家に帰ろう

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家に帰ろう

ルカ15:11-32 (ヘンリ・ナウエン「放蕩息子の帰郷」)

池田真理

 今日は、いつものマルコによる福音書のシリーズをお休みして、イエス様のたとえ話の一つからお話ししたいと思います。ルカによる福音書15章の放蕩息子のたとえ話です。最近、このたとえ話に関する本を読み返して、改めてこの物語を皆さんと共有したいと思いました。読んだことのある方も多いと思いますが、ヘンリ・ナウエンの「放蕩息子の帰郷」という本です。今日は、この本を手がかりにして、お話ししていきたいと思います。聖書を少しずつ読んでいきます。まず11-13節前半までです

1. 弟息子の帰郷

a. 家出する (11-13)

11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12 弟の方が父親に、『お父さん、私に財産の分け前をください』と言った。それで、父親は二人に身代を分けてやった。 13 何日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ち、…

 この弟息子が言ったことは、「お父さんの遺産を相続するのに、お父さんが死ぬまで待てません」ということです。つまり、「お父さんの財産はほしいけれど、お父さんは死んでくれてもいいです、あなたは必要ありません」と言っていることにもなります。そして、彼はもらえるものをもらうと、さっさと家を出ていきました。

 私たちは皆、この弟息子と同じように、神様の家を家出した息子、娘です。私たちは誰も、自分の意志でこの世界に生まれてきたわけではありません。いつかは必ず終わりを迎える、限りある命を与えられているにすぎません。でも、私たちはつい、この命がどこから来たのか、なぜ生まれてきたのか、考えないで生きてしまいます。そして、自分の人生は全て自分のもので、自分の好きなようにしていいと思っています。それは、命の造り主である神様に対して、「私は自分の思うままに生きたいので、あなたは必要ありません、死んでくれていいです」と言うのと同じです。命という財産を分捕って、勝手に出て行くのと同じなのです。

b. どんどん遠くへ離れる (13-16)

13 何日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ち、そこで身を持ち崩して財産を無駄遣いしてしまった。14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15 それで、その地方に住む裕福な人のところへ身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった。

 自分の命は自分のもので、自分の人生は自分が思うがままに生きていいという思い込みは、一見自由で気楽なようですが、実際はそうではありません。自分で自分の命の価値が分からないので、それを人に認めてもわなければ生きていけなくなるからです。そして、自分は生きるに値し、愛されるに値する人間であると、証明しなければいけなくなります。人間の社会は、そう思い込んでいる人がほどんどなので、私たちは互いに価値を認めてもらうのに必死になります。自分を認めてくれる誰かを見つけては、期待し、でも思ったほどの愛は返ってこず、それでもあきらめられずに、また次の人を探します。そうやって、自分を愛してくれる誰かを求めて、自分を消費し続け、さまよい続けます。そして、結局のところ、誰も自分のことを全部分かってくれて、愛してくれる人はいないという事実に直面します。その頃には、深く傷つき、疲れ、孤独で、生きることはむなしいと感じます。それは辛い経験ですが、私たちが道を誤っていることに気が付くためには必要なプロセスです。私たちはこのプロセスを一生の間に何度も繰り返します。それは、何度でも道を引き換えして、家に帰るためのプロセスです。

c. 家に帰ると決心するが… (17-20a)

17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところには、あんなに大勢の雇い人がいて、有り余るほどのパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』20 そこで、彼はそこをたち、父親のもとに行った。

 私たちは、人からの評価を求めることはむなしいこと、自分で自分の人生を正しく導くことはできないことに気が付きます。そして、神様を信じて生きていこうと決心します。それは、人生の大きな方向転換であり、人生の意味を取り戻すための大きな一歩に違いありません。でも、私たちはそれでもまだ、古い呪いから解放されていないことがほとんどです。自分には「息子と呼ばれる資格はない」、つまり、神様に愛される価値はないと、まだ思っています。私たちは、愛されるためには自分で愛される価値を証明しなければいけないという考え方に慣れすぎていて、神様のこともその考え方でとらえてしまいます。だから、その証明ができない自分のことを神様は本当に愛してくれるのか、疑わずにいられません。そして、神様はまるで一人ひとりの成績表をつけていて、その成績に応じた分しか愛してくれないように考えます。何か失敗すれば、自分の成績表に減点がつくのではないかと恐れます。でも、神様は、私たちの想像をはるかに超えて、私たちを愛しておられます。

d.父はただ喜んで迎える (20b-24)

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21 息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。23 それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

 父にとって、息子は最初から息子でした。勝手に家を出て行ったとしても、失敗を重ねて情けない姿で帰ってきたとしても、父の息子に対する愛は何も変わりませんでした。父の愛は、息子が何をしたかしなかったかで決まるものではなく、息子が息子であるというだけで注がれるものだったからです。
 神様は、私たちのことを最初からご自分の子供として造られ、愛しておられます。私たちは自分の意思とは関係なくこの世界に生まれてきましたが、そこには神様の愛の意思が働いていました。どんな人間の親の元に生まれてこようと、神様が愛していない命はありません。どんな家庭に育とうと、誰でも最初から神様の家に属しています。そして、神様の愛は、私が何をしたかしなかったかで増えたり減ったりする愛ではありません。私が私であるというだけで、変わることなく注がれている愛です。神様は、私たちが何も恐れることなく、その愛を頼ることを、今も待っておられます。私たちの姿を遠くに見つけて、駆け寄ってきて、ただ喜んで迎えてくださいます。
 でも、私たちはなかなかこの神様を理解できません。なぜ理解できないのか、たとえ話に登場するもう一人の人物が私たちの思いを代弁してくれています。25-30節に進みます。


