イエス様が建てた神殿


Gerard van Honthorst / Public domain

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イエス様が建てた神殿

マルコ 14:53-65 

池田真理

 マルコによる福音書も終盤に入っています。前回少し予告しましたが、今日はイエス様を殺す計画の首謀者たちが登場します。彼らは私たちの罪の根本そのものを表しています。それに対して、今日の箇所のイエス様は、私たちの信仰の原点を教えてくださっています。 私たちはなぜ神様が必要で、神様はどういう方だったでしょうか。私たちの原点を思い出したいと思います。前半と後半に分けて読んでいきます。まず53-59節です。

A. 自分を神にして、本当の神様を否定する私たち(53-59)

53 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。54 ペトロは、遠くからイエスの後に付いて、大祭司の中庭まで入り、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。55 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。56 イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。57 ついに、数人の者が立ち上がって、イエスに対する偽証をして言った。58 「この男が、『私は人の手で造ったこの神殿を壊し、三日のうちに、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、私たちは聞きました。」59 しかし、この場合も、彼らの証言は一致しなかった。と。

 イエス様を捕らえた宗教指導者たちは、直ちに裁判を始めました。でも、この裁判は最初から公正な裁判ではなく、イエス様を有罪にし、死刑にするための裁判でした。そのやり方は非常に強引で、当時のユダヤ教の掟に照らしても違法なやり方でした。例えば、この裁判は夜中に行われていますが、掟は日中に行うことを定めています。死刑判決の可能性がある裁判については、二日間に分けて二回審議を行うことが定められていましたが、その掟もここでは無視されています。何よりも、55節が決定的です。彼らはイエス様にとって不利な証言を探していたのです。イエス様を死刑にできれば、理由は何でもよかったということです。
 彼らは、なぜここまで頑なにイエス様を拒み、強引に排除したかったのでしょうか?その理由は、私たちがイエス様を拒み、時に忘れ、神様を悲しませる理由と同じです。それは、自分が自分の神様でいたいという欲望を、彼らも私たちも持っているからです。自分中心に生きたいという欲望です。何でも自分の思い通りにいくことを望み、正しいことよりも自分に都合のいいことを求めます。そして、自分とは異なる意見や価値観を持つ人たちを理解しようとせずに、排除しようとします。自分の思いが全てで、何が正しいのか、何が神様の目によしとされるのか、真剣に考えません。自分は神様の側にいて、神様は自分のことを喜んでくださるとさえ勘違いしていることもあります。これが、私たち全てが持っている根本的な罪です。
 皆さんがこのお話を今聞いているのも、私がこのお話をしているのも、私たちはみんな、どこかで自分が自分の神様でいる生き方に限界を感じたからです。人間が人間を互いに支配し合う関係に限界を感じたこともあると思います。人間は誰も、本当の神様の代わりにはなれません。私たちはみんな、変わりやすく、いいかげんで、頼りになりません。自分自身も含め、とても、自分の一生を預けられるような確固たるものを持っている人は誰もいません。だから、私たちは人間を超えた存在を求めます。本当の神様はいるのか。いるなら、どんな存在なのか。その答えを求めて、ここにいます。自分の限界も、人間の限界も感じたことがない人には、このお話は何の関係もないと思われると思いますが、イエス様はそんなあなたにも語りかけています。また、イエス様と出会ったはずなのに、神様がどこにいるのか分からなくなっている私たちにも、イエス様は呼びかけています。次の60-65節を読んでいきましょう。


B. 本当の神様は私たちのために苦しまれた (60-65)

60 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この者たちが不利な証言をしているが、どうなのか。」61 しかし、イエスは黙り続け、何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。62 イエスは言われた。「私がそれである。あなたがたは、人の子が力ある方の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」63 大祭司は、衣を引き裂いて言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。64 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」一同は、イエスは死刑にすべきだと決議した。65 そして、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちもイエスを平手で打った。

 「私がそれである」とイエス様は言われました。私は今回この箇所を準備するまで気付かなかったのですが、イエス様が自ら自分は神の子であると宣言されたのは、マルコによる福音書ではここが初めてです。マルコのナレーションとしては何度も言われてきましたし、悪霊はイエス様のことを神の子として知っていました。イエス様が間接的に言われたこともありましたが、はっきり語られるのはここが初めてなのです。なぜイエス様は、ここに至るまで、はっきり言わなかったのでしょうか?このことは、神様がどういう方なのか、私たちはどこに神様を探せば会えるのかという問いに深く関わっています。
 イエス様がここまでご自分が神の子であることをはっきり言わなかったのは、ご自分が苦しまれる時にならなければ、本当の意味が伝わらないからです。イエス様は、自分を苦しめる者を前にして、初めてはっきり「私が神である」と言われました。あなたたちが憎み、捕らえて殺そうとしている私こそが神であると言われたのです。神様は、私たちのために苦しまれる方なのです。力にあふれ、不思議なわざと奇跡で私たちを助け、導くだけの方ではありません。神様は、私たちのために捕らえられ、侮辱され、罪びととされた方です。私たちのために苦しまれ、殺された、ひとりの人であった方です。神様は、抽象的な概念ではなく、天高く手の届かない場所に君臨している遠い存在でもありません。先が見えない辛い状況にある時、私たちは一気に全てを変えることができる神様の力を求めがちで、それが得られないと、神様は自分に無関心であるかのように錯覚してしまいます。でも、イエス様が教えてくださった神様は、今ここで、苦しみの中に、悲しみの中で、私たちと共におられる方です。そして、私たちが自分の思いだけに左右されるのではなく、神様の思いを求めて、ただ神様を信頼して歩むことを待っておられます。
 イエス様は、弟子たちと出会った旅の最初の頃、こう言われました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)

