罪人の友人

池田真理


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Peter Carl Geissler [Public domain], via Wikimedia Commons

 

罪人の友人 (マルコ 2:13-17)

 私たちはイエス様を神様と信じています。そして、イエス様は私たちの主人であり、私たちはイエス様に仕える僕でもあります。でも、イエス様は同時に私たちの友人でもあります。私たちはとても自分にはそんな資格はないと思ってしまいがちですが、イエス様の方では私たちを友と呼んで、友達になろうとしてくださっています。今日はそのことを確認していきましょう。まず、13-14節を読みます。

 


A. イエス様の呼びかけ
1. 一方的な招き (13-14)

13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

 ペテロたち4人の漁師たちを呼んだ時もそうでしたが、イエス様の呼びかけは一方的で突然です。なぜペテロなのか、なぜアンデレなのか、なぜレビなのか、理由は説明されません。使徒と呼ばれた12人の弟子たちのうち誰も、自分でイエス様の弟子になりたいと志願して選ばれた人はいません。イエス様はただ、ご自分が「この人だ」と思われた人を、「私に従いなさい」と呼んで招きました。イエス様にそう呼ばれて招かれた人の中で拒否した人はいませんでした。突然で一方的な呼びかけに対してみんなが従ったということは少し不思議な感じがします。イエス様の力で人間が操られてしまったのでしょうか?もちろん、そうではありません。もしイエス様の力で弟子たちをみんな操っていたなら、後でイエス様を裏切ることはなかったはずです。イエス様に呼ばれた者たちは、確かにその時自分の意志でイエス様に従ったのでした。ただし、一つ言えることは、イエス様にはその人たちの心が見えていたので、ご自分を心から求めている人が誰か見分けることができたのだと思います。レビにしても、この場面だけではなぜ彼がイエス様に従ったのか、私たちにはわかりません。でも、イエス様とレビの間には通じるものがありました。
私たちがイエス様と出会う時も同じです。イエス様は私たちの心を知っておられて、私たちがイエス様のことを知る前に呼びかけてくださっていました。私たちもある時その呼びかけに気がついて、イエス様に従う決心をしました。それは周りからは突然の決心に思えるかもしれません。でも、私たちとイエス様にとっては不自然ではありません。また、私たちは誰も、なぜ自分が他の多くの人より先にイエス様と知り合えたのか、説明できる人はいません。私たちが先にイエス様を信じたのは、私たちが優れていたからではなく、ただただイエス様だけが知っている理由によります。
それでは、イエス様は私たちを何のために呼んでくださるのでしょうか?「私に従いなさい」という呼びかけに応じたレビは、何を得たのでしょうか?15節を読みます。

 

2. 友となってくださる (5)

15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。

 イエス様が新しく弟子として迎えたレビと共に最初にしたことは、レビの友達も招いてイエス様の弟子たちも一緒にみんなで食事をすることでした。レビの家で食事の席に着いたとありますが、原語では食事の席に横になったという動詞が使われています。当時の文化として、半分横になった状態で食事をする習慣がありました。椅子などは使わず、床の上に敷物やクッションを置いて食事をするのが一般的だったので、リラックスすれば自然と足を伸ばして半分横になる形になります。リラックスして食事を一緒にする。これは、私たちが誰かと親しくなりたい時にすることと同じではないでしょうか?学校でも職場でも、この人ともう少し仲良くなりたいと思った時に、私たちは互いに時間を取り、一緒にご飯を食べに行ったり、時には互いの家に招いて時間を一緒に過ごします。自分の友人や家族も一緒に招くとしたら、それはもっと親密に心を許して知り合いたいと願うからです。それは友人になるということです。イエス様はレビと友人になりたいと願われました。イエス様は「私に従いなさい」と呼びかける神様であり教師でもありますが、同時にリラックスして食事を共にしたいと願ってくださる友人でもあります。私たちのことをよく知っていながら、私たちが話しかけるのを喜んで聞いてくださり、一緒に笑い、悲しんでくださる方です。安心して何でも話せる友人を、皆さんは何人持っているでしょうか?そういう存在はとても貴重で、生涯に一人か二人かもしれません。いたとしても、人間は変わりやすく、弱る時もあり、誰にでも限界があります。でも、そういう友達は神様からのプレゼントです。そして、その中でも神様が誰にでも与えられている最大のプレゼントは、イエス様という友人です。イエス様は変わることなく、私たちをいつでも支え導いてくれる友人です。
さて、ここで皆さんはどう感じられるでしょうか?イエス様がどんな時でも自分の味方でいてくれる親友だという実感があるでしょうか?イエス様を信じて従うなら、やってはいけないこととやるべきことがあって、やっぱりイエス様は友人というより主人だと感じている方も多いかもしれません。それは私たちの悪い癖です。子供のようにただイエス様を大好きでいるということは、大人には難しいことなのだと思います。でもその悪い癖は、私たちとイエス様の間に立ちはだかる壁であり、注意して取り除く必要があります。続きの16-17節を読んでいきましょう。

 


