明るい終末論

 

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明るい終末論

(詩編 76, マタイによる福音書 18:1-5) 永原アンディ

1 指揮者によって。弦楽器で。賛歌。アサフの詩。歌。
2 神はユダに知られ その名はイスラエルで偉大である。
3 その隠れ家はサレムにあり 住まいはシオンにある。
4 そこで、神は弓の火矢を砕き 盾と剣の戦いを砕かれた。〔セラ

5 あなたは光を放ち 獲物に満ちた山よりも力強くある。
6 心の強い者らは餌食とされて眠りに沈み 力ある者らは皆、打つ手を失った。
7 ヤコブの神よ、あなたの叱咤によって 戦車も馬も深い眠りに陥った。

8 あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。怒りを発せられるとき 誰がその前に立ちえようか。
9 あなたが天から裁きを告げると 地は恐れて、鎮まった。
10 神は裁きのために立ち上がり 地の苦しむ人をことごとく救われる。〔セラ
11 憤る者さえあなたをたたえ 怒りを免れた者はあなたを祝う。

12 あなたがたの神、主に誓いを立ててそれを果たせ。神を囲む者たちは皆 恐るべき方に貢ぎ物を携えて行け。
13 地上の王たちに恐れられる方は 君主たちの霊を挫く。

 

1. 人ではなく神に信頼することを求める預言者の系譜

 この詩がどのような状況の中で歌われたのか、学者の意見は分かれていて想像するしかありませんが、国家的、民族的危機の中で歌われていることは確かです。しかし今まで読んできた一連の詩とは違い、危機の中での嘆きや助けを求める叫びではなく、過去の神様がして下さったことを思い起こし、同じように今の危機にも介入してくださるだろうという期待が預言的に(prophetically)歌われています。この詩の背景は、敵を破り民族が勝利するといった好戦的な(warlike)願いではなく、武器を捨て神様の介入を信頼して待とう、というイザヤのような預言者たちの教えに沿ったものです。

 イスラエルの歴史の中で、預言者と呼ばれる人々が重要な役割を担ってきました。預言者(prophets)は、単に未来を言い当てる (foretell) 予言者、占い師 (fortunetellers) とは違います。神様から語りかけられ、神様の意思を人々に伝える人々です。イエスラエル民族の祖、アブラハムも直接神様から声をかけられ、それに従って人々を導いたという点で、預言者的指導者(Prophetic National Leader)だと言えます。モーセも同じです。しかし国家的指導者が神様から直接その言葉を預かり、人々を導く時代はサムエルの時まででした(サム上 8)。サムエルが年老いた時、人々は王を持つことを求めました。預言者が人々を導くのは時代遅れだと感じていたのです。なぜなら周りの国々には、政治的、軍事的な強力なリーダーとして王がいたからです。神様はサムエルを通して、王を持つことがどれほどその民に苦しみをもたらすかを民に伝えました(サム上 8:10-18)。それでも、民は周りの国々に負けないように自分たちにも王が必要なのだと言って聞き入れませんでした。神様はサムエルに「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」と語られました。そこで王とされたのがサウルです。サウルの死後、ダビデもまた預言者を通して神様によって立てられましたが、それ以降の王は世襲か、クーデターによって継承されていきます。神様の意思を聞こうとしない王たちが出てきます。神様に立てられた真の預言者たちは、王の権力を恐れず神様の意思を王に伝えますが、王たちは預言者を迫害したり、殺したりしました。バプテスマのヨハネも預言者として、民にメシア・イエスが来ることを伝え、人ではなく神様に従うべきことを命じ、王の不正を責めて殺されてしまいました。イエスは、このヨハネを預言者の系譜に連なる最後の一人と言いました。また、ご自身については、「すべての預言の完成」とされました。マタイによる福音書11章のイエスの言葉を聞いてみましょう。

