私たちの献げる礼拝の核心

 

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私たちの献げる礼拝の核心

(マルコ12:28-30, ローマ12:1, ルカ10:38-42, 詩編42:2, 4-5, 2サムエル6:14-16)  

永原アンディ

 カヴェナントを更新する時期なので、前回は教会とは何かというお話をしました。それは、3つのカヴェナントでいえば2番目の「互いに愛し合う」にあたる事柄でした。今日は、礼拝とは何かということをお話しします。礼拝は1番目の「神様を愛する」ということの核心といえる事柄です。普段の日曜日のお話は3番目の「世界を・人々をどう愛するか?」という内容が多いのです。しかし、礼拝について共通の理解を持つ事は、世界や教会について以上に大切な事なのでしっかりと心に留めていただきたいのです。いつも礼拝が生活の中心とお話しするのですが、その礼拝の中心・核心について考えてみましょう。

 

A. ワーシップとは何か?

 

1. 私たちの生活の核心 (マルコ12:28-30)

彼らの議論を聞いていた律法学者の一人が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ、私たちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マルコによる福音書12:28-30) 

 「礼拝とは何か」ではなく、「ワーシップとは何か」としたのは、教会という言葉が誤解されているように、礼拝という言葉も誤解されているからです。それは、日曜日に教会という建物に行って行う儀式だという誤解です。確かにそのことも礼拝の一部ではあります。しかし、礼拝とはもっと深く、広く、豊かな事柄です。まだ英語の「ワーシップ」の方がその広さを実感できます。「ワーシップ」と訳された言葉の元々の意味は 身を屈める、敬意と誉れを捧げる、敬う、向きなおってくちづけする、ひざまずいて崇める、といったもっと多様な意味を持つ言葉なのです。

 読んだテキストは、イエスが申命記6:5を引用して、人間にとって一番大切なことを教えられた部分です。 「自分の全てを注ぎ出して、神である主を愛しなさい」ということです。私たちはイエスを神・主と告白したものですから、それはイエスを愛するということです。でもイエスを愛するって、実際どうしたらいいのでしょうか?愛とは、あらゆる犠牲を“喜んで”払い、その人の必要を満たそうとすることです。 イエスは、「あなたの十字架を負って私に従いなさい」と私たちに犠牲を求めますが、その根拠は、ご自身の十字架の犠牲です。イエスは嫌々、強制されて十字架にかけられたのではありません。避けることもできたのに“喜んで”犠牲となられたのです。 愛の犠牲が喜びなのは、その相手が大好きだからです。イエスは、あなたのことを命を差し出しても惜しくないほど好きなのです。あなたはイエスが好きですか?それはイエスと一緒にいたい、声を聞きたい、自分の思いを伝えたいという思いと、それに基づく行動がその答えです。それこそがワーシップです。それがイエス以外の何かに向かえば、浮気であり不倫であり、聖書的な言い方をすれば偶像礼拝となってしまいます。 イエスが大好きなら、生活の中で一番大切な事は「イエスとのデート」以外ではないはずです。

 

2. イエス様についていくと決める 

こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。 (ローマの信徒への手紙12:1) 

 ここに書かれている事は、衝撃的な事です。「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい」。それが礼拝の核心だというのです。 時々冗談で、チャペルの中心に燔祭の台を置くのはどうでしょうと提案するのですが、そこに載せられるのは羊ではなく、私たちであるべきだとパウロはいうのです。でも安心してください。神様の求めるいけにえは、私たちの肉ではなく、打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心(詩 51:19)です。つまり、イエスの答えのように、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして礼拝する事なのです。

 礼拝の核心は、言葉や音楽によって「自分が恵まれる」ことではなく、自分自身を主の前にいけにえとして献げることです。 多くのクリスチャンは、メッセージ、説教が礼拝の中心と考えています。しかし私たちはそう考えません。主に向かって歌う事はメッセージの前後の添え物ではなく礼拝の核心だと考えているのです。

 メッセージは受け取るもので、歌うことは献げるものだという考え方もありますが、メッセージも、歌うことも、双方向のコミュニケーションです。メッセージの場合は、ここで受け取り生活の中で活かすことで献げ物となります。ワーシップは神聖な気持ちになれるカラオケではありません。歌うのは、自分が気持ち良くなるためでも、人に聞かせるためでもありません。主に向かっての愛の告白であり、助けを求める叫びであり、主をほめたたえることです。 そして、もちろん一方通行のものではありません。 主は、真剣な呼びかけに答えてくださいます。 心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして歌うだけではなく、主からの応答を、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして聞こうとする時としてほしいのです。

 


B. ワーシップをもっと実り豊かなものとするために 

 

1. 自分の生活の中で最優先とする(ルカ10:38-42, 詩編42:2)

さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話に聞いていた。 マルタは、いろいろのもてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。 しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカによる福音書10:38-42)

 ユアチャーチ以外の教会のメンバーだった経験のある方は、その時には当たり前だった教会用語をここではほとんど聞かないことに気がついていると思います。ユアチャーチ が初めての教会だった人は、他の教会に行くと知らない言葉が沢山あってびっくりします。 教会用語をできるだけ避ける理由の一つは、教会用語は教会の内と外を隔てる壁となりやすいからです。 

