急いで、神様!

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急いで、神様!

(詩編70) 永原アンディ

1 【指揮者によって。ダビデの詩。記念。】
2 神よ、私を救い出してください。
主よ、急いで助け出してください。

3 私の命を狙う者が恥を受け、辱められ
私の災いを望む者が退き、屈辱を受けますように。
4 「あはは、あはは」とはやす者が
恥を受けて逃げ出しますように。

5 あなたを尋ね求める人すべてが
あなたによって喜び楽しみ
あなたの救いを愛する人が
「神は大いなるかな」と
絶えることなく言いますように。

6 私は苦しむ者、貧しい者です。
神よ、私のために急いでください。
あなたこそわが助け、わが救い。
主よ、ためらわないでください。

 

 今日の詩編は40:14-18と全く同じです。40編からこの部分を抜き出して新たに表題をつけて別の詩としてここに置かれたのは、この部分だけで礼拝に用いられたからです。記念と記されているように、苦境の時の叫びに、神様が応えて助けてくださった感謝を思い起こすために歌われたようです。ユダヤ教の礼拝は私たちの礼拝よりも、マルチメディアでした。視覚的にはパワーポイントどころではありません。目の前で捧げ物を焼く、炎が上がる、煙が立ち込める。それは、人々の嗅覚も大いに刺激しました。神様の民に対する大きな恵みを思い起こすために、穀物の捧げ物を焼いて捧げるパンを焼く香りの中でこの詩が歌われたと考えられています。ただしこのパンは酵母の入っていない特別なパンです。それは、奴隷に状態にあったユダヤ人が解放された出エジプトの出来事を思い起こすためです。私たちはここから何を思い起こし感謝することができるでしょうか? もう一度、2、6節を読みましょう。

 


A. 無理解、軽蔑、敵意は空気のように存在する

1. 急いで助け出されなければならない状況 (2,6)

神よ、私を救い出してください。主よ、急いで助け出してください。

私は苦しむ者、貧しい者です。神よ、私のために急いでください。あなたこそわが助け、わが救い。主よ、ためらわないでください。

 「もう、こんな状況は耐えられません。神様、急いで!」と叫んだ経験がありますか? 苦しんでいて、自分にはどうすることもできない状況です。助けを求められる人もいない状態です。そのようなことは頻繁に起こることではありませんが、誰にでも起こって不思議のないことです。思い出してミニチャーチでシェアしてください。私たちそれぞれが、人生の歩みの中で、神様に叫び求め、応えられて、感謝してここで礼拝を捧げているのです。しかし、それはこの礼拝の場では、何の憂いもなく感謝の思いに満たされていなければならないということではありません。心配事、問題があるならそれを抱えて神様の前に出てきて訴える。それも礼拝です。もしあなたが今、苦しみの中で礼拝を捧げているなら、この後、主に向かって歌う時に思いを訴えて、主が応えてくださることを期待できます。それでも、平安が訪れなかったら、ぜひ後で誰かに祈ってもらってからお帰りください。

 

2. 無理解、軽蔑、敵意に苦しむ私たち (3,4)

 この詩に書かれている苦しみは、病気や事故、災害がもたらすものではなく、人間からくるものであることが3,4節でわかります。

私の命を狙う者が恥を受け、辱められ 私の災いを望む者が退き、屈辱を受けますように。「あはは、あはは」とはやす者が恥を受けて逃げ出しますように。

 理解してもらえない苦しさ、軽蔑されるかなしさ、敵意を向けられて怯えることを体験していない人はいないでしょう。それほどまでに、世界は無理解、軽蔑、敵意に満ちています。それは、詩人の生きた社会も、イエスの地上を歩まれた社会も、今の私たちの生きる社会も同じです。たとえ今の自分には、「神様、急いで来て助けてください!」という叫びが自分とは関係ないと思えたとしても、私たちの周りには、誰かからの無理解、軽蔑、敵意で苦しむ人が多く存在していることを忘れるわけにはいきません。なぜならイエスは常に、それらによって苦しむ者、貧しい者と共におられたからです。私たちは、自分が普通であること、多数派であることに安心をおぼえますが、その感覚には、そうではない人々への無理解、軽蔑、敵意が芽生えやすいことを心していなければなりません。イエスと共に生きるということは、自分もイエスと共に、苦しむ人々とともに立つということだからです。そう言うと、社会の矛盾に立ち向かうために、イエスに従うことを求められているかのように聞こえるかもしれませんが、そうではありません、あなた自身のためです。あなたが本来の自分を取り戻すために、イエスに従うことを勧められているのです。イエスに従って歩むなら、人々はもちろん、神様の作ったすべてのものと調和して生きることができます。神様を離れて以来、人々は敵を作り、壁を作ることによって自分を生かし、守ろうとしてきましたが、それらの努力が決して身を結ばないものであることが、時間がたてば立つほどはっきりしてきているのです。今、イエスとともに歩み始めませんか?

