幸い

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幸い

詩編 84, マタイによる福音書 5:3-11, 13:14-16

永原アンディ

 あなたは自分が「幸い」であると思いますか?今日の詩編は「幸い」の本質を教えてくれます。マタイによる福音書から、イエスの言葉も確認しながら考えてゆきましょう。

A. 神様といる幸い (1-5, マタイ5:3-8)

指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子たちの詩。賛歌。万軍の主よ あなたの住まいはなんと麗しいことでしょう。私の魂は主の庭に思い焦がれ、絶え入りそうです。 生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。あなたの祭壇の傍らに小鳥さえも住みかを見つけ つばめも巣をかけて、雛を育てています。 万軍の主、わが王、わが神よ。幸いな者、あなたの家に住む人は。 彼らは絶えずあなたを賛美します。〔セラ

 当時の民にとって、神様の家とは神殿と考えるのが自然です。しかし神殿は何度も破壊されたり、イエスによって批判されるような存在でもありました。詩人にとって神様の家とは何だったのでしょうか?神殿なら、鳥の巣があることは許されないでしょう。また、人はそこに住むことはできません。詩人は、無意識のうちにでしょうが、イエスの教えた、神様との和解から始まる永遠の関係を指し示しています。誰と一緒にいるのか?それは誰にとっても大問題です。誰かと一緒にいたいという思いは自然ですが、そこには究極的な幸いはありません。人は全て、自分と同様に弱く、欠けのある存在だからです。欠けのある人間同士が依存しあって悲惨なことが起こることを私たちは知っています。しかし欠けのある人間同士の関係の中でも、幸せでいられる道がたった一つだけあるのです。 神様と一緒にいることです。 「幸い」はその土台の上にのみ成り立つものです。

イエスは、このことを私たちの心のありようとして次のように表現されました。 マタイ5章、ルカ6章に記されている「幸い」についての教えの前半です。

「心の貧しい人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである その人たちは慰められる。 へりくだった人々は、幸いである その人たちは地を受け継ぐ。  義に飢え渇く人々は、幸いである その人たちは満たされる。  憐れみ深い人々は、幸いである その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである その人たちは神を見る。

 神様と共にいるとは、そう感じているという以上のことです。神の国の完成と現実の間で、正義を求め、苦しむ者、悲しむ者、小さな者に寄り添うことであることがわかります。


B. 神様と歩む幸い (6-10, マタイ5:9-11)

幸いな者、あなたを力とし 心の中に大路を敷く人は。嘆きの谷を通る者たちはそこを泉に変えます。 秋の雨がそこをまた祝福で覆います。彼らは力から力へと進み シオンで神にまみえるのです。万軍の神、主よ、私の祈りを聞いてください。 ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ神よ、私たちの盾を見てください。 あなたの油注がれた者の顔に目を向けてください。

 神様と共にいる人の幸いは、その人の人生の歩みにも反映されます。神様と共にいる人は、困難な状況の中でも力を得、迷うことなく進んでいける確かな道を心に持っているからです。今の状況も”祝福”に変わります。

 イスラエルでは、小麦の種を秋に播き、春に収穫します。秋の雨は初めの雨と呼ばれ、種まき前の土地を柔らかくする雨、そして春の雨はのちの雨と呼ばれ、収穫前の穀物に水分と養分をもたらす雨なのです。 この世界的な危機の中で、神様と共に歩むことができることは幸いなだけでなく、人々に幸いをもたらすことができる、泉のような存在となれるのです。 イエスはこう言われます。「幸い」についての教えの後半です。

平和を造る人々は、幸いである その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害された人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである。 私のために、人々があなた方を罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。

 幸いは、心の状態にとどまらず、その心を持ってどう生きるかということでもあるのです。イエスと共にいるとは、イエスと共に生きる、歩むことです。それは平和を実現する者として歩むということを意味しますが、たやすい道ではありません。イエスのように迫害され、罵られ、悪口を浴びせられることでもあります。しかしそこに「幸い」があるのです。 みなさんはそれでもイエスと共に歩むことを望まれますか?それでは互いに支え合いながら、幸いな道を神様と共に歩んでゆきましょう。


C. 神様を信頼する幸い (11-13, マタイ13:14-16)

あなたの庭で過ごす一日は 私の選んだ千日にもまさる。 神の家の門口に立つことは 悪の天幕に住うにもまさる。神である主は太陽、盾。 主は恵みと栄光を与え 全き道を歩む者に 良いものを惜しむことはありません。万軍の主よ。 幸いな者、あなたに信頼する人は。

 たとえ困難の中であっても、 主イエスと共に歩むことは幸いです。 しかし目に見える現実は、強風で船が沈みそうになった時の弟子たちのように、イエスが共におられても私たちの心を恐怖で満たしてしまいます。 私たちは、困難な世界との関係を絶って、神様の家に逃げこむことを求められているのではありません。神様の家の角口に立つことです。別の角度から言えば、この世界のどこに立っていようと、神様の家は、私たちの背後にあるのです。神様の家は、嵐の中で今にも沈んでしまいそうに見えて、イエスが一緒に乗っているので何の心配もいらない船のようなものです。 多くの乗船者はイエスが見えていません。だから、見えている皆さんは貴重な存在なのです。 イエスご自身が、マタイの13章でこう言っています。

こうしてイザヤの告げた預言が彼の上に実現するのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して認めない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じている。目で見ず、耳で聞かず 心で悟らず、立ち帰って 私に癒されることのないためである。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。

 神様に選ばれているとはこういうことです。何か実利的な特権を与えられていることではありません。 「イエスは私と共にいてくださる」と確信を与えられていることです。 まだそのような気持ちになれない人がいるなら、このお話をイエスからの招待と考えてください。この招待を受け入れて、イエスを信頼し、いつも近くにいて、イエスと共に歩む幸いな人となってください。
 
 今日、最初にした質問をもう一度しましょう。あなたは自分が「幸い」であると思いますか?いや「辛い」と思っている人もいるでしょう。漢字は面白いですね。幸と辛いはとてもよく似ています。どうしたら辛い人は、幸いな人になれるでしょうか?簡単です!辛の上に十字架を乗せるのです。イエスを主、神として認めるということです。主イエスを信じ、イエスと共に生きる皆さんは、幸いな者であり、幸を届ける者です。

(祈り) 神様、いつもあなたがいてくださることを、あなたと人生を歩んでいけることを感謝します。私たちの主であるあなたがいてくださるので、私たちは目の前に見える物事に一喜一憂せずに、一歩一歩、歩み続けることができます。どうか、今の世界の中で、あなたの愛を担う者として、あなたによく聞き、なすべきことを行うことができるように、私たちに力と知恵を与えてください。あなたを信頼して歩ませてください。ここにいる一人一人を、あなたがしようとしていることに用いてください。イエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

“幸い” は、偶然やってくるものでも、自分の努力でつかみ取るものでもないことが、この詩によってわかります。 この“幸い”は、自分で捨てようとしない限り、取り去られるものでもありません。神様と共にいること、神様と共に歩むこと、神様に信頼をおくこと。幸せはそこに約束されています。

話し合いのために

1. あなたは自分が幸せたと思いますか? それはなぜですか?

2. 神様の家に住むとはどういうことでしょう?

子供たちのために

神様と共にいる、歩む、信頼する、という抽象的な表現ですが、それってどういうことなのかをぜひ話し合ってみてください。 福音書でのイエスと弟子たちのエピソードや行動から考えてみるのも良いかもしれません。 そして『私たちはイエスと共のある家族だから、こんな時でも大丈夫!」と、子供たちを励ましてください。