 またそのまま使うと内容を誤解することになるので使わない言葉もあります。 「賛美する」という言葉がその一つですが、その理由は 2 の部分で触れたいと思います。ここではもう一つ、ユアチャーチ では聞かない教会用語「奉仕」についてお話ししたいと思います。私が信仰を持った時の教会は、たくさんの「奉仕」があって、その奉仕を多く担っている人が熱心なメンバーという雰囲気がありました。当時の多くの教会がそうであったと思います。土曜日には印刷物を作る奉仕、お掃除など翌日の礼拝に備えての準備、日曜の朝には、教会学校の先生、色々な奉仕が終わってほっとして、メッセージが子守唄になってしまったこともありましたが、そのあと、復活して午後もたくさん奉仕して、結局日曜日は週で一番疲れる日だったのです。そしてメンバーなのにあまり「奉仕」しない人を心の中で非難していました。私は、今読んだ箇所のマルタのような者だったということです。マルタは初めは喜んでイエスをもてなそうと「奉仕」していたのです。しかし、妹にキレた時に、それはもう「奉仕」ではなく、しなければならないことに変質してしまっていたのです。「奉仕」とは自発的に喜んで仕えることです。仕えるとは、一般的には誰かのために仕事をすることですが、本当に主人がしてほしいことをするためには、いつも主人のそばにいて、その思いを聞かなければなりません。そうでなければ自己満足で勝手なことをして、マルタのように人を非難し、主の願いを無視することになってしまうのです。つまりこの例えは「奉仕」することより「礼拝」することが大切だと言っているのではなく、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして礼拝することこそ第一の「奉仕」だと言っているのです。私たちは教会に必要な働きを「奉仕」とは言いません。それが礼拝を第一とすることを忘れさせるからです。みんなが色々な役割を担っているから、私もしなければと思う必要はありません。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして歌ってください。その中で、主がしてくださること、聞かせてくださることを経験していくうちに、何のプレッシャーもなく喜んですることができることが主に与えられます。

詩編42篇の詩人はこう言っています。

鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように 神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。 (詩編42:2)

 危険なのは、私たちがこの渇きに気付かないことです。私の母が先週体調を崩したのですが、かかりつけの医師によると水分の不足が原因の一つとして考えられるとのことでした。母はあまり水を飲まない人で、体が必要としていることを見逃していたのです。あなたは自分の魂の渇きに気付いているでしょうか?残念ながら多くの人がこの渇きに気付いていません。だから、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして歌う必要を感じていません。それは魂の健康を損なうものです。どうぞ本気でワーシップしてください。

 

2. ありのままで主の前に立つ(詩編42:4-5, 2サムエル6:14-16) 

昼も夜も、わたしは涙を食物とする。人は日夜私に言う「あなたの神はどこにいるのか」と。私は祭りに集う人の群れと共に進み 喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。 それらを思い起こして、私の魂を注ぎ出す。(詩編42:4,5)

 それでは、「賛美」と言う言葉の問題を考えてみましょう。もともとは「ほめたたえる」と言う意味の言葉です。でも今の日本ではキリスト教的な歌を「歌う」ことが「賛美」と理解されています。しかし本来の賛美はワーシップの中の一つの要素にすぎません。いつもいつも「ほめたたえる」ことには無理があります。この詩人のように、とてもそんな気持ちにはなれないことがあるのです。しかしワーシップは、最初の部分でお話ししたように、ほめたたえるだけのことではないのです。 悲しいです、寂しいです、もうダメですとワーシップできるのです。あなたが大好きですと自分の気持ちを伝えることもできます。私たちが「賛美しましょう」とは言わずに「ワーシップしましょう」と言うのはユアチャーチが英語も使う教会だからではありません。「賛美」では意味が狭くなり、礼拝の豊かさを損なってしまうからです。一言付け加えますが、長年の癖で「賛美しましょう」と言ってしまっても気にしないでください。イエローカードは出ません。ただ、なぜユアチャーチがそう言わないかを理解してくださればいいのです。

 それでは今日、最後に紹介したいテキストを読みます。

主の前でダビデは力の限り踊った。彼は亜麻布のエフォドを身に着けていた。 ダビデとイスラエルの家は皆、喜びの声を上げ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。 だが、主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろし、ダビデ王が主の前に跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の内で蔑んだ。 (サムエル記下 6:14-16)

 ダビデは失敗の多い人でしたが、その最大の長所は、神様の前に素直であったことです。奥さんには馬鹿にされましたが、礼拝は力の限りにするものでもあることを、このテキストは教えてくれます。「思いを尽くして」とはその時の感情を包み隠さず主の前に差し出すと言うことです。 ワーシップと訳された原意にある様々な表現が表れていいのです。ただしそれは、それぞれの自然な感情の現れであるべきです。 興奮状態を人工的に作り出す事は、歌をリードする人にとっては難しいことではありません。 「立ち上がりましょう!手を叩きましょう!手をあげましょう!もっと強く、もっと激しく!」 これはコントロールであってワーシップリードとは言いません。 奉仕はあくまで自発的なものです。奉仕の核心であるワーシップでもそうでなければなりません。手をあげようと、手を打とうと、ひざまずこうと、踊ろうと思いのままに、 心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてワーシップしましょう!

 


メッセージのポイント

教会とは建物ではなく人間の集まりです。それでも、この場所を持つのは「礼拝する」という私たちにとって最も大切なことを共に行うためです。礼拝とは主の前に進み出て、自分の思いを伝え、主の思いを聞くことです。だから私たちは、人に向かって主について歌うのではなく、主に向かって心の思いを歌うのです。

話し合いのために
  1. ワーシップとは何ですか?
  2. なぜ私たちは日曜の朝に集まって礼拝するのですか?
子供たちのために

マリアとマルタの話をしてあげてください。そして、彼らの両親が日曜日の朝ここに来て、他の人たちと共に歌ったり、話を聞いたりすることがマリアの態度が同じものであることを伝え、子供でも同じように主に向かって歌うこと、自分の思いを伝え、主の想いを聞くことができると教えてください。