道は荒れ野から始まる

池田真理


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道は荒れ野から始まる(マルコ 1:1-8)

 

 マルコによる福音書は、四つの福音書の中で一番古いとされています。マタイとルカはマルコを参考に書かれたと言われています。また、マルコは四つの福音書の中で一番短い福音書でもあります。他の福音書にはあってマルコにはないエピソードがたくさんあります。また、同じエピソードでも、マルコは他の福音書に比べて短く簡潔に書かれているものが多いです。だから、私はマルコはなんとなく素朴で(申し訳ないですが)つまらない印象を持っていました。イエス様の言葉で何か思い出して読みたくなった時には、マタイかルカかヨハネは開いても、マルコは開かない、というような…。でもこの印象は、これからマルコを読んでいくに従って崩されていくだろうという予感がしています。マルコが長々と書かず、要点だけしぼって書いているのは、そこに神様の意志が働いているからだと思います。それでは読んでいきましょう。1:1-8全体を読みます。

1 神の子イエス・キリストの福音の初め。

2 預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。

3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、

4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。

8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


A. イエスは神の子、それが福音 (1-3)

 1節をもう一度読みます。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」 この短い一節にマルコ福音書の中心メッセージが込められています。イエスは神の子である、それが福音であるという宣言です。一人の実在した人物を、神様の子である、つまり神様であると信じることは、そう簡単にできることではありませんし、安易にしていいことでもないと思います。でも、それが聖書の教えてきたことであり、教会が2000年間教え続けてきたことです。そして、ここに福音があります。イエス様がしたことは神様がしたことだというところに、私たちの救いがあるということです。私たちはイエス様を通して神様がどういう方かを知らされました。そのクライマックスは十字架の死と復活です。神様ご自身が私たちのために死なれたというクライマックスです。それほど神様は私たちを愛しておられるというのが、イエス様を通して私たちに知らされた良い知らせ、福音です。
マルコがこの短い一節に込めた思いは、続く2-3節でも分かります。2-3節に引用されているのは、主にイザヤ書40:3です。翻訳の問題で微妙に文言が違いますが、読んでみましょう。イザヤ40:3「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」このイザヤの言葉を引用したことで、マルコははっきり、旧約聖書の神様とイエス様を結びつけました。イザヤが「主」「わたしたちの神」と呼んだ神はイエスであると宣言していることになります。そして、そのイエスのために先に神様に派遣されたのが、ヨハネでした。

 


B. 荒れ野のヨハネから始まる

 今日の主人公はこのヨハネです。ヨハネのことは四つの福音書すべてが記録しているほか、聖書と同じ時代に書かれた歴史書にも記録されています。でも、私たちにとってヨハネの存在というのはあまり大きくないと思います。イエス様の存在が大きすぎるので、ヨハネはその陰で忘れられていると思います。それは、ヨハネ自身が「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネによる福音書3:30)と言った言葉が実現したということで、ヨハネはイエス様の登場によって忘れられなければいけない人でした。でも、それなら最初からヨハネを登場させる必要はなかったんじゃないでしょうか。どうせ忘れられなければいけないのなら、なぜそもそもヨハネを登場させたのでしょうか。イエス様はヨハネから洗礼を受けましたが、ヨハネに何かを学んだわけでもないし、その後もヨハネを必要としたわけでもありません。ヨハネの活動がその後のイエス様の活動に実際どれほど影響したかといえば、あまり決定的なものではありません。しかも、ヨハネは最後は処刑されたということが聖書からも他の歴史文献からも分かっています。こう考えると、ヨハネ登場の目的はますますわからなくなるような気がします。
でも、事実、ヨハネはイエス様に先立って現れました。私たちは、この事実に神様の意志が働いていることを受け取るしかありません。イエス様の物語は、ヨハネから始まらなければいけませんでした。神の子イエスの福音は、荒れ野のヨハネから始まらなければいけなかったのです。

1. ヨハネは神様によって送られた (2-3, 6)

もう一度2-3節を読みます。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」

ヨハネには神様から重要な役割が与えられていました。荒れ野で人々に呼びかける役割です。人々の心を荒れ野に向けさせる役割とも言えます。主の道は、イエス様を信じる道のりは、荒れ野から始まります。私たちのイエス様との歩みは、いつでも荒れ野から始まるのです。
(6節も、ヨハネが神様によって送られた人だということがわかる1節です。ヨハネは旧約聖書の預言者エリヤと共通するところの多い人でした。ユダヤ教ではメシアが来る前にエリヤが再来する、もしくはエリヤが再来して救い主となるという信仰がありました。)

 

2. 私たちは荒れ野で悔い改める(4-5)

