悪いパン種

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悪いパン種

(マルコ 8:11-21) 池田真理

 今日は「パン種(酵母・イースト)」がテーマです。私は子供の頃から肉まんが好きなのですが、これまで一度だけ、高校生の時に自分で肉まんを作ってみようと思って作ってみたことがあります。その時に初めてイースト菌のパワーを知りました。イーストを入れた生地をしばらく放置しておくと発酵して生地が膨らみます。自分でやってみるまでは「本当に膨らむのかな」と思っていたのですが、見事に1.5倍くらいに膨らんだので感動しました。ただ、聖書に出てくるパン種(イースト)の例えは、良い意味よりも悪い意味の方が多いです。肉まんの生地が膨らんで美味しい肉まんができるのは嬉しいことですが、今日想像していただきたいのは、悪いパン種によって膨らんだまずいパンです。残念ながら、私たちは全員その悪いパン種を持っていて、時々そのパン種によって美味しくないパンを製造してしまいます。11-15節を読んでいきましょう。

A. 自分を神にする (11-13)

11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論を仕掛けた。12 イエスは、心の底から呻いて言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。よく言っておく。今の時代には、決してしるしは与えられない。」13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった。15 その時、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と戒められた。

 ここでファリサイ派の人たちとヘロデが並べられているのは、彼らが同じ悪いパン種を持っていたからです。それは、ファリサイ派の人たちがイエス様に天からのしるしを求めた態度に表れています。彼らは、イエス様が多くの人の病気を癒し、悪霊を追い出す奇跡を行っていることを知っていました。それでもイエス様を信じることができず、イエス様の力は悪魔の力だとまで疑い、もっとすごいしるしを見せてみろと要求しました。それは、「お前が神だというならその証拠を見せてみろ。それを見たら信じてやろう」と言っているのと同じです。

 私たちは、イエス様を信じていてもいなくても、神様という存在に対して、彼らほどひどい態度はとっていないと思うかもしれません。確かに、彼らと全く同じ態度を取る人はそんなにいないかもしれません。それでも、根本的には同じ悪いパン種を私たちはみんな持っています。「この願いを叶えてくれたら、神様はいるに違いないけれども、そうでなければ私には信じられない」と思ってしまう心です。私たちは時々、神様を自分の願い事を叶えるための道具にしてしまいます。それは、自分自身を神にして、自分の思い通りに神様を使おうとしていることになります。私たちは神様にどんな願いでも打ち明けて求めることが許されていますが、神様は私たちの願いをそのまま全て叶えてくださるわけではありません。心からの願いをそのまま打ち明けた上で、それでもそれが神様の意思に叶わなければそうならなくてもいいのだと、心の準備をしておく必要があります。それは、自分の思いを超えたところに神様の意思が働き、それが最善なのだと信頼することです。そういう風に神様を信頼することは、願いが切実であればあるほど難しいことです。自分の切実な願いと心からの叫び、嘆きを、なぜ神様は聞いてくださらないのか、応えてくださらないのか、私たちは時に絶望します。でも、それは悪いパン種です。それをそのままにしておけば、そのパン種は膨らみ、私たちの中で絶望と悲しみ、神様への恨みと疑いは膨らむ一方です。この悪いパン種を自分で取り除ける人は誰もいません。でも、膨らませないことはできます。その唯一の方法は、今日最後にお話ししますが、イエス様のパンを食べて満腹することです。イエス様はどんな状況においても私たちを満腹させることができる方だと信頼することとも言えます。そのことは後でお話しすることにして、その前にもう少し悪いパン種のことをお話しします。14-21節に進みます。

 


B. イエス様が神様であることを理解しない (14-21)

14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった。15 その時、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と戒められた。16 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。17 イエスはそれに気付いて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。19 私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

1. イエス様を知っているつもりになっている

 悪いパン種を膨らませてしまう要因の一つは、イエス様を知った気になっていることです。弟子たちはイエス様の一番近くで一番長く時間を過ごしてきたはずです。にも関わらず、イエス様のことを理解できませんでした。ファリサイ派の人たちも、自分たちこそが神様に関する正しい知識を持っていると思っていたからこそ、イエス様のことを受け入れることができませんでした。自分は神様のことを知っている、イエス様のことを知っていると思っている人たちこそ、悪いパン種に気をつける必要があります。私たちはいつも、自分には見えていなくても神様には見えていることがあると覚えておく必要があります。神様について、イエス様について、私たちには常に分からないことがあるのが普通です。前回までの異邦人の世界でのイエス様のように、イエス様は社会の常識や時代や文化の価値観も超えられる方です。私たちは、イエス様によって古い自分を壊されて新しい自分に作り変えられていくことを求めましょう。私たちの思いとイエス様の思いは同じかもしれないし違うかもしれないことを、いつも覚えておきましょう。

