イエス様が先頭を立って行かれる道

 

❖ 見る

第1礼拝(日本語)

第2礼拝(日本語・英語)


❖ 聴く

第一礼拝 (日本語)

第二礼拝 (日本語/英語)


❖ 読む

イエス様が先頭を立って行かれる道

(マルコ 10:32-45)  

池田真理

 

A. イエス様が先頭を立って行かれる

32 さて、一行はエルサレムへ上る途中にあった。イエスが先頭を立って行かれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。33 「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、鞭打ち、殺す。そして、人の子は三日後に復活する。」 

 マルコによる福音書の中では、ここで初めて、イエス様と弟子たちがエルサレムに向かい始めたということが出てきます。当時からエルサレムはユダヤ人社会の中心地であり、大切な礼拝の場所でした。イエス様を敵とみなす宗教家たちの本拠地でもありました。そこに行くということは、自ら敵陣に乗り込んでいく危険な行為です。イエス様はこれまでにも2回、自分は捕らえられて殺されることになると、弟子たちに予告しました。今日の箇所は3回目の予告です。そして、今回ははっきり、それはエルサレムで起こると伝えています。
 でも、イエス様はここで「先頭を立って行かれた」とあります。そして、その様子を見た弟子たちと人々は驚き恐れた、とあります。この描写はマタイとルカにはありません。マルコは、イエス様の堂々とした姿を特に強調したということです。その姿は人々には理解し難いものでした。弟子たちも人々も、イエス様が新しい王様になってくれることを望んでいましたが、エルサレムに行くことが危険であることは分かっていたはずです。でも、イエス様には迷いはなく、むしろ人々を引き連れて自分が先頭を切って進んでいきました。弟子たちは、そのイエス様の決意の固さに驚きました。人々は、これからイエス様が何をするのか、どうなってしまうのか、恐れました。
 イエス様が先頭を切って進んだエルサレムへの道は、愛のために自分を犠牲にする道です。それは苦しみを伴う道ですが、イエス様は迷わずにその道を行きました。そして、十字架と復活によって、本当の愛には苦しみが伴うこと、でもその苦しみは苦しみのままで終わらないことを教えてくれました。私たちは、イエス様が開いてくださったこの道を歩んでいます。先頭に立って進むイエス様の後ろ姿を見ながら、驚き、恐れながらも、導かれています。
 続きに入っていきます。35-41節を読みます。

 


B. 報いを期待してイエス様に従う間違い 

1. 仲間が敵になる (35-41)

35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、もう一人を左に座らせてください。」38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか。」39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたは、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになる。40 しかし、私の右や左に座ることは、私の決めることではない。定められた人々に許されるのだ。」41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。

 イエス様が自分の死を予告した直後に、やっぱり弟子たちはイエス様の言葉を全然理解できていなかったということが分かります。3回の予告全てにおいてそうです。ここではヤコブとヨハネという兄弟がメインキャラクターです。彼らは、イエス様が権力を手に入れたら、自分たちにはその二番目と三番目の権力の座につかせてくださいと願っています。彼らは二重の間違いをしています。まず、イエス様が権力を手に入れるという考えです。イエス様の権力、イエス様の栄光というのは、他の人を支配して何でも自分の思い通りに動かすことができる力ではありません。もう一つの間違いは、彼らがその間違った考え方によって、自分自身もそういう権力を求めていることです。彼らはイエス様のことを慕って敬っていましたが、そこには自分自身もイエス様のように慕われて敬われるようになりたいという気持ちもあったということです。
 私たちも、イエス様のことを敬いながら、自分も他の人に敬われることを望んでいることがあります。イエス様のことを尊敬しているのだから自分は間違っていないと思ってしまいますが、自分をイエス様の二番目三番目に置いて、他の人たちは自分のことを尊敬するべきなのだと思っていることがあります。これは教会の牧師やリーダーが陥りやすい間違いです。この間違いに気が付かなければ、イエス様に従うことは結局自分の利益のためになり、イエス様に従っていることにはなりません。最悪の場合、イエス様の名前を使って他の人たちを自分に従わせることになります。
 この間違いは、ヤコブとヨハネと同じように、イエス様の栄光というものを勘違いしていることから起こります。イエス様の栄光は、社会的地位や経済的な成功ではありません。イエス様を信じればそういうものが手に入れられるとは、残念ながら聖書のどこにも書いてありませんし、イエス様も言っていません。でも、富や名声を求めることは、この世界では当たり前のことなので、知らないうちに私たちもその考え方に影響されてしまいます。ヤコブとヨハネが、仕事も両親も捨ててイエス様に従ったはずなのに、間違えてしまったようにです。
 この結果起こることは、イエス様を信じる仲間が敵になってしまうということです。41節には「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。これは、他の十人もヤコブとヨハネと同じ野望を持っていたからです。彼らは、二人が抜けがけをしてイエス様に願い出たので怒りました。また、仲間に裏切られたという怒りもあったと思います。見返りを求めてイエス様に従うということは、その見返りを誰が一番早く、または一番多くもらえるのか、という競争になります。そして、仲間はライバルになり敵になってしまいます。それぞれが自分の利益を求めているなら、他の人の利益とぶつかるのは当然です。
 教会の中でそのような争いは見えにくいかもしれませんが、気をつける必要があります。誰がよりイエス様に近く、イエス様に喜ばれているかということについて、誰も勝手に判断することはできません。イエス様すら、その判断をしていません。40節で、「私の右や左に座ることは、私の決めることではない。定められた人々に許されるのだ」と言われています。神様にしか決められないことなのです。
 私たちにできることは、エルサレムに向かい、十字架に向かって先頭を立って歩くイエス様の後ろ姿を見て従っていくことです。42-45節に進みます。