 


B. イエスと共に立つために (5)

 5節を読みましょう。

10 主に贖い出された者たちが帰って来る。歓声を上げながらシオンに入る。その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。喜びと楽しみが彼らに追いつき/悲しみと呻きは逃げ去る。あなたを尋ね求める人すべてがあなたによって喜び楽しみ
あなたの救いを愛する人が「神は大いなるかな」と絶えることなく言いますように。

 イエスとともにいること、あゆむこと、何かのために立ち上がり行動することを求める人にしていただきたいことを三つお話しして終わりたいと思います。これらのことなしに、イエスと歩むことは不可能だからです。

 

1. イエスを尋ね求め

「私はイエスに出会いました。救われてクリスチャンになりました。永遠に通用する天国のパスポートを手に入れました。」それだけで満足している人がたくさんいます。もう出会ったのだから、イエスを尋ね求める必要はないと言う態度です。それは、イエスに従っているつもりで、実はイエスを悲しませることになってしまいます。イエスはこう警告しています。

「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。その日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪例を追い出し、皆によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』と言うであろう。その時、私は彼らにこう宣言しよう。『あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ』」(マタイ 7:21-23)

道を逸れずに従い続けるためには、いつも主の前に出て、求め続けなければならないのです。

 

2. イエスによって喜び楽しみ

 私たちは永遠の求道者であると言うことですが、それは決して、その言葉が想像させるようなしんどいことではありません。それでは永遠どころか、数日も続かないでしょう。しかしイエスと共に歩むことは喜びであり楽しみです。次のコーナーで曲がったらどんな景色が現れるのか?どんな出会いがあるのか?わくわくするような歩みです。

 私自身、イエスについてゆく決心をして以来、人生は、イエスと共に歩んでいなければ決して味わうことのなかったであろう喜びと楽しみに満ちていたと振り返ることができます。実は、イエスと出会っていなければ経験しなかったであろう苦労や悩みもそれと同じくらい有ったのでしょうが、振り返れば、その全ては主の栄光が現れるため(ヨハネによる福音書 9:3)と思えるのです。

 

3. イエスの救いを愛する

 ですから、イエスについて行きたいと思うなら、「神様、急いで来て助けてください!」という叫びを自分とは関係ないものと思わないでください。イエスの救いを愛するとは、自分が救われたことをありがたく思うだけのことではないのです。誰かからの無理解、軽蔑、敵意はこの世界に空気のように存在し、多くの人々を今も苦しめています。イエスは常に、それらによって苦しむ者、貧しい者と共におられ、彼らの救いとなられます。イエスと共に生きるということは、自分もイエスと共にそこにいて彼らの救いを求め、愛することなのです。

 


メッセージのポイント

イエスについて行きたいと思うなら、「神様、急いで来て助けてください!」という叫びを自分とは関係ないものと思わないでください。誰かからの無理解、軽蔑、敵意はこの世界に空気のように存在しています。イエスは常に、それらによって苦しむ者、貧しい者と共におられます。イエスと共に生きるということは、自分もイエスと共にそこにいるということです。

話し合いのために

1) 苦しむ者、貧しい者とは誰のことですか? 
2) 「神よ、私のために急いでください」と叫んだ時のことをシェアしてください。

子供たちのために

まず6節から、苦しんでいる者、貧しいものとはどのような人かを考えさせてみましょう。自分がそうではなかったとしても、実はそのような人々が(病気や貧困や虐待やいじめによって)私たちの周りにもたくさんいることを知らせてください。そして一人が周りの子供たちに無視されたり、いじめられているところにイエスがこられるシーンを想像させてください。石打にされようとしている女性(ヨハネ8)やザアカイを招いた(ルカ19)イエスを紹介して、イエスの側に立つということを考えさせてください。