2. 兄息子の帰郷

a. 弟を妬み、不公平だと怒る (25-30)

25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りの音が聞こえてきた。26 そこで、僕の一人を呼んで、これは一体何事かと尋ねた。27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

 私たちは、神様に愛されていると知った後も、相変わらず、自分は十分には愛されていないのではないかと不安でいます。相変わらず、神様も人間と同じように、私たちをそれぞれの努力に応じてしか報いてくださらない方だと思っています。だから、自分と他の人を比べて、他の人の状況の方が良いと、不公平だと感じます。神様は自分のことを正当に評価してくださっていない、と不満を抱えます。これは、真面目な人ほど陥ってしまう罠です。兄息子は、真面目な自分よりも遊び人の弟の方が父に喜ばれていると感じました。もし本当にそうだったとしたら、確かにそれは不公平です。でも実際は、父は決して、兄よりも弟のことを喜んだわけではありませんでした。最後の31-32節に進みます。

b. 父はただ一緒に喜んでほしいだけ (31-32)

31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。』」

 父は、「私のものは全部お前のものだ」と兄に言っています。父は、兄のことも最初から何も変わらずに愛していました。父には兄と弟を比べるなんて思いもよらず、それぞれをそれぞれのままで愛していました。兄は怒って家の中に入ろうとしませんでしたが、父は彼にも家に帰ってきてほしいと願いました。もし兄が、自分は父に愛されているという確信を持てたなら、弟の帰りを父と一緒に喜べるはずでした。神様は、私たちが自分と他の人を比べることなく、愛されている確信を持ってほしいと願われています。そして、他の人のことをライバルとして見ることなく、きょうだいとして迎えることを望まれています。


3. イエス様の「家出」

 このたとえ話の中では、父はずっと家にいます。でも、実際のところ、神様はただじっと私たちの帰りを何もせずに待っておられるわけではありません。自ら家を飛び出して、私たちを探しに来られます。自ら人となられて、私たちの間に来られたのです。イエス様は、私たちのために神様の家を家出されたと言えます。そして、家から遠く離れたところで、友人に見捨てられ、人々に侮辱され、全てを失われました。イエス様は孤独の中で絶望されました。「父よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。そして、私たちの代わりに死なれました。それは神様の意思によることでした。私たちは神様にとってご自分の命を捧げるほどに価値があるのだと、神様自らが人間の歴史の中に入ってきて、証明してくださったのです。


4. 私たちも家に帰ろう

 私たちは、自分が家出してきたという自覚があるでしょうか?おそらく、私たちの最も大きな問題は、自分が家出していることに気が付いていないことです。帰るべき家があることを忘れるほどに、家から遠く離れてしまっていることに気がついていないのです。そして、安らぎを求めてさまよい続け、ボロボロになります。もし、今、心に安らぎがないとしたら、それは家を見失っているからです。自分が神様が命をかけるほどに愛してくださっている子どもであるということを忘れているか、まだ疑っているのです。たとえ話の中で、父は息子が帰ってきたことを、「死んでいたのに生き返った」と言いました。私たちが神様の元で心から安らぐための道のりは、少し方向転換をしただけではすみません。それは、死んでいる状態から生き返るプロセスであり、生まれ変わるための長いプロセスです。私たちを探しに来られ、今も待っておられる神様の声をよく聞きましょう。その声はとても穏やかで、耳をすまさないと聞こえません。
 最後にナウエンの言葉を紹介して終わります。

「信仰とは、いつもそこに家があったこと、そして、いつもそこにあるということを、徹底的に信頼することである。」(ヘンリ・ナウエン『放蕩息子の帰郷』p.53)

(お祈り)私たち全ての父である神様、あなたの声を聞かせてください。「あなたは私の愛する子」と呼んでくださる声を聞かせてください。疲れている心を癒してください。私たちは時に恐れと不安でいっぱいになってしまいますが、あなたの愛は少しも変わらずに注がれていることを信じさせてください。人と比べるのではなく、ただあなたを見上げて、あなたと共に歩ませてください。そして、あなたの愛は限りなく、全ての人に注がれていることを、この世界で伝えていく者として私たちを用いてください。私たちをいつも待っておられる神様、私たちを探しに来られたイエス様、今も共にいてくださる聖霊様、ありがとうございます。


メッセージのポイント

神様は私たち一人ひとりのことを、大切な自分の子供として愛してくださっています。私たちはそのことを常に疑い、自分は愛されるに値する人間であることを自分で証明しなければいけないと思っています。そして、人に愛されないことによって、自分は愛されるに値しないのだと苦しみます。イエス様は、私たちをそんな状態から解放するために、自ら神様の家を「家出」して、私たちを探しに来てくださいました。そして、家に帰る道を教えてくださいました。私たちには帰るべき家があります。そこでは、私たちの全てを知っておられる神様が、私たちのことをずっと待っておられます。

話し合いのために

1. 弟と兄、あなたはどちらに自分を重ねますか?

2. 弟と兄、あなたはどちらに自分を重ねますか?

子供たちのために(保護者のために)

このたとえ話には二人の兄弟が登場しますが、普通の感覚からすれば、弟は「悪い子」で兄は「良い子」です。兄の方が弟より優れていて、神様も喜ばれるような気がしてしまいますが、神様は二人のことをそれぞれ同じように愛しています。私たちはいろんな場面で人と比べられ、成績をつけられるのに慣れすぎていて、神様も私たちの成績表をつけているように勘違いしてしまいます。でも神様は、私たちが何ができるかできないかで、優劣を決める方ではありません。誰かから嫌われたり、自分で自分のことを嫌いだと思ったりすると、神様も自分のことを嫌いのような気がしてしまいますが、そんなことはありません。神様の目には、みんな一人ひとりが価値のある大切な子供です。