 

2. イエス様に従うことは自分を犠牲にして生きること (42-45) 

42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」」 

 イエス様がこのことを教えるのは2回目です。2回目に自分の死の予告をした時にも、弟子たちが誰が一番偉いかという議論をしているのに気がついて、このことを教えました。ただ、ここではそれがなぜかということにまで触れています。45節の言葉です。
「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエス様は、全ての人のために自分の命を捧げるために生まれてきました。それは、神様ご自身が自分を犠牲にして私たちを救いたいと願われたからです。エルサレムに向かうこと、そこで苦しめられて殺されてしまうことは、イエス様にとって予期せぬ事故ではなく、最初から定められていたことでした。罪と悪の力に支配されている私たちを神様が赦して解放するためには、神様ご自身が身代わりになるしかありませんでした。私たちの罪と悪は他人を犠牲にしますが、神様は自分を犠牲にして私たちを生かします。それが本来、神様が私たちに望んだ生き方です。自分を犠牲にして他人を生かし、愛し合う生き方です。イエス様は、身を持って、先頭に立って、その愛を私たちに教えてくださいました。十字架の上で、罪の中にある私たちを赦し、愛してくださいました。自分を犠牲にして私たちを愛することが、イエス様の生まれてきた目的であり、死なれた目的でした。イエス様の生き方と死に方の全てが、愛に基づいていました。
 イエス様は、私たちに同じように生きるように求めています。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
自分の利益を求めずに他人に仕える生き方と言うと、とても立派な感じがします。でも、全ての人の僕になるということは、実際はイエス様と同じように、人に利用されて傷つくこともあります。人に理解されず、仲間に裏切られたと感じることもあります。それで自分が辛いのなら、それをする必要はありません。なぜなら、イエス様が求める私たちの犠牲というのは、私たちが喜んでできるもののはずだからです。私たちは、イエス様に赦されて愛されていることを喜んでいるので、自分も他の人を赦し愛することができます。それは、私たちの力ではなく、私たちのうちに働いてくださっているイエス様の力によります。私たちはイエス様の力によって、義務感からではなく、喜んで自分を犠牲にして他人に仕えることができるようになります。十字架への道を先頭を立って進むイエス様の後ろ姿を見ているなら、私たちにはそれができるはずです。

 


C. この世界のやり方ではなく、イエス様のやり方で生きる 

 最後に、先週のメッセージともつながることをお話しして終わりにします。42節の前半ですが、イエス様は十二人の弟子たちを呼び寄せて教えたとあります。この呼び寄せるという言葉は、呼び集めると同じ「呼ぶ」という動詞から成っています。先週、教会は呼び集められた者の集まりという意味だと聞きました。イエス様がここで弟子たちを呼び寄せたのは、どんなに未熟で間違いの多い弟子たちでも、イエス様が選んだ者たちだからです。イエス様は、彼らを自分の体、自分の教会として選びました。彼らを通して、この世界にイエス様のことが伝えられ、イエス様の愛がこの世界で実現するためです。
 43節ではイエス様は、この世界では偉い人が権力をふるっているが、「しかし、あなたがたの間では、そうではない」と言われています。イエス様に呼び集められた私たちは、この世界のやり方ではなく、イエス様のやり方に従っています。この世界の常識ではなく、イエス様によって教えられた新しい価値観によって生きています。イエス様は、私たちがそれを私たちの間から始めることを望んでいます。互いに愛し合う生き方を、私たちの間から始め、世界に伝えていきましょう。その歩みの先頭に立って進むイエス様の後ろ姿を見ながら、進みましょう。

 


メッセージのポイント

私たちは、イエス様に従うことで何か見返りをもらえると勘違いしていることがあります。そうすると、イエス様を信じる仲間すら、競争相手になってしまいます。イエス様が先導する道は、自分を犠牲にする苦しみを伴う道です。でも、その道だけが本当の愛に通じる道であり、私たちが互いに争うのをやめて、この世界に神様の国をもたらす方法です。

話し合いのために
  1. あなたはなぜイエス様に従っていますか?
  2. あなたにとって自分を犠牲にして生きるとは、具体的にどういうことですか?
子供たちのために

みんなは誰かと仲良くなる時に、その子が何かをくれるから好きになるのではないと思います。(もしそうだとしたら、それは本当に仲が良いわけではありません。)その子がその子だから一緒にいたいと思うのであり、それを言葉にするのは難しいかもしれません。イエス様と私たちの関係も同じです。もし私たちが、イエス様が何かをくれることを期待しているなら、それは本当にイエス様を好きでいるのとは違います。イエス様の方では、私たちが何か素晴らしいことをできるからではなく、私たちをこのままで愛しているので、ご自分の命を私たちのために捧げてくださいました。そんなイエス様に私たちはどうやって応えるでしょうか?