沈黙の中の愛

Sculptures in the Passion Facade of the Sagrada Família
Jordiferrer / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0

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沈黙の中の愛

マルコによる福音書 5:1-20

池田真理

 マルコによる福音書のシリーズも、今日を入れてあと三回で終わりです。ちょうどクリスマス前に終わる予定です。今日読んでいく場面はイエス様の十字架刑が確定する場面ですが、どちらかというと淡々とした出来事の記録で、それ以上の意味を読み取るのは難しいように思えます。イエス様がひたすら黙っておられるので、聞こえるのは人間の無責任で残酷な言葉ばかりです。でも、イエス様が黙っておられたということに、私たちが読み取れることがあります。少しずつ読んでいきます。まず1節です。

A. イエス様は「引き渡された」

1. 宗教指導者たちに(1)

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと共に最高法院全体で協議した後、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。

 ここに、一連の十字架の出来事の中で鍵となる言葉があります。「引き渡す」という言葉です。この言葉は、イエス様がご自分の死を予告した時にも使われた言葉です。マルコ10:33のイエス様の言葉を読みます。

「今、私たちはエルサレムへ上っていく。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。

 この「引き渡す」という言葉は「裏切る」とも訳されていて、ユダの裏切りにはほぼ全て、この「引き渡す」という言葉が使われています。ユダがイエス様を宗教指導者たちに引き渡し、宗教指導者たちは異邦人であるピラトにイエス様を引き渡しました。イエス様の身柄を、次から次へと引き渡していったということですが、それだけではありません。最初にイエス様を「引き渡した」のは、神様ご自身なのです。神様ご自身が、イエス様を、人間の手に引き渡しました。それは同時に、イエス様ご自身が、自分を人間の手に引き渡したということでもあります。ご自分の命、体、運命を、人間の手に委ね、神様の意志に従ったのです。そのことを少し念頭に置きながら、読んでいきたいと思います。

 1節に戻ると、ここでイエス様が「引き渡された」のは、ユダヤ教の宗教指導者たちです。前回までのところで、イエス様は彼らによって裁判にかけられ、すでに死刑が確定していました。神の名を冒涜したという罪です。ユダヤ教の掟(レビ記24:16)によれば、冒涜の罪を犯した者は石打ちによって死刑にされることになっていました。実際、使徒言行録にはステファノが石打ちによって殺されたという記録があります。にもかかわらず、宗教指導者たちは、イエス様を石打ちの刑にするのではなく、ローマ総督であるピラトに引き渡したとあります。他の福音書を読むと、彼らはピラトに、自分たちには死刑執行の権限がないから、ということを言っていますが、それは単なる言い訳だったかもしれません。彼らはイエス様のことを最大限に苦しめ、不名誉な死を与えることを望んでいました。イエス様を救い主と信じる弟子たちや多くの人々が、完全にイエス様のことをあきらめるように、再起不能にするためです。そのためには、単に宗教的な理由でイエス様を断罪するだけではなく、ローマ帝国に対する政治的反逆者として断罪すれば、さらに圧力を強められると考えたのだと思います。
 それでは、ピラトはイエス様をどのように扱ったのでしょうか?2-5節に進みます。

2. ピラトに(2-5)

2 ピラトがイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」とお答えになった。3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。あんなにお前を訴えているのに。」5 しかし、ピラトが不思議に思うほどに、イエスはもう何もお答えにならなかった。

 ピラトは、ローマ帝国がユダヤ地方を支配するために派遣していた総督でした。新約聖書の中では、イエス様の十字架刑をやめさせようとした人物として、どちらかといえば公平な人物のような印象を受けますが、実際はそうでもなかったようです。他の歴史資料によれば、ユダヤ人の信仰や習慣を見下している、暴力的な支配者でした。ピラトにとって、このイエス様逮捕の出来事は、イエスという一人の男のことでユダヤ人たちが騒ぎ立てているという、些細な面倒事でしかなかったでしょう。
 ここで、ピラトは直接イエス様に尋ねています。「お前はユダヤ人の王なのか。」イエス様の答えは、「それは、あなたが言っていることだ」という、否定とも肯定とも取れる答えでした。イエス様はピラトに、「あなたは私を何者だと思うのか?」と、ピラトにも自分で判断することを望んだのだと思います。イエス様はこれを最後に、もう誰にも何も答えませんでした。それをピラトは不思議に思った、とあります。罪の疑いをかけられた容疑者は、ふつう、抗議したり、言い訳したり、助けを求めたりするのに、イエス様は一切そういうことをしなかったからです。でも、この後読んでいくように、ピラトは、イエス様が本当に罪人なのか、真実を追求するよりも、ユダヤ人たちの求めに応じてイエス様を有罪にする方が得策だと考えました。自分には関係ない問題だし、面倒なことはさっさと片付けてしまった方がいいし、群衆が満足するなら、一人の人の命が犠牲になってもいいと考えたのです。
 続きを読んでいきます。6-11節です。

