イエス様を本気で愛する

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イエス様を本気で愛する

 マルコ 14:1-11

池田真理

 

 私たちは本気でイエス様を愛しているでしょうか?今日の箇所は、そのことを私たちに問いかけていると思います。順番が前後しますが、最初に14:3-9を読みます。

A. 神様はこの世界に満足していない

 

3 イエスがベタニアで、規定の病を患っているシモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、その壺を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4 すると、ある人々が憤慨して互いに言った。「何のためにこんなに香油を無駄にするのか。5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。9 よく言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 

 本題に入る前に、3節で日本語で「規定の病」と訳されている言葉ですが、これは原語では「らい病」という言葉が使われ、英語ではそのまま「らい病人」、新共同訳では「重い皮膚病」と訳されていました。古代のユダヤ教では、皮膚病の症状がある人は隔離されるルールになっていて、治ったとしても社会生活を取り戻すためには様々な決まり事がありました。おそらく、そのために今回の新しい日本語訳では「規定の病」と訳したのだと思いますが、詳しい経緯は分かりません。(でも「重い皮膚病」の方がずっと分かりやすいと思います。)

 それでは本題に入っていきたいと思います。このお話のポイントは、誰もが非常識だと思うこの女性の行動を、イエス様は否定することなく喜んで受け入れたというところです。それは、他の人にはわからなくても、イエス様にはこの女性のイエス様に対する深い愛が伝わっていたからです。

 

1) 自分の宝物をイエス様に献げる

 この女性が持ってきたナルドの香油はとても高価なものでした。日本語では三百デナリオン、英語ではその意訳で、労働者の賃金の一年分に相当すると言われています。それがある程度誇張だったとしても、現代の感覚でも百万円くらいの価値があったのかもしれません。当時の社会で女性の地位は低く、一人の女性が持つことのできた財産は限られていたはずです。おそらくこの香油は、この女性が持っていた財産の中で一番価値のあるものだったのだと思います。
 また、この女性は、石膏の壺を壊して、中身の香油をイエス様に注ぎかけたとあります。壺を壊したのは、それしか中身を出す方法がないような作りだったからとも言われますが、壺を壊してしまったら、もう元に戻すことはできません。この女性は、最初から香油を全部残すことなくイエス様に使ってしまうつもりでした。
 少し前に読んだ、神殿の賽銭箱に2枚の銅貨を入れた貧しいやもめの話を覚えていらっしゃるでしょうか?あの2枚の銅貨と、このナルドの香油は、イエス様にとっては同じ価値がありました。額の大きさは関係ありません。あのやもめも、この女性も、その時自分にできる最大限のことを、神様のために、またイエス様のためにしました。それが、イエス様が最も喜ばれることだったのです。

 

2) 時には社会の常識を破る勇気を持つ

 この女性が教えてくれることは他にもあります。この女性は、自分の宝物をイエス様に献げるために、常識を破りました。
 まず、当時のユダヤ人の社会において、男性が集まる会食の場では女性は給仕をするだけで、一緒に食事や会話に加わることは普通はありませんでした。招待客のために香油を注ぐという行為自体は珍しくなかったようですが、食事を運んでいるわけでもない女性がこの場に突然現れるということが非常識でした。この女性は、イエス様に香油を注ぐために、常識破りの大胆な行動をしたということです。
 また、これほど高価な香油を一人の人に注ぐということが非常識であることは、彼女自身も分かっていたはずです。常識的に考えて、百万円の香油を一人の人のために一瞬で使い果たしてしまうのは、無駄遣い以外の何ものでもありません。でも、彼女にとってはイエス様はそれほどの価値がある方だったので、批判を恐れませんでした。
 私たちも、イエス様を慕って何かする時に、他の人からは理解されないこともあるかもしれません。効率が悪く、無意味で愚かだと言われるかもしれません。でも、それがイエス様を心から愛しているための行動であれば、批判を恐れる必要はありません。

 

