私たちが次世代に語り伝えるべきこと

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私たちが次世代に語り伝えるべきこと

(詩編 78) 

永原アンディ

この詩は、出エジプトから国の滅びまでの民族の長い歴史の中で、神様の大きな恵みにも関わらず繰り返された民の背きとそれでも導き続けてくださった神様の憐みを歌っています。長いので全部を読むことはできませんが、いくつかの節を取り上げてお話しします。

 

A. イスラエルの歴史から学ぶ、神様の恵みと人の背き

 

1. ユダヤ人は神様の恵みを次世代に伝えることを大切にしていた

始めに8節までを読みます。

マスキール。アサフの詩。民よ、私の教えを聞き 私の口の言葉に耳を傾けよ。私は口を開いてたとえを語り いにしえから隠されていたことを告げよう これは私たちが聞いて知ったこと 先祖が語り伝えたこと。これを子孫に隠すことなく 主の誉と力を 主がなされた奇しき業を 後の世代に語り伝えよう。主はヤコブに定めを与え イスラエルに教えを授け 子孫に知らせるようにと先祖に命じられた。それは、後の世代 生まれる子らがこれを知って奮い立ち そのまた子らに語り伝えるため 子らが神に信頼を置き 神の業を忘れず その戒めを守るためである。また、先祖のようにかたくなで逆らう世代 心が定まらず、霊が神に不誠実な世代に ならないためである (1-8)

 この部分は、この長い詩が伝える歴史を民が心に刻み付け、さらに次の世代に語り継げなければならない、という決意とその理由を明らかにしています。
 語り継ぐべきこととは、神様がその愛と憐み、力によって助け導いてきてくださったことです。それを未来の世代が心に刻み付けなければならないのは、その中で、民が逆らい続けてきたこと、神様に対して不誠実であったことが現在の悲惨な状況を引き起こした原因だったからです。そこで詩人は、次の世代に伝えるべき一番大切なことは、神様への信頼を保ち誠実であることだと言います。それまでの民の歩みは基本的に神様に逆らう不誠実な歩みだったからです。

 

2.それにも関わらず、恵みはすぐに忘れられ、神様への信頼も失くした

イスラエルの歴史は絶えることのない神様の憐みと人の背きの繰り返しであることがこの後の部分から明らかにわかります。17-22節を読んでみましょう。

しかし彼らは神に向かって罪を重ね 砂漠でいと高き方に逆らった。己の欲のために食べ物を求め 心の内に神を試み 神に逆らっていった。「荒れ野で食卓を整えることが神にできるだろうか。神が大岩を打つと 水がほとばしり豊かな流れとなった。だが、神はパンをも与えることができるだろうか。民に肉をあてがうことができるだろうか。」主はこれを聞いて、憤った。火がヤコブに向かって燃え上がり 怒りがイスラエルに向かって立ち上がった。彼らが神を信じず その救いを頼みとしなかったからだ。(17-22)

 預言者たちの警告にも関わらず、人々は、苦しくなれば助けを求め、神様が手を差し伸べればすぐにその恵みを忘れて、神様にではなく自分たちの欲望に従いました。21,22節で神様はそのような民の態度に「憤った。火がヤコブに向かって燃え上がり 怒りがイスラエルに向かって立ち上がった。彼らが神を信じず その救いを頼みとしなかったからだ。と詩人は表現しています。そして、そのようなことが何度も繰り返されたのです。23-31節を読んでみましょう。

しかし、神は上から雲に命じて 天の扉を開き 彼らの上にマナを降らせて食べさせ 天の穀物を彼らに与えた。人は皆、天の使いのパンを食べた。神は満ち足りるまで糧を送られた。神は天から東風を放ち 力をもって南風を起こした。彼らの上に肉を塵のように 翼ある鳥を海の砂のように降らせ その宿営の中に幕屋の周りに落とした。彼らは食べ、満ち足りた。神は彼らの欲望を満たした。彼らが欲望から離れず 食べ物がなお口の中にあるうちに 神の怒りが燃え上がり 彼らのうちのたくましい者たちを殺し イスラエルの若者たちを打ち倒した。(23-31)

 民が罪深いので、人々は神様に殺されたという表現までされています。しかしここから神様が「自分に従順な者には褒美を与え、自分に逆らうものは殺してしまう」方だと誤解しないでください。30,31節は民数記11章33節の出来事を指して言っているのですが、激しい炎が上がるような何らかの自然災害が起きたようです。その場にいた人々は、欲望に任せて満足しようとしていた力の強い者、若者が、被害を受けたことを目撃し、神様が彼らを打ったと感じたのです。誰も生涯の長さやどのような死に方をするのか自分で決めることはできません。それを人に強いることも許されてはいません。その意味では、神様だけにその決定権があるとはいえますが、神様は人間のように自分に対する態度によって、その時や方法を決めたりはなさいません。私たちは生涯の長さも、その亡くなり方もその人の価値とは関係ないことを経験的に知っています。しかし、神様を信頼して敬おうと思わない人が力を持つなら、その社会では不当に苦しめられたり、命を奪われたりすることが多くなります。イスラエルは神様に逆らい続けて国としては滅びてしまいました。しかし、民族としては神様に保護されて滅ぼされることはなかったのです。

 