まずご自身について、洗礼者ヨハネの問いに答える形でこう言われています。

2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。6 わたしにつまずかない人は幸いである。」

そしてヨハネについては、こう言われました。

9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。

 イエスもまた、一人の人間としては、洗礼者ヨハネの後に登場して、理解されずに十字架につけられて殺された預言者に見えます。しかし、預言者たちとは決定的に違うところがあります。それは「三日目によみがえられた」ことです。このことがなければ、イエスは神ではなく、誰よりも偉大ではあっても、一人の預言者でしかなかったのです。しかし、復活の証言を信じて、イエスの弟子となりイエスの意思を行う人々が、今は世界中に広がっているのです。人ではなく神に信頼することを求めたイエス以前の預言者の系譜は、イエスによる預言の成就以降、証言者としての系譜として、人ではなく神に信頼することを求めるあなたにまで連なっています。

 


2. 厳しい現実の中で神の国を求める声を聞く、声を発する

 イエスが天に帰られ、その姿が見えなくなってから弟子たちは、聖霊の力に満たされて、心に聞こえるイエスの声に聞き従って歩み始めました。形や程度は違っても、どの時代でも、どの地域でも、イエスに従ってゆくことには困難を伴います。キリスト教国と呼ばれる国々でも同じです。そこに神の正義はあるのか?イエスの愛は現れているのか?そのように考えると、どの国も大差はありません。正義は歪められ、愛は無力のように思えます。最近、私が一番悲しく感じられたニュースは小学校の教師間のイジメです。同僚をいじめていた教師たちの中には、子供同士のイジメを無くす担当の教師が含まれていたそうです。何という社会でしょう。人々が「世の終わりは近い」と感じるのも無理のないことです。

 私たちの中には、ニュースで報じられるよりもっとずっと身近なところで、辛い事、悲しい事が起こって困惑している人がいると思います。

5〜10節をもう一度読みます。

5 あなたは光を放ち 獲物に満ちた山よりも力強くある。
6 心の強い者らは餌食とされて眠りに沈み 力ある者らは皆、打つ手を失った。
7 ヤコブの神よ、あなたの叱咤によって 戦車も馬も深い眠りに陥った。
8 あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。怒りを発せられるとき 誰がその前に立ちえようか。
9 あなたが天から裁きを告げると 地は恐れて、鎮まった。
10 神は裁きのために立ち上がり 地の苦しむ人をことごとく救われる。〔セラ

 今読んだことは、まだ詩人の目の前に起こってきてはいません。それでも、このように歌っているのは、強がりではなく、神様への信頼です。彼らの信頼の原点は、エジプトでの苦しい奴隷の状態から解放していただいたことです。
 
 私たちの「出エジプト」(Exodus)は、イエスとの出会いによって実現しました。イエスは死んでいる者を生きる者に変える方です。生きる目的を知らない者にそれを与え、絶望している者に希望を与え、憎む者を愛する者に変え、苦しむ者をいやし、悲しんでいる者に喜ぶ者に変えられます。

 イエスの招きに応えて、それぞれのエジプトから脱出して来た者は、今でもこの詩人の声に共感できるはずです。今が良くても悪くても、イエスは決してあなたを見捨てることはありません。
今、私たちがすることは、自分を憐むことではありません。イエスの声を礼拝や祈りを通して聞き続けることです。また、証言者として、絶望している人にイエスへの信頼を勧め、イエスのように慰め励まし続けることです。

 


3. 子供のような信仰で明るい終末に向かって生きよう(マタイによる福音書 18:1-5)

自分の置かれている状況が苦しても、預言者のように希望を持って生きることを可能にするキーワードが「子供のような信仰」です。どういうことなのでしょうか、今日のもう一つのテキスト、マタイによる福音書 18:1-5を読みましょう

マタ 18
1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 実は先週もこのシーンをマルコよる福音書で読みました。この短い会話の中でイエスはふたつの重要なことを伝えています。一つは先週の主題だった「小さな者を受け入れる」ということす。今日は、もう一つの、私たち自身が「子供のような信仰」を持つということに焦点を当てます。私たちは預言者と聞くと、長い髭を生やした老人を思い浮かべるのですが、実は預言者たちこそ「子どものような信仰」を持っている人々なのです。

 子供は力もなく、知識も常識も少ないで、生きてゆくためには誰かを信頼するしかありませ

ん。もちろん実際の預言者達は、その時代の人々の中の誰よりも多くの知識を持っていました。しかし、預言者たちはその知識に頼ることをせず、神様だけに信頼を置いたのです。神様から語れと言われれば、空気も読まない、常識にとらわれないで、神様の意思を伝え、イエスの到来を預言したのです。

