通して神様を知ることができるようになっています。イエス様が良い羊飼いだというのはそういう意味です。迷い出た羊が主人の元に戻ってくるための導き手であり、道そのものでもあります。神様の私たちへの愛がどれほど大きいか、どれほど確かなものか、教えてくださるのはイエス様です。イエス様の十字架が、動かぬ証拠です。
私たちは、イエス様に導かれて人生を歩むなら、自分がどこから来てどこへ行くのか、少しずつ分かるようになります。自分の人生にどんな意味があるのか、この世界の目的は何なのかも、だんだん見えるようになります。人間である限り、全てクリアに分かることはありません。それでも、イエス様によるなら、神様の真実、神様が良い方であることを信じて、歩み続けることができます。

 


メッセージのポイント

イエス様は、友人からは裏切られ、人々からは侮辱と暴行を受け、神様にも見捨てられるという、究極の絶望の中で死なれました。それは本来は私たちが味わうべき苦痛でしたが、神様は私たちが苦しむことを望まなかったので、自ら身代わりとなったということです。私たちは神様を神様と認めず、自分勝手な方向に歩んで自ら滅びようとしています。でもイエス様は私たちを呼び戻し、神様の良い意志に従って生きていくことができるように、導いてくださっています。

 

話し合いのために

1) イエス様が神様に見捨てられたとはどういうことですか?
2) 「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」とイエス様は言いますが、私たちはどうやってイエス様の声を聞き分けるのでしょうか?

 

子供たちのために

受難週にあたって、イエス様が私たちのために苦しんで死なれたということを一緒に話し合ってみてください。子供達が「罪」(神様を神様としないこと)を理解するのは難しいと思いますが、私たちの罪というのは本来は神様に赦してもらえるものではありません。そして私たちは神様に愛してもらえず、見捨てられるしかありませんでした。でも、神様は私たちがそんな惨めな結末をむかえることがないように、イエス様として身代わりになって苦しんでくださいました。今週は、イエス様の優しさだけでなく、イエス様の痛みと苦しみに心を向けてみましょう。