しかし、神の言葉はつながれていません!

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しかし、神の言葉はつながれていません!

(2テモテ 2:1-9) 

永原アンディ

 

 先週、今年の私たちの歩みのテーマとして、私たちに神様の恵みが委ねられていることを聞きました。委ねられたということは、神様の恵みを「いただいた」だけではなく、それを「与える」者とされているということです。パウロは、このことについての最高のお手本です。しかし、いただいた恵みについては確信があっても、自分がそれを人に与えられる自信が無いという人は多いと思います。しかし、イエスは、パウロがここでテモテを励ましているように、私たちをそのような者として歩めるように強くなりなさいと勧めているのです。そのことを確認するために、先週と同じテモテへの第二の手紙の2章1-9節を読んでいきたいと思います。まず2節までです。

 

1. なぜ強くなるべきなのか? (1-2)

そこで、私の子よ、あなたはキリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。 そして、多くの証人の前で私から聞いたことを、ほかの人々にも教えることができる忠実な人たちに委ねなさい。3 私は、夜も昼も祈りの中で絶えずあなたのことを思い起こし、清い良心をもって先祖以来仕えている神に感謝しています。4 私は、あなたの涙を忘れられず、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。5 また、あなたが抱いている偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。

 パウロはテモテが、ただ一人の伝える人となるだけではなく、恵みを伝えるチームのリーダーとなって、多くの人々が「恵みを委ねられた者」として歩めるようにしなさいと言っています。つまり、私たちは皆「恵みを委ねられた者」として歩めるように強くなる必要があるのです。ここにはどうしたら強くなれるかも書かれています。人間に求められる真の強さは、体力でも、知力でも精神力でもありません。運動も、勉強も役には立たない「愛する力」なのです。どうしたらその力をつけることができるのでしょうか?答えはこの節にありました。「キリスト・イエスにある恵みが私たちを強くする」のです。いただいた恵み自体が私たちを強くし、その恵みを人々に伝えられるようになるということです。イエスに近くいることだけが強くなる方法です。どれだけ礼拝することを中心とした生活をしているかが問われています。何度もお話ししてきたように、それは「日曜日の礼拝に出席する」ということでは決してありません。礼拝は、いつでも、どこでも、誰とでも、一人でもできることです。あなたが礼拝を大切にしているかどうかは、神様以外、誰にもわかりません。しかし、その結果はあなたの人生に反映します。他の誰もあなたを強くすることはできません。頼ることができるのはイエスしかいないのです。イエスに専任コーチとなっていただいて強くなりましょう。

 次に続くテキストで、その強さの性質について考えてみましょう。手紙は三つの例えでそれを説明しています。まず、3、4節です。

 


2. 求められている強さとは?

a. イエスの意思を行う兵士の強さ (3,4)

キリスト・イエスの良い兵士として、苦しみを共にしてください。兵役に服している者は、生計を立てるための仕事に関わることなく、ただ自分を召集した者を喜ばせようとします。

 あなたを招集したのは誰ですか?もちろんイエスです。招集したイエスを本当に信頼しているなら、召集された者は、食べるものについて、着るものについて思い悩むことはありません。イエスはご自身はこのことについて

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。

と言われます。イエスと共に、イエスのように愛することを、他のことを心配せずにし続ける強さを身につける。それはイエスに聞きながら少しづつやってみることで実現します。しかし、愛することには様々な苦しみが伴います。反対される苦しみ、忍耐の苦しみ、自己犠牲の苦しみなどです。

 

b. 規則に従って争う競技者の強さ (5)

また、競技をする者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を手にすることはありません。

 教会は、キリスト・イエスにある恵みを多くの人にもたらすために存在していますが、伝えられてきた教えを逸脱して教えるなら、恵みはそこで途絶えてしまいます。経済的な繁栄の強調や、“預言”と称する占いのような行為、聖書の記述を用いて人々を差別することなどとして現代の教会にも存在しています。そのようなところに多くの人々が「耳触りの良い教え」を求めて群がっています。同じ手紙の4:3,4では次のように警告されています。

誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りの良い話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話へとそれて行くようになります。

しかしそこには未来はありません。私たちは「耳触りの良い教え」の誘惑を避けながら、教えられたことを曲げずに地道に伝え続ける強さを、恵みによって保ち、さらに強くされていきたいと思います。

 

c. 労苦して収穫する農夫の強さ (6)

労苦している農夫がまず収穫にあずかるべきです。 

 三つ目は農夫の強さです。農夫の労苦はすぐには報われません。土を耕し、種を播き、水や肥料をやり、雑草を抜き、長い時間をかけてやっと収穫の時を迎えます。神様の恵みも、そのようにして収穫できるものなのです。私たちがイエスを信じ、恵みに与ったという事実が起こるために多くの人の祈り、涙、労苦、犠牲がありました。新しい年、私たちも祈り、涙、労苦、犠牲を払う農夫となりましょう。収穫はイエスが保証してくださっています。

きょうだいたち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます。(ヤコブ 5:7 )

 


3. 私たちはつながれている、しかし、、、(7-9)

私が言っていることをよく考えてみなさい。主は、何事においても理解する力をあなたに与えてくださいます。イエス・キリストを思い起こしなさい。私の福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されました。この福音のために私は苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。

 パウロは神様に用いられて、その始まりから今日までの教会の歩みに最も大きな貢献をした人物ですが、その生涯は、イエスに出会って以来、苦労の連続でした。何度も生命を脅かされ、持病があり、その晩年には、鎖に繋がれるような人生でした。しかも、「この福音のために私は苦しみ」とあるように福音は彼の苦しみの原因でさえあったのです。それなのに、パウロにとって福音は何よりも価値あるものであり、人に伝えずにいられないものであり、伝えた人がさらに誰かに伝えずにいられないものであり続けました。

 私たちもまた、恵みを得た喜びはあっても、何らかの苦しみ、悩み、痛み、悲しみを抱えています。自由とは言いがたい、鎖に繋がれているような感覚を持っています。とても力を発揮できるようには思えないかもしれません。しかし、お話ししてきたように、力は私たちの中にあるものではなく、キリスト・イエスにある恵みによって現れます。 神の言葉はつながれておらず、私たちに力を与えてくれます。神の言葉とは「聖書の言葉」だけを指しているのではありません。聖書に記されているイエスご自身のことなのです。イエスの強さは破壊する強さではなく、癒す強さ。争う強さではなく平和をもたらす強さです。それは私たちが想像するより遥かに強いのです。この力によって私たちは、自分たちの持つ弱さにもかかわらず、この世界に仕えているのです。

 


メッセージのポイント

イエスは私たちに強くなることを求めます。それは私たちが普通考えるような強さではなく、弱さの中に働く神様の力による強さです。その強さは破壊する強さではなく、癒す強さ。争う強さではなく平和をもたらす強さです。そしてその力は私たちが想像するより遥かに強いものです。この力によって私たちはこの世界に仕えているのです。

話し合いのために
  1. 恵みによって強くなるとはどういうことですか?
  2. 神の言葉がつながれていないとはどういうことですか?
子供たちのために

「キリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」とストレートに勧めてください。そして、それは体の力が強いとか、足が速いとか、勉強がよくできることとは全然違うのだということ。イエス様を信じて、イエス様と一緒にいることによる強さであることを伝えてください。人間には皆例外なく、誰にでも弱いところがあって、本当に強い人などは一人もいないことを知り、イエスと共に生きることを励ましてください。。