主よ、憐れんでください

永原アンディ

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主よ、憐れんでください (詩編 41, マタイ 5:7)

 久しぶりに、詩篇シリーズの再開です!今日は41編、キーワードは「憐れみ」です。それでは最初の部分を読みましょう。1-4節です。

A. 主の憐れみは、憐れむ人に (1-4, E:0-3, マタイ5:7)

1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】

2 いかに幸いなことでしょう弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき主はその人を逃れさせてくださいます。

3 主よ、その人を守って命を得させこの地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください。

4 主よ、その人が病の床にあるとき、支え力を失って伏すとき、立ち直らせてください。

 皆さんは、幸せな人とはどういう人だと思いますか?お金がたくさんある人、有名な会社に勤めている人、人から尊敬されている人、平和な暮らしをしている人、家族がたくさんいる人、答えは色々です。いま挙げた人々の中には、幸せな人もいますが、不幸せな人もいるでしょう。つまり、それらは幸せの絶対条件ではないということです。しかし今日のテキストは、そうでなくては幸いは得られない、本当の幸せを得たいなら、絶対に必要な条件を教えてくれています。それは「弱い者に対する思いやりのある人」であるということです。

 詩人は、主がそのような人を災いから逃れさせてくださること、悪から守ってくださること、さらに病を癒してくださることを期待して願っています。それは神様の意思にかなった願いです。詩人はイエスの思いを知っていたと言えます。

 マタイによる福音書は5:7で 

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

 というイエスの言葉を紹介しています。 神は愛ですという言葉は皆さんもよくご存知です。「憐れみ」は愛の表現の一つです。困っている人に手を差し伸べ、その必要を満たすことは、「互いに愛し合います。この世界を愛します。」ということの一つだということです。ユアチャーチのメンバーシップの資格は、三つあります。イエスを主、神と信じているということは前提条件です。その上で1)神様を愛します。2)互いに愛し合います。3)世界を愛します。です。 問われているのは、その意志を持ち続け、少しでも、小さくても実践し続けることです。

 神様は「憐れみを受けたいなら、人を憐れみなさい、そうすれば私もあなたを憐れむ」とおっしゃっているのではありません。それは、順番が逆です。そうではなく、主の憐れみを受け止めた人は、憐れむ人になるのです。


B. 主の憐れみは、あなたを癒す (5-10, E4-9)

5 わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」

6 敵はわたしを苦しめようとして言います。「早く死んでその名も消えうせるがよい。」

7 見舞いに来れば、むなしいことを言いますが心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。

8 わたしを憎む者は皆、集まってささやきわたしに災いを謀っています。

9 「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい。」

10 わたしの信頼していた仲間わたしのパンを食べる者が威張ってわたしを足げにします。

 詩人は、主の憐れみが働いていることを知っていながら、困難な状態に置かれている事がわかります。重い病気に罹っているだけでなく、敵に脅かされています。更には、お見舞いに来た人々には、そこでは、虚しく同情するふりをして、外では「あいつはもう治らない。呪われて死ぬだろういい気味だ」といわれています。信頼していた人や保護していた人にまで裏切られています。ここには、そこまで酷い目にあっている人はいないと思いますが、そんな状態を想像してみたときに、詩人の最初の言葉、イエスの言葉に賛成できるでしょうか?「神の憐れみなんて嘘だった、むしろ自分は呪われている」と思ってしまわないでしょうか?実は旧約聖書には、詩人以上に悲惨な目にあった人のことが書かれています。ヨブ記に紹介されている呼ぶという人です。少し長い書で、酷い災難に始まり、人々に見捨てられ、自分の奥さんにまで「神に呪われて死んだほうがいいわね」と言われ、延々と友達から「お前が悪い」と責められるような物語なので、ライトノベルのようには読めないのですが、自分と神様との関係を真剣に考えたい人には、ぜひ読んでおいて頂きたい書です。

 詩人も、ヨブもそのような状態の中にあっても、決して神様との関係をあきらめようとはしませんでした。ここが私たちも見習いたいところなのです。ただ詩人とヨブでは、アプローチはかなり違っています。ヨブは不毛な友人たちとの会話を経て、神様と徹底的に語り合うような仕方で、まるで喧嘩でもしているかのように、しかしそれで神様との関係を実は強化できました。詩人は、ただただ憐れみを求めて叫び続けることで、神様との関係を保ち、決して絶望していません。