3. 神様は人々がどんなに背を向けても、必要を満たし続けた

 それでは32-39節を読みましょう。

それにもかかわらず彼らはなお罪を犯し 奇しき業を信じなかった それゆえ、神は彼らの日々を息のように消し 彼らの年月を恐怖のうちに断ち切った。神が彼らを殺すと 人々は神を尋ね、立ち帰って神を求めた。そして思い出した 神は彼らの大岩 いと高き神こそ贖い主であることを。しかし、彼らは口で神にへつらい 舌で神を欺いた。彼らの心は神のもとにとどまらず その契約に誠実ではなかった。しかし、神は憐れみ深く 過ちを覆って、滅ぼさず 怒りを幾度も抑え 憤りをことごとくかき立てることはなかった。神は思い起こした 彼らは肉にすぎず 過ぎ去れば再び帰らない風であることを。(32-39)

 大きな災が起こると、自分たちが神様に従っていないことを思い起こし神様に立ち返ろうとするのに、すぐに背を向ける人間。しかし、それに対する神様の態度が「報復」ではないことはこの部分からもわかります。神様は「憐れみ深く 過ちを覆って、滅ぼさず 怒りを幾度も抑え 憤りをことごとくかき立てることはなかった。 Yet he was merciful; he forgave their iniquities and did not destroy them. Time after time he restrained his anger and did not stir up his full wrath.」のです。それでも繰り返しなされる背反に、神様は今から2000年ほど前に、新しい方法でその恵みをすべての人に届ける新しいプロジェクトを始められました。神様ご自身が一人の人、イエスとしてこの世界にこられるというプロジェクトです。その始まりがクリスマスの出来事なのです。キリスト教会のカレンダーでは来週からの4週の日曜日は、クリスマスの出来事を思い起こし恵みを感謝するアドヴェントと呼ばれる特別な時です。ある人にとってはイエスに出会う時となるでしょう。礼拝でのお話も、いつものシリーズから離れてクリスマスのお話をしてゆきます。次の世代に語り継ぐべきことは、ユダヤ人にとっては出エジプトを中心とした神様の恵みでしたが、私たちにとっては「イエス・キリストによって表された」神様の恵みなのです。私たちはなぜイエス・キリストを次世代に語り継いでゆくべきなのでしょうか?後半ではその根拠をお話しします。

 


B. 私たちは次世代に向かってイエスの恵みを語り伝える

 

1. 私たちの罪はいつまでも私たちを苦しめるから

 民が神様の憐みによる介入にも関わらず、すぐ逆らい始めたのは、ユダヤ人の欠陥ではありません。すべての人間の持つ罪の性質によるのです。残念ながら、人類の性質は終わりの時まで変わることはないでしょう。しかしこのことを知ることは重要です。それを知ることが自分の苦しみ、悲しみ、生き辛さの本当の原因を知ることになるからです。自分の中のどうしようもない罪に気付けば、それを解決できる方を求め始めます。そこで私たちはイエスを紹介することができます。イエスの恵みとは、イエスに従って生きることによって、内に罪が住んでいるにも関わらず、その罪から自由になって生きられる恵みです。

 

2. 神であるイエスは決して私たちを諦めないから

  なぜ私たちはイエスのことを紹介し続けるのか?その二番目の理由は、神であるイエスは決して私たちを諦めないからです。頼りにならない方を紹介してもしょうがありません。イエスが弟子のペトロに「何度、人を赦すべきか?」と問われた時にどう答えられたか覚えていますか?イエスは七回どころか七の七十倍までも赦しなさいと言われたのです。それは491回目には許さなくていいということではありません。悔い改めるなら何度でも赦してやりなさいということです。イエスは自分がなさらない事を人に命じたりはなさいません。38節に書いてある通り、イエスは「もう我慢の限界です。あなたとは付き合ってはいられません。」とは決して言われないのです。何度でも失敗し、裏切ってしまう私たちに必要なのはこのような神様です。イエスは、こちらから断らない限り、とことん付き合ってくださる方です。誰もが、もうあなたとなんて付き合っていられないと思ったとしてもイエスだけは決してあなたのことを諦めず、愛し続けてくださる方である事を忘れないでください。

 

3. イエスなしで生きる虚しさを誰にも味わってもらいたくないから

 最後の理由は、私たちは誰にも「イエスなしで生きる虚しさ」を味わってもらいたくないからです。それは、生きている理由を知らずに生きる、人生の目的を知らずに生きる、自分の欲望に従って生きる虚しさです。この虚しさは、色々なことで一時的に紛らわすことができます。深く考えずに楽しいことだけ追求して生きようと思うこともできます。何もなければ忘れていられる虚しさです。しかし、自分ではどうすることもできない問題に突き当たった時、私たちは自分の中にも、信頼できる人の中にも答えはないことに気付くのです。イエスを信じ、イエスに従って歩んでいる人とは、その虚しさに気付き、イエスをその答えとして受け入れた人です。ですから、虚しさに気付いていない人にイエスを紹介することは困難です。そのような人にできることは、友達でい続けることです。あなたが友としてその人と共にいるなら、その人が虚しさを覚え何とかしたいと思った時に、その解決としてイエスを紹介することができるからです。しかも、他人としてではなく、自分の最も親しい友としてイエスを紹介できるのです。

 

 


メッセージのポイント

この詩はイスラエルの歴史が絶えることのない神様の憐みと人の背きで成り立っていることを教えています。人類の性質は終わりの時まで変わることはありません。しかし、神様の恵みを認め、それを感謝して生きるなら、社会がどんなに荒んでいても、平和な心で生きることができます。

話し合いのために
  1. なぜ人は神様の恵みをすぐ忘れて背いてしまうのでしょうか?
  2. 神様は彼らを殺したのでしょうか (34)?
子供たちのために

子供たちには出エジプト記16章のマナの話をしてあげてください。そこから、神様の恵み深さと私たちの欲深さを対比して、自分の欲望に従うのではなく、神さまの考えを聞きながら生きることの素晴らしさを伝えてください。