 

2. 「パンを持っていない」ことに気を取られる

 さて、悪いパン種を膨らませてしまう、もう一つの要因は、私たちは弟子たちと同じように「パンを持っていない」ことに気を取られてしまうということです。14-16節にはこうありました。

14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった。15 その時、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と戒められた。16 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。


弟子たちは自分たちがパンを持ってこなかった、パンが足りない!ということで焦ってしまいました。これは本当に私たちと同じだと思います。現実に起こってくる様々な問題に気を取られて、自分でどうにかしなければと焦ってしまい、イエス様に耳を傾けることを忘れてしまいます。自分の失敗や自分に能力が足りないことを心配しすぎて、イエス様の言葉を理解できません。イエス様に助けを求めれば良いのに、そのことを思いつきもしません。自分でどうにかしなければと思っている限り、私たちは悪いパン種を膨らませてしまうでしょう。

 

3. イエス様の憐れみの大きさを理解できない

 イエス様は弟子たちに、五千人と四千人の群衆に食事を与えた時のことを思い出させました。

19 私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

イエス様の質問は、細かい数字に意味があるのではなく、五千人の時も四千人の時も、食料が足りなかったことはなく、足りないどころか余りが出ただろう?ということを思い出させるためです。弟子たちは、イエス様がどういう方であるか、思い出せばよかったのです。イエス様は、足りないものからあり余るものを生み出すことのできる方だと、思い出せばよかったのです。でも、弟子たちはそれができませんでした。なぜなら、何千人もの群衆をわずかなパンで満腹にさせたイエス様の働きをまだ信じられていなかったからです。彼らは、イエス様の憐れみの大きさとそれを実現する力を、まだ分かっていなかったのです。

 私たちは、この時の弟子たちと比べれば、イエス様の十字架を知っているという点で有利な立場にあります。それでも、相変わらずイエス様に「まだ分からないのか」と言われてしまうのは同じです。ファリサイ派の人たちの要求に、イエス様が「心の底から呻いた He sighed deeply」(12節)ように、イエス様は私たちの中の悪いパン種を嘆くでしょう。また、弟子たちに言われたのと同じように私たちにも言われるでしょう。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。 私たちの悪いパン種はしぶとく、そのことを私たち自身以上に嘆き苦しんでいるのがイエス様です。そして、自分で自分の悪いパン種を取り除くことのできない私たちのために、自ら私たちのためのパンになりました。

 


C. イエス様のパン

 ヨハネによる福音書6章にこうあります。

35 イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。…53 「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。54 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。55 私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。56 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。57 生ける父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 イエス様は、「私を食べなさい」と言われました。イエス様が十字架で流された血と裂かれた体を、自分のものにしなさいということです。自分を犠牲にするほど私たちを愛しておられること、憐れんでおられることを信じなさいという意味です。それほどまで私たちはイエス様にとって大切な存在であることを知りなさいという意味とも言えます。
 最初に少し言いましたが、悪いパン種を膨らませない唯一の方法は、悪いパン種を取り除くことではなく、イエス様のパンを食べることです。イエス様のパンを食べていれば、悪いパン種がなくならなくても、それを膨らませないですみます。イエス様というパンは、決してなくなることはありません。その甘さと豊かさは、何度でも私たちを立ち上がらせてくれます。イエス様を信じられない、期待できないという悪いパン種を膨らませてしまっても、「私の肉を食べ、私の血を飲みなさい」という声を聞きましょう。聖霊様も私たちを助けてくれます。そして、決して渇くことのない、飢えることのない命、希望と喜びに満ちた命をいただきましょう。

 


メッセージのポイント

私たちはみんな悪いパン種を持っています。イエス様以外のものを神様にしてしまう心です。私たちは自分でこれを取り除くことはできません。そのパン種をふくらませないために私たちにできることは、ただイエス様のパンをいただくことです。イエス様のパン(イエス様の愛、憐れみ)は決してなくなることなく、不足することなく、いつもたくさんあります。私たちは自分の間違いや能力不足に気を取られてしまいますが、イエス様がしてくださることを期待することを忘れないようにしましょう。

話し合いのために

1) あなたの持っている悪いパン種とはなんですか?
2) イエス様のパンを食べるとは具体的にどういうことですか?

子供たちのために

読むとしたら14-21節でいいと思います。パンの発酵の行程を説明してもいいかもしれません。ただ、「悪い心を取り除いてイエス様を信じましょう」というふうにはならないようにお願いします。イエス様を疑ってしまうこと、イエス様以外の何かをイエス様以上に求めてしまうことは、私たちは一生繰り返すことで、自分の力でそれをやめることはできません。自分で自分のパンを膨らませるのではなく、イエス様のパンを食べること、その美味しさ、豊かさ、大きさを味わうことが一番大切です。