B. イエス様の求めること (16-17)
1. 行いではなく信仰

16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 ここで律法学者たちは、なぜイエス様が罪人たちと一緒に食事をするのを不快に感じたのでしょうか?それは、イエス様が罪人を責めずに受け入れたからです。律法学者たちにとって、罪は罪として断罪されるべきであり、罪人には悔い改めが要求されるべきでした。イエス様はそういうことを全くせず、ただ彼らと一緒にいることを喜びました。律法学者たちはそれに嫌悪しました。「神様は正義を喜び、罪を許さない方なのだから、人間の務めは少しでも罪を悔い改め正しいことを行うことではないのか。罪人をそのままにしておくことは正しい導きを行っていないことになり、神様の意志に反する。」律法学者たちはそう思ったはずです。彼らは何が間違っているのでしょうか?罪は赦されるべきではないし、正義が守られるべきだという主張には、何も間違いはないように思えます。
彼らの決定的な間違いは、何が正しく何が罪なのか、自分たちで決められると思っていた点にあります。何が正しくて何が罪なのか、最終決定をできるのは神様しかいません。当時で言えば、律法学者たちが罪人と断定した人たちの中には、このレビのような徴税人の他に、羊飼いや商売人も含まれました。彼らの中には確かに人を騙してもうけていた悪人もいたかもしれません。でも、多くはただ生活の糧を得るために働いていたのであり、そのために律法学者たちが規定する様々な掟に従うことが不可能な人たちでした。徴税人でいうなら、彼らはローマという異邦人の国のシステムの中で働く必要がありましたが、律法学者たちは異邦人たちとの取引そのものを禁じました。もしユダヤ人全員が律法学者の言う通りにしていたなら、社会が機能しなかったでしょう。それは極端な例ですが、私たちはみんな、律法学者たちのように偽善者になってしまう危険性を持っているのです。自分で勝手に作り上げた正しさと罪の定義に基づいて、自分を評価し、他人を裁きます。
イエス様は私たちに、偽善ではなく、心からの回心を望んでいます。私たちが何をしてきたか、してこなかったか、何をしているか、していないかではなく、「私を導いてください」と求める心を求めています。先週のお話で、動物の犠牲を捧げるよりも、心からの感謝と告白を持って自分自身を捧げることを、神様は求めておられると聞きました。それと同じです。イエス様は、私たちがただイエス様を求めて、共にいたいと願うことを喜ばれます。正しい行いよりも、純粋な信仰を喜ばれるということです。純粋な友情と言ってもいいと思います。あなたのことが大好きで、あなたが必要ですと告白し、あなたのことをもっと知りたいと願う心です。イエス様はヨハネによる福音書ではこう言われています。

 

2. 互いに愛し合うこと (ヨハネ 15:12-17)

(ヨハネ15:12-17) 12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 私たちは、全くふさわしくない者でありながら、イエス様の友となるように選ばれました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」イエス様は十字架でまさに私たちのためにそうしてくださった方です。そんな素晴らしい友人がいるということを、私たちはなぜか他の多くの人よりも先に知らされました。それは第一に、神様が私たちを愛し、私たち一人ひとりが神様の愛によって傷を癒され、休息を得て、神様が用意してくださった素晴らしい人生を歩むためです。イエス様がレビと知り合って最初にしたのがリラックスした食事だったように、私たちもイエス様に呼ばれて最初に受けるのはイエス様による慰めと癒しです。「私には、私のために命を捨てた友人がいます。」そう心から言えることが、私たちとイエス様の友情の始まりであり、信仰の始まりです。そして、この歩みは、私たちが生きている限り続きます。イエス様を通して真の友情と愛を知った私たちは、人間の教える友情や愛を超えて、今までとは違う生き方ができます。イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合う生き方です。私たちだけでは、とても心から互いに愛し合うことはできませんが、友人イエスと一緒にならできます。私たちを選び出し、励まし、導いてくださるイエス様の声をきき続けましょう。

 


メッセージのポイント

イエス様は私たちに正しい道を教える教師でもありますが、それ以上に私たちと友人になりたいと願ってくださる方です。友人として一緒に時間を過ごし、互いを知り合って愛し合うことを、イエス様は私たちに求めています。私たちには自分の力で行いを改めて正しい道を生きることはできませんが、イエス様の友人には誰でもなれます。イエス様の呼びかけを聞き続けましょう。

話し合いのために

1) ファリサイ派の人はイエス様の何が気に入らなかったのでしょう?それは私たちにどう関係がありますか?
2) イエス様の友人になるとは?どうすればなれますか?

 

子供たちのために

イエス様は神様であり先生でもありますが、友達でもあります。イエス様は、レビを始め、当時は社会的に軽蔑されていた人たちと一緒に食事をし、互いのことを話して友人になりました。私たちにも同じようにしてくださいます。私たちは自分のできることやできないことで神様を喜ばせたり悲しせたりしてしまうと心配してしまいますが、イエス様が求めているのは、ただ私たちがイエス様の友人でいることです。イエス様はみんなにとって大切な友達でしょうか、どうでしょうか?