3. バラバに(6-11)

6 ところで、祭りの度に、ピラトは、人々が願い出る囚人を一人釈放していた。7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバと言う男がいた。8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。9 ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからである。11 しかし、祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。

 このバラバがどういう人物だったのかは、ここに書いてある以上のことは分かりません。暴動に参加して投獄されたと書かれていることから、ユダヤ教原理主義者で革命家だったのではないかという説もありますが、もしそうだとしたら、ピラトがそんな思想的に危険な人物を簡単に釈放しなかったはずです。ヨハネによる福音書ではバラバは強盗だったとも言われており、おそらく革命家などではなく、暴れ者で殺人を犯した人だったと考えられます。ですから、祭司長たちや群衆がバラバの釈放を求めたのは、バラバを本気で釈放させたいと思ったからではなく、イエス様を釈放させないための身代わりを立てるためだったと考えられます。
 イエス様がバラバの身代わりになったということは、バラバという名前の意味を考えると、さらにその皮肉さが分かります。バラバは、ヘブライ語で「父の子」という意味です。さらに、マタイによる福音書によれば、彼は「バラバ・イエス」という名前だったと言われています。同じイエスという名前で、一方は真の父の子であり救い主であるイエス、もう一方は強盗で殺人犯の「父の子」の名前を持つイエスだったということです。そして、真の「父の子」の方が、バラバ・イエスの身代わりになりました。
 バラバには何の権限もなく、イエス様は直接バラバの手に「引き渡された」わけではありませんが、間接的にはそうだと言えます。そして、バラバから次にイエス様が「引き渡された」のは、群衆でした。12-15を読んでいきます。

4. 群衆に(12-15)

12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」14 ピラトは、「一体、どんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫んだ。15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 十字架刑は、非常に残酷で、受刑者を肉体的苦痛の末に衰弱させて死に至らせる、恐ろしい刑でした。人によっては数日間にわたって苦しんだと言われています。見せしめの意味もあり、ローマ帝国は度々、征服した国の人々に恐怖を植えつけて従属させるために、この刑罰を使ったと言われています。刑罰の中でも、最も残酷で、最も不名誉なものでした。また、15節の最後に、さらっと「イエスを鞭打ってから」とありますが、これも十字架での苦痛を長引かせないために、あらかじめ受刑者を衰弱させるために、とても残虐な方法が使われたと言われています。
 群衆は、なぜそんな十字架刑をイエス様に求めたのでしょうか。彼らは、数日前まではイエス様の教えに喜んで耳を傾けていた人たちです。
 これは良い例ではないと思いますが、イエス様に対する群衆の態度の豹変ぶりは、人気芸能人が薬物で逮捕された時の世間一般の反応を考えると分かるような気がします。そのニュースが流れた途端に、その人は一般社会から排除されるべき対象になり、転落した弱い人間、人生の失敗者になります。多くの人が、その人のことを個人的に知っているわけでもないのに、好き勝手に中傷します。また、薬物に限らず、警察に捕まったというだけで、まだ冤罪の可能性もあるのに、犯人扱いすることも起こります。無責任な誹謗中傷が、たくさんの無実の人や、罪を犯しても立ち直ろうとする人たちを苦しめます。
 イエス様は、現代の私たちと同じように無責任な群衆に引き渡されました。そして、彼らの残酷な悪意の犠牲になりました。また、同じように、ローマ軍の兵士たちにも引き渡されました。