 もともと、私たちは、私たちを創った神様のことも、そのお考えも完全に知る力は持っていません。神様から自分の納得できる答えを得ることは不可能です。しかし神様は別のもの、そしてそれは本当に必要なものなのですが「関わりを持ち続けてくださる」という恵みをくださるのです。そして、神様の私たちとの関わりとは「憐れむ」ことに他なりません。愛することにおいても、正しいことにおいても、強くあることにおいても、ひどく不足している私たちを、あきらめず、呆れず、怒らず、付き合い続けてくださる神様です。

 詩人は病を自分の罪の結果だと受け止めているようですが、それは彼が生きた時代の限界です。医学の進歩は様々な病気の原因を明らかにしてきました。私たちは環境的要因、遺伝的要因、病原菌、ウイルスなどが病気を引き起こすことを知っています。しかし罪が病に関係ないわけではありません。例えば人を病にする環境を作るのは人間の自分勝手な欲望=罪です。また、罪に支配されていれば、心に平安が無く、それが病の引き金になったり、治りにくくしたりします。

 今日、最初の部分で、憐みは愛の表現だと話しました。愛の反対は憎しみだとか、無関心だとか言いますが、愛の反対は「罪」とも言えます。無関心も、憎しみも罪からくるものだからです。自分のことしか考えていないから、人のことは無関心でいられるのです。また、自分に都合の悪い人を憎しみの目で見るのです。それらは人々を不幸にするだけで無く、自分にも悪い影響を与えます。

 幸せのために求めるべきものは、ほかの何でもなく「主の憐れみです」。私たちも主よ憐れんでくださいと、願うべきです。主の憐れみを確信できれば、自分が弱いものであっても、憐れむ人、癒す人となれるのです。


C. 主の憐れみは、あなたを立ち上がらせる (11-14, E10-13)

11 主よ、どうかわたしを憐れみ再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば彼らを見返すことができます。

12 そしてわたしは知るでしょうわたしはあなたの御旨にかなうのだと敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。

13 どうか、無垢なわたしを支えとこしえに、御前に立たせてください。

14 主をたたえよ、イスラエルの神を世々とこしえに。アーメン、アーメン。

 主の憐れみはあなたを立ち上がらせ、その憐れみの力によって歩んでいるあなたも、憐れむ事によって人を立ち上がらせるということをお話しして終わりたいと思います。

 「見返すことができる」という訳は、ちょっと自分の気持ちにはフィットしないのですが、「神様と自分との関係が良いものであることを証明できる」ということだと思います。神様の憐れみが目に見える形で現れることは、詩人だけでなく、詩人をバカにしていた人々にとっても良い事なのです。なぜなら、神様の憐れみが、本当にあるという事を知ることができるからです。無垢という言葉も意味に幅があるので気をつけて理解したいと思います。詩人は自分が完全だと誇っているわけではありません。神との関係において不完全ではあっても誠実であろうとしている、ということです。自分の弱さ、罪深さを知りながら、それでも遠慮せずに、詩人のように主に願い求め、ヨブのように主と議論し続け、つまり関係を保ち続けて歩んでください。そうしてゆく限り、主は、何度倒れてもあなたを立たせ歩き出す力を与えてくださいます。それだけではありません。あなたがそのように歩くなら、あなたを通して人々も立ち上がり、歩み出すことができます。それは、あなたが人々を憐れむ結果です。


メッセージのポイント

「主よ、どうか私を憐れんでください。」と祈ったことがあるでしょうか?この祈りは、イエスとあなたの距離を近づける祈りです。自分には主の憐れみなど必要ないと感じているなら、それは自分を偽っているだけでなく、イエスとともに生きてはいないのです。イエスと共に生きている人は、自分が神の憐れみなしに生きられないこと、自分もイエスのように憐れみ、人々の力となれることを知っています。

話し合いのために

1)主の憐れみを実感した時のことをシェアしましょう
2)誰かに「主の憐れみ」とはどのようなものですかときかれたら、どう答えますか?

子供たちのために

「憐れみ」は、イエス様が私たちに教えてくださった大切なこと=愛の現れです。憐れみという言葉は、子供達にとって難しい言葉です。イエスが私たちにあらわされた「思いやりのある優しい心」であることを伝えてください。私たちは、イエス様が私たちにあらわされたように「憐れむ」ことを勧めています。イエス様が私たちに望まれているのは、強いことでも、賢いことでもなく、憐れみ深いことです。