自分を信じようとして神様を疑う罪を繰り返す私たちを、イエス様は待っておられます。私たちは、打ち砕かれても、そのままでいることはありません。イエス様と共に立ち上がり、旅を続けるように招かれています。それは、前回お話しした、裸になったら逃げ出すしかない古い自分の上に、新しい住まいを着させてもらうのと同じです。そのことをマルコは、今日の箇所では、イエス様に対する偽証を通して語っています。最後にもう一度58節を読みます。


C. イエス様が建てた新しい神殿で、私たちは神様と出会う(58)

58 「この男が、『私は人の手で造ったこの神殿を壊し、三日のうちに、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、私たちは聞きました。」

 この言葉をイエス様が言ったという直接の記録は、マルコによる福音書にはありません。でも、聖書の他の箇所に記録があるので、実際にイエス様が言われた言葉だと考えられています。ここでイエス様は、建物としての神殿ではなく、死んで三日後によみがえられるご自分の体のことを指して、「別の神殿」と言われています。イエス様が来られる前までは、人と神様が会う場所は神殿という建物でした。でも、イエス様が死から復活された後は、私たちが神様と会う場所はイエス様の体になりました。私たちのために血を流され、苦しんで死なれたイエス様が、神様の私たちに対する愛の証です。そして、死から三日後によみがえられたイエス様のうちに、神様が私たちに約束してくださっている永遠の命の希望があります。イエス様の死と復活を通して、私たちは神様の深い愛と希望を知ることができます。私たちが本当の神様を探し求めるなら、その神様に出会えるのはイエス様の死と復活の出来事にあるのです。

 私たちが自分を神として祭り上げるために建て上げた神殿は、崩されなければいけません。打ち砕かれ、自分の限界を知っている人のうちに、イエス様は新しい神殿を建てられます。人の手にはよらない、私たちの力によるのではない、神様の愛と希望が生きて働く神殿です。その神殿は、何度も私たちのうちで新しく建て直され、強くされ、永遠に崩れることはありません。イエス様の愛は私たちを何度でも立ち上がらせます。

 そして、私たちがそのようにイエス様を信頼して歩む時、私たち自身がイエス様の体の一部です。他の人が私たちを通してイエス様を知り、神様の愛を知ることができるように、用いられます。また、教会はイエス様の体と言われるように、そこで人がイエス様と出会える場所が教会です。出会い直せる場所とも言えます。互いの間にイエス様の神殿を見て、イエス様が生きておられることを見て喜び合えることが、教会に連なる何よりの喜びです。もしユアチャーチに一緒にいながら、その喜びをまだ知らないなら、ぜひ知っていただきたいと願います。それがなければ、私たちは教会として、本当にイエス様の体となり、世界にイエス様のことを伝えることはできません。

 「私がそれである」と言われたイエス様の宣言を、もう一度よく聞きましょう。そして、神様がどんな方であるか、知り直しましょう。十字架の愛の大きさ、深さ、広さは、何度でも私たちを驚かせ、作り替え、強めることができます。 


メッセージのポイント

私たちは、自分中心に生きることの限界に気付いて、あるいは、人間が人間を支配する限界に気付いて、人間を超えた存在を求めます。イエス様は、抽象的な神様ではなく、私たちのために苦しんで死なれた神様を教えてくれました。私たちはイエス様を知り、神様の愛を知りました。自分中心に生きようとしたり、人間に過信してしまったりする間違いを繰り返す私たちですが、何度打ち砕かれても、その度にイエス様は新しく建て直してくださいます。人の手によらない、永遠に崩れることのない神殿は、私たちの内にあります。

話し合いのために

1. 自分を神にしていると気付いた例を教えてください

2. 神様がどこにいるのか分からなくなる時、私たちは神様をどこに探せばいいのでしょうか?

子供たちのために(保護者のために)

「神様ってどんな人?」と聞いたら、子供たちはなんと答えるでしょうか?学校の友達とそんな話をしたとしたら、友達はなんて答えると思うでしょうか?答えはいろいろあっていいのですが、イエス様を知っているみんなに覚えておいてほしいことはこれです。神様は、バカにされて、いじめられて、ひとりぼっちだった人です。何でもできて、不思議な力を持っているのに、あえてその力は使いませんでした。それは、そうしないと私たちと一緒にいられないからでした。神様は、自分が悲しくて辛いことよりも、私たちが悲しい思いや辛い思いをすることの方が嫌だったのです。