 4-5節をもう一度読みます

そのとおり、4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

ヨハネは荒れ野で人々に悔い改めを呼びかけました。人々は村や町からヨハネのいるヨルダン川流域の荒れ野にやってきました。ヨハネの活動とイエス様の活動は正反対ともいえます。イエス様は自分で村や町を巡り歩いて人々に教えました。そして時には先々で出会った人たちと食事を共にしました。一方でヨハネは、荒れ野で質素な身なりをして質素な食事をし、人々をそこで待ちました。そのヨハネの活動が、イエス様の活動の前に人々の心を準備させるために必要だったと聖書は教えています。それは、私たちの信仰の歩みにとっても象徴的なことです。イエス様との旅を始める前に、私たちは荒れ野に出て行って、悔い改めることが必要だということです。悔い改めるということはよく勘違いされますが、後悔するとか反省するとか、気持ちの問題ではりません。悔い改めは、考えを改めること、心を入れ替えること、それによって行動を変化させることです。
私たちは、イエス様と歩むために、時折荒れ野に呼び出されます。神様を疑いたくなるような、様々な困難や悲しい出来事に向き合わなければいけない時があります。多くの場合は、自分でそういう状況を選んで入っていくのではなく、自分の意思とは関係なく、気が付いたら荒れ野に放り出されていたということだと思います。どこに出口があるのか分からない荒れ野にいるのは辛いことです。そこで私たちは神様に助けを求め、絶望してしまう時もあるかもしれません。でも、荒れ野は最初から神様の計画の中にあったことを思い出しましょう。イエス様の前にヨハネが来て、荒れ野で呼びかける必要があったことを思い出してください。私たちは、人生の荒れ野でヨハネに出会い、悔い改めの呼びかけを聞きます。それは自分の弱さを受け入れ、間違いを認め、神様との関係を見つめ直すチャンスです。絶望の中に希望があり、孤独の中にイエス様が共におられることを確認するべき時です。だから、荒れ野を恐れず、神様を信じて、助けを待ちましょう。それが、私たちの悔い改めであり、それによって私たちはイエス様との信頼関係をより強く結ぶことができます。
そこで一つ注意しておくことがあります。悔い改めというのは人間の努力、決心という面が強調されがちですが、そうではないということです。7-8節をもう一度読みます。

 

3. 人間の努力よりも神様の働き (7-8)

7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 「履物のひもを解く」のは、奴隷が主人に対して行うことでした。ですから、ヨハネは、自分はイエス様の前には奴隷以下であると言っていることになります。このヨハネの謙虚さに私たちは学ぶべきです。悔い改めを呼びかけたヨハネは、どこまでいっても一人の人間でした。そして、悔い改めるという人間の行為には限界があるということも、ヨハネは知っていました。私たちがいくら本気で真剣に悔い改めたところで、神様が赦して下さらなければ何の意味もありません。神様が赦してくださるという保証はどこにあるのか、それはイエス様しかいません。神様は、私たちが努力するから赦してくださるのではなく、イエス様において、最初から私たちを赦すと決めていました。罪の赦しは、私たちの努力によって獲得しなければいけないものではなく、神様によって私たちに与えられるものです。私たちに根拠があるのではなく、神様が神様であるところに根拠があるということです。私たちはついそれを忘れてしまうので、神様は時々私たちを荒れ野に送り出します。荒れ野が神様からの罰だという意味ではありません。荒れ野に放り出されたから何か間違ったことをしたんだと必要以上に自分を責める必要もありません。むしろ、神様が私たちを愛しておられるので、神様の恵みを新たに受け取らせようとして私たちを荒れ野に送り出すということです。荒れ野で神様が教えてくださることを、期待しましょう。

 

4. イエスは道であり、道を歩み続ける力

 4-5節をもう一度読みます

そのとおり、4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 ヨハネはイエス様についてこう言いました。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」いつもお話しすることですが、私たちがイエス様を信じて歩み続けるためには、聖霊様の助けが必要です。水の洗礼は一度きりですが、聖霊の洗礼は何度でも求めるべきです。聖霊様によって、私たちは荒れ野で道を見つけます。帰るべき場所に帰るための道です。イエスは神の子であるという福音をもう一度受け取って、イエス様と共に歩む道です。道は荒れ野から始まります。荒れ野で、イエス様の愛を受け取りましょう。そして、その愛の道を聖霊様の助けによって歩みましょう。


メッセージのポイント

私たちは人生の荒れ野(危機)を経験することによって、イエス様との関係を深めます。荒れ野は私たちに罪を自覚させ、神様を求めさせてくれます。神様がイエス様に先立ってヨハネをこの世界に送られたように、私たちが荒れ野に送られるのも神様の計画のうちにあります。荒れ野で神様の恵みを知りましょう。そこでイエス様に出会いましょう。

話し合いのために

1) 荒れ野を通してイエス様との関係を深めた経験はありますか?
2) 荒れ野が辛すぎる時はどうすればいいですか? 

子供たちのために

私たちにとって洗礼者ヨハネの存在はあまり大きくありません。でも、神様は確かにヨハネに役割を与えていました。ヨハネとイエス様は対照的です。イエス様が人々と一緒に宴会し、村や町を巡り歩いたのに対し、ヨハネは荒れ野(砂漠のようなところ)で禁欲的な生活を送りました。ヨハネの生活を想像しながら、(絵本などを使ってもいいと思います)私たちは時々ヨハネのようにさせられることがあると教えてください。それは神様が私たちともっと近づくために、少し辛いことを経験させることがあるということです。