5. 兵士たちに(16-20)

16 兵士たちは邸宅、すなわち総督官邸の中にイエスを連れて行き、部隊の全員を呼び集めた。17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、18 「ユダヤ人の王、万歳」と挨拶し始めた。19 また、葦の棒で頭を叩き、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の上着を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

 兵士たちは部隊の全員を集めたとありますが、一部隊は少なくとも200人、多ければ600人いたと考えられます。イエス様を十字架につける前に、すでに鞭打ちによって衰弱しているイエス様を、そんな集団で侮辱したのです。彼らにとって、イエス様は有罪判決を受けた犯罪人であり、自分を王様だと自称した愚か者でした。それが本当かどうかは、彼らにはどうでもよいことでした。人が苦しむ姿を見て楽しめれば、それでよかったのです。


B. イエス様の沈黙

 イエス様は、この全ての出来事の中で、ただ黙っておられました。無実を訴えることも、自分を苦しめる者を恨むことも、ありませんでした。また、神様に助けを求めることもありませんでした。それは、この全てが神様の意志にかなうことだったからです。最初にお話ししたように、イエス様を人間の手に引き渡したのは神様ご自身であり、イエス様はそれに従い、ご自分を人間の手に引き渡しました。イエス様は、私たちの身代わりになって死なれるためにこの世界に来られたのであり、最初からそれがイエス様の目的でした。イエス様が、自分を苦しめる者たちに対して何を思っていたかは、ルカによる福音書が記録しているイエス様の言葉からわかります。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)

イエス様の心には、ただ私たちに対する赦しと愛だけがありました。私たち人間の残酷さ、悪意、弱さ、その全ての罪を受け止め、赦して、愛しておられる愛です。
 最後に、今日の箇所と関わりの深いイザヤ書53章の一部を読んで終わりにします。

7 彼は虐げられ、苦しめられたが、口を開かなかった。屠り場に引かれて行く子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口を開かなかった。

11 彼は自分の魂の苦しみの後、光を見、それを知って満足する。私の正しき僕は多くの人を義とし、彼らの過ちを自ら背負う。

12 それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え、彼は強い者たちを戦利品として分け与える。彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し、背く者の一人に数えられたからだ。多くの人の罪を担い、背く者のために執り成しをしたのは、この人であった。

(お祈り) 神様、あなたがイエス様としてこの世界に来られ、私たちのために担ってくださった苦しみの大きさに愕然とします。ただ黙って苦しみに耐え、私たちを赦しておられた愛の大きさに驚きます。どうか、私たちをあなたに似た者として、造り変えてください。あなたが赦してくださったように、他の人の過ちをゆるし、愛せるようにしてください。身近な人たちとの関係においても、社会の中においても、憎しみと悪意の連鎖を繰り返さないようにさせてください。イエス様、あなたの深い愛にもう一度心から感謝し、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様は、不当な断罪に対して何も反論しませんでした。侮辱されても、暴力を受けても、黙っておられました。それは、権力者に抵抗することをあきらめたからではなく、人間の残酷さに絶望したからでもありませんでした。イエス様はただ神様の意志に従い、ご自分の身を神様に委ねたのです。そこには、私たち人間の罪と弱さの全てを受け止め、赦して、愛しておられる愛だけがあります。

話し合いのために

イエス様は黙って何を考え、どういう気持ちだったのでしょうか?それぞれの場面で考えてみてください。

子供たちのために(保護者のために)

 理不尽な扱いを受けて怒るのは正当な反応です。例えば、家や教室で何かが壊れたりなくなったりした時に、自分はやっていないのに自分のせいにされたら、怒るのは当然ですし、間違っていません。イエス様は何も悪いことはしていなかったのに捕まりました。「自分は何もしていない」と言う権利が当然ありました。でも、イエス様は何も言いませんでした。そして、そのまま死刑が決定し、極悪人として見下され、ひどい暴力を受けました。その間もイエス様は何も言いませんでした。イエス様は、なぜずっと黙っていたのでしょうか?イエス様はどういう気持ちで、何を考えていたと思いますか?あきらめ?憎しみ?恨み?悲しみ?答えは出さなくていいので、自由に話してみてください。