 バプテスマのヨハネに至る預言者の系譜は、預言の成就としてイエスが来られてからは、最初の弟子たちから私たちに至る証言者の系譜に引き継がれたと 1. のところでお話ししました。では、私たちはイエスを証言しながら、どこに向かっているのでしょうか?それは「世の終わり」です。聖書は目に見える世界に終わりが来ることをはっきりと伝えています。このことを扱う神学の領域を「終末論」(Eschatology) と言います。

 私たちには、旧約の民とは異なる悩みがあります。旧約の民はメシアがきてくれることを期待して、国を失うような困難の中でも希望を失うことなく、何世代にも渡って生き延びてきたのです。私たちは、救い主が来てくださったのに、2000年にもわたり、戦争や紛争のない時はなく、天災や人災や深刻な病気に悩んでいます。この問題の最終的な解決として、私たちは主イエスが再びこられる時を待ち望んでいるのです。その時、神の国は完成するからです。「終末論」(Eschatology) はこのことについての理解を深める学びです。

 この終末について、黙示録からいろいろと勝手な想像を働かせた、例えば「レフトビハインド」のような映画や著作が出回っています。それらは、その人々の解釈であることを忘れてはいけません。黙示録は象徴的な表現が多いので、どのようにでも解釈できてしまうのです。これらは真面目な「終末論」(Eschatology) ではありません。私たちが信頼するべきなのは、誰かの「世の終わり」についての解釈ではなく、私たちの主、イエスの言葉です。イエスは、その日がいつ来るのか、どんな形で起こるのかを想像することを求めません。それよりも大切なこととして「子供のような信仰」を求めているのです。

 子供は、保護してくれる人を信頼していれば、厳しい世界の情勢に悩みません。悪いニュースを聞いても、自分は守られていると知っているので怯えることはありません。他の家庭より貧しくても幸せです。そのようにイエスを信頼して歩むことが「子どものような信仰」を持つということです。それは、どんな時でも、自分が弱くて小さい者であることを自覚して、ただイエスを信頼して生きる、ということです。 

 そして先週、学んだことを繰り返しますが、「子供のような信仰」を持つ者は、自分よりさらに小さな者を受け入れる者です。イエスは、小さな者を受け入れるとは、すなわち私を受け入れることだと言われました。イエスは地上の歩みの中で、自分自身を神と主張するのではなく、神様に信頼を置く子としての立場を従順に貫いたのは、私たちのお手本になるためです。

 私たちは、このイエスにならってあらゆる人に届き、イエスを紹介し、信頼して、安心して、喜んで生きることができることを伝えつつ、天に移されるまでイエスと共に歩んでいることを喜んで歩み続けましょう。

 


メッセージのポイント

 神様は旧約聖書の預言者たちを通して人々に、人ではなく神様に信頼することを繰り返し求めてこられました。しかし人々は耳触りの良い、民族の繁栄、勝利、敵の滅亡を説く教えを好み、預言者たちを迫害してきました。イエスはご自身をこの預言者の系譜に連なる者とされています。しかしイエスが来られてからも、人々の耳に心地よい「キリスト教徒の繁栄、勝利、敵の滅亡」の教えは今も続けられています。私たちは、そのような雑音の中で、イエスの声を注意深く聞き分けてゆきましょう。

 

話し合いのために
  1. なぜ預言者たちは迫害されたのでしょうか?
  2. あなたは“終末”にどのようなイメージを持っていますか?

 

子供たちのために

 5−10節から、神、イエス様は、人々が武器を持って戦うことを悲しんでおられることを教えてください。世界に武器があふれている事、子供たちもその犠牲になっている事。また国々が武器を持つためにお金を使いすぎて、子供たちが食べるもの、着るもの、住むところに困っています。
 マタイによる福音書18章では、イエス様は「子供のような信仰」を私たちに求めています。子供は力も弱く、知識も少ないので、かえって神様や大人を信頼して、元気で、楽しく生活することができるのです。色々な力をつけることも、知識を増やすことも大切ですが、それでイエス様を頼らなくなっては、何の意味もありません。