3) 「隣人を愛する」よりも大切

 それでは、ここからはイエス様の言葉をよく読んでいきたいと思います。もう一度6-8節の途中までを読みます。

6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。8 この人はできるかぎりのことをした。 

 百万円あったら、確かに多くの貧しい人のためにいろいろなことができます。それに、イエス様が高価な香油を必要としていたかと言えば、別に必要とはしていなかったでしょう。イエス様は、自分のために高価なものを使うより、貧しい人を助けることを優先したはずです。それでも、イエス様はこの女性の行動を喜ばれました。その理由をこう言われています。「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」
 このイエス様の言葉は、マリアとマルタの姉妹の話に通じると思います。実際、今日の箇所は、ヨハネによる福音書では香油をイエス様に注いだのは妹のマリアとされています。イエス様が共におられるとき、一番大切なことは、姉のマルタのようにイエス様のために食事を準備して忙しく働き回ることではありませんでした。そうではなく、妹のマリアのように、ただイエス様のそばにいてイエス様の言葉に耳を傾けることでした。イエス様が喜ばれるのは、私たちがイエス様のために働くことよりも、イエス様のそばにいることです。貧しい人のために全財産を使うことよりも、全財産をイエス様に献げることなのです。
 これは、神様を愛するということと隣人を愛するということをどういう関係で考えるべきかということでもあります。神様を愛することは隣人を愛することよりも大切なのです。神様を愛していれば隣人を愛さなくていいという意味ではありません。神様を愛することに隣人を愛することは含まれているので、神様を愛しているなら同時に隣人を愛することを意味します。でも、隣人を愛していても自動的に神様を愛していることにはなりません。私たちの周りには、イエス様を信じていなくても、素晴らしい社会的な活動をしていたり、困っている人への愛にあふれた人たちがいます。その人たちのことを、イエス様の方では知っていて、喜ばれているでしょう。でも、イエス様を知っている私たちは、隣人を愛するという行動の中で、自分が最も愛しているのはイエス様であるということを見失ってはいけません。助けを必要としている人たちの助けになれるのは嬉しいことですが、イエス様がそのこと喜ばれているかどうかをいつもイエス様に問いかけるべきです。イエス様のために、また隣人のために働き回ることは、いつの間にか自己満足になることがあります。だから、ただイエス様のそばでイエス様に耳を傾ける時間を作り、イエス様に自分の全てを注ぎ出すことが必要です。それがイエス様を誰よりも何よりも自分よりも愛するということで、イエス様が一番喜ばれることです。

4) イエス様の苦しみを分かち合うこと

8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。9 よく言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。

 この女性が高価な香油をイエス様に注いだ理由が、本当にイエス様の埋葬の準備のためだったのか、本当にそこまでイエス様のことを理解していたのかは分かりません。でも、どちらにしても、彼女の「無駄遣い」は、ここでイエス様が言われた通り、二千年に渡って語り継がれることになりました。それは、彼女のしたことが、イエス様の十字架の苦しみを、先取りして分かち合うものだったからでもあると思います。

 自分の宝物を、他の人から見たら無駄遣いと思われる非常識なやり方で使い果たしてしまうこと。それは、イエス様が私たちのために十字架でなさったことです。神様ご自身が、ご自分の命を人間のために差し出されました。自分の意志で神様を拒んで悲しませる私たちを、神様が命をかけて救わなければいけない理由は、人間の常識で考えれば、ありません。イエス様の十字架は、神様の非常識な決断であり、神様の命の大いなる無駄遣いとも言えます。非効率的で愚かな、大きな犠牲を伴うやり方です。でも、それが神様の愛のあり方であり、私たちへの愛です。神様は、私たちが同じようにして愛することを実践するように、この世界に私たちを置かれています。

 それではここで話は急に変わって、前後の箇所を読んでいきたいと思います。1節に戻ります。

 


B. イエス様を殺そうとした人たち

 

1) 聖書の専門家たち (1-2)

1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、どのようにイエスをだまして捕え、殺そうかと謀っていた。2 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民衆が騒ぎ出すといけない」と話していた。

 イエス様を殺そうとしていたのは、祭司長たちや律法学者たち、つまり聖書の専門家たちでした。彼らがイエス様を殺したいと思うほど憎んだ理由は、イエス様が彼らは間違っていると言ったからです。彼らは自分たちこそが聖書を正しく理解し、神様の意志を正しく人々に教えていると自負していました。だから、イエス様がどんなに正しいことを教えようと、彼らには届きませんでした。
 私たちも、イエス様を信じていても、自分は常に間違いやすい存在であることを忘れてはいけません。イエス様は常に正しい方ですが、私たちはいつもイエス様のことを正しく理解できるわけではありません。聖書は神様の言葉ですが、それを書いたのも読むのも限界のある人間です。そのことを忘れると、私たちは祭司長たちや律法学者たちと同じように、神様の側に立っているつもりで、実は神様を殺そうとしていることになります。

 それでは後ろの10-11節に飛びます。

 

2) イエス様の弟子の一人 (10-11)

10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかと狙っていた。

 キリスト教が始まって以来、このユダという人についてはたくさんの議論がされてきました。イエス様はユダの裏切りを予測できなかったのか。最初から裏切る役割をユダに与えていたのだとしたら、ユダはイエス様に利用されたということなのか。私は両方とも違うと思います。イエス様を裏切るということで言えば、ユダだけでなく、結局他の十一人もみんなイエス様を見捨てて逃げたので同じです。また、イエス様は最初から十字架で死なれるために生まれてこられたのであり、ユダが何をしてもしなくても、実は関係ありませんでした。イエス様は、ユダも含め弟子たち全員の弱さを知りながら、彼らを信頼し、期待して弟子にされたのだと思います。
 でも、そのイエス様が選んだ十二人のうちの一人が、イエス様を殺そうとしました。それは動かせない事実です。イエス様に選ばれ、呼ばれ、共に旅をしてきても、それがイエス様を愛し続けられる理由にはならないのです。聖書を読んでいても、教会に通い続けていても、イエス様を愛していることにはなりません。むしろ、いつの間にか、ユダのように、イエス様を殺すことに加担しているかもしれません。


C. イエス様を殺そうとした人たち

 最後に、今日の箇所全体を通してマルコが伝えたかったことを振り返っておきたいと思います。お気づきの通り、この箇所は真ん中の3-9節とその前後の箇所で内容が全く異なります。これは、本来は一つだった祭司長と律法学者とユダのやりとりの間に、マルコが意図的に、香油を注ぐ女性の話を挟み込んだからだと言われています。マルコには、そんな不自然な編集を通して、読者に伝えたいことがありました。それは、イエス様を本気で愛する人というのは、最もそうとは予想できない人たちの中から出てくるのだということです。神様のことをよく知っているはずの宗教指導者たちも、イエス様のそばにいたはずのユダも、イエス様のことを理解せず、殺そうとしました。彼らとは正反対に、会食の席に突如現れた、招かれていない一人の女性が、イエス様のことを本気で愛し、そのことを勇気を持って行動で示しました。彼女の非常識な行動の中に、本当にイエス様を愛するとはどういうことかを知るヒントがたくさんありました。マルコは、そのことを私たちに語りかけています。

(お祈り) 神様、どうぞ今あなたの霊で私たちの心の中を照らしてください。私たちの心の中には、必要のないものがたくさんあると思います。プライドや怒りから自由にしてください。恐れや不安を取り除いてください。悲しみを癒してください。あなたの十字架の愛を信頼して、あなたの声をよく聞くことができるようにしてください。私たちに新しい力を与えて、あなたを愛して強く生きることができるようにしてください。私たちに、たくさんの愛する大切な人たちを与えてくださっていることをありがとうございます。その一人一人を誠実に愛することができるように、支え合うことができるように、そのために何ができるのか、一つ一つ教えてください。

 


メッセージのポイント

イエス様を愛することはイエス様のために働くことよりも大切です。それは、自分にとっての宝物でもイエス様のためになら失くしてもいいと思える心であり、そのことを他人に批判されようと、社会の常識から外れていようと、実行する勇気を伴う行動です。この世界の何よりも、誰よりも、自分自身よりも、イエス様を大切にすることが、イエス様を本気で愛することです。それはイエス様ご自身が私たちを愛して命を献げてくださった愛がそういう愛だからです。そのようにイエス様と愛し合う関係を持つ上で、聖書の知識や信仰者としての経験などは関係ありません。

 

話し合いのために
  1. イエス様は、貧しい人たちよりも自分の方が大切だと言われているのでしょうか?
  2. 私たちはどうしたらこの女性のようになれますか?

 

子供たちのために

この女性にとって、ナルドの香油は自分が持っているものの中で一番大切な宝物だったかもしれません。子供たちにとっての一番の宝物は何でしょうか?それを、この女性のように、全部イエス様にあげてしまう(イエス様のために使ってしまう)ことはできるでしょうか?もしかしたら、イエス様はそんなものは必要としていないと思うかもしれないし、周りの人たちも、イエス様にあげなくても、もっといい使い方があると言うかもしれません。でも、イエス様を大好きでいるということは、自分の大切なものでもイエス様が喜んでくださるならあげてしまおうと思えることです。みんなが心からイエス様を好きで、イエス様のためにしたいと思うことなら、周りの人が何と言おうと、イエス様が拒絶することは決してなく、喜んで受け取ってくださいます。