喜びの朝が来た

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喜びの朝が来た

詩編30篇

池田真理


A. 死から復活された主イエス (2-6

イースターを迎えています。今日は詩編30篇を読みたいと思います。3つに分けて読んでいきます。まず最初の5節です。(日本語では2-6節、英語では1-5節)

2 主よ、あなたを崇めます
  あなたは私をすくい上げ
  私のことで敵を喜ばせることはありませんでした。
3 わが神、主よ、私があなたに叫ぶと
 あなたは私を癒してくださいました。
4 主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ
  墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。
5 主に忠実な者たちよ、主をほめ歌え
 聖なる御名に感謝せよ。
6 主の怒りは一時。
  しかし、生涯は御旨の内にある。
 夕べは涙のうちに過ごしても
  朝には喜びの歌がある。

 この詩編は、瀕死の病が癒された人の詩だと言われています。でも同時に、十字架の死から復活されたイエス様の詩でもあると言えます。4節にあるように、イエス様は十字架で死なれ、一度は陰府に下り、3日後によみがえられました。だから、2節にあるように、神様は敵である悪魔を喜ばせることはありませんでした。そして、6節にあるように、イエス様が死なれたのは、神様の人間に対する怒りを身代わりで引き受けたためでしたが、神様の怒りは一時で、全てにおいて神様の良い意志が貫かれていました。6節の最後には、「夕べは涙のうちに過ごしても、朝には喜びの歌がある」と言われていますが、これはイエス様が復活された朝のことを指しています。イースターの朝、神様の愛が悪魔に勝利し、命が死に勝利しました。それは、一度で、全世界、全時代の、全ての人に、永遠に消えない希望と喜びを与えるものです。
 でも、私たちの現実を考えると、毎朝、喜びに満ちて目を覚ますことのできる人はそんなにいません。特に、何かに悩んで苦しんでいる時、一夜にして全ての問題が解決したり、悩みが消え去ったりすることは、現実にはありません。それは、去年からのコロナ禍で誰もが経験していることだとも思います。そんな私たちの現実を、続く言葉が表しています。7-11節に進みましょう。


B. 死を近くに感じる時には (7-11)

7 安らかなときには、言いました
「私はとこしえに揺らぐことがない」と。
8 主よ、あなたが御旨によって
 私を強固な山にしてくださいました。
 しかし、御顔を隠されると、私はおじけました。
9 主よ、私はあなたに呼びかけます。
 わが主に憐れみを乞い願います。
10 私が血を流し、滅びの穴へと下ることに
 何の益があるでしょうか。
 塵があなたに感謝し
 あなたのまことを告げるでしょうか。
11 お聞きください。
 主よ、私を憐れんでください。
  主よ、私の助けとなってください。

 現実の状況がうまくいっている時には、喜びや希望を持つことは簡単です。そして、傲慢になって、私はもう決して揺らがないと、自分を過信します。
 でも、状況が悪くなると、恐れが出てきます。それは自然なことで、恐れを持つこと自体は何も悪くありません。
 そんな時、私たちはこの詩人と同じように、「主よ、憐んでください、助けてください」と叫び求めていいし、それしか私たちにできることはありません。
 その中でも、10節の叫びは特別だと思います。

10 私が血を流し、滅びの穴へと下ることに
 何の益があるでしょうか。
 塵があなたに感謝し
 あなたのまことを告げるでしょうか。

 これは、とても大胆な叫びです。神様に対して、「あなたは私が死んでしまっても構わないのですか?」と詰め寄るような叫びです。それは同時に、「私は死にたくない、滅びの穴に下りたくない、塵にはなりたくない」という叫びでもあります。
 ここで注意しなければいけないのは、私たちはこの詩人の叫びを、単純に肉体の死を恐れる人の叫びととらえてはいけないということです。滅びの穴に下ること、陰府に下ることというのは、肉体の死以上に、神様との関係における死であり、神様から完全に見捨てられて、関係をなくすことです。それは、完全な死であり、完全な絶望です。
 ですから、「死にたくない」という詩人の叫びは、「絶望したくない」という叫びです。つまり、私たちはこの詩人と同じように、神様に対してこう詰め寄っていいということです。「あなたは私が絶望してしまっても構わないのですか?」と。
 そして、その私たちの問いかけに対して、神様はもうはっきりと答えをくださっています。イエス様が十字架で死なれ、復活されたのは、私たちに肉体の命を超えた永遠の命を与えるためです。神様は、私たちが絶望のうちに滅びることを望みませんでした。一人ひとりが豊かで喜びに満ちた人生を送ることを望まれました。そのために、私たちとどんな時でも共にいて、永遠に愛し合う関係を持ちたいと願われました。神様と永遠に共に生きること、それが永遠の命です。
 そうなると、神様は私たちに新しい生きる喜びを与えてくださったとも言えます。それが残りの2節で語られています。最後の12-13節を読みましょう。


C. 主がくださる生きる喜び (12-13)

12 あなたは私の嘆きを踊りに変え
 私の粗布を解き、喜びを帯とされました。
13 それは、心の底からあなたをほめ歌い
 口をつぐむことのないためです。 
 わが神、主よ 
 とこしえに、あなたに感謝をささげます。

 私たちがどんな状況に置かれても、肉体の死を近くに感じたとしても、死にたいと思うほど生きることが辛い時でも、イエス様が十字架で証明された愛は取り消されることはありません。目の前の状況がどうであれ、私たちには到底どう乗り越えていいか分からないような壁が立ちはだかったとしても、イエス様はそこで私たちと共に苦しみ、道を示して、共に歩んでくださる方です。だから私たちは、具体的な状況が良くならなくても、希望をあきらめないでいられます。それが、イエス様が実現してくださった、新しい生き方です。

 最後の13節には、この新しい生き方の目的が言い表されています。「心の底からあなたをほめ歌い、口をつぐむことのないためです。」神様を心からほめたたえて、黙っていないことが、私たちの人生の新しい目的です。それは、どんな時でも、無理をしても神様をほめたたえなければいけないという意味ではありません。そうではなく、私たちが心の底から神様をほめたたえられるように、神様がしてくださるということです。神様はそのために、何度でも、私たちの嘆きを踊りに変え、悲しみの夜を喜びの朝に変えてくださいます。それは、何度も言ってしまいますが、具体的な状況が良くなることや、私たちの願いが何でも叶うことだけを指すのではなく、たとえ状況は何も変わらなくても、悪化したとしても、神様が私たちを愛しておられる事実は変わらず、神様は良い方なのだと経験することです。そんな経験を重ね、神様をほめたたえて生きられることが、私たちに与えられた人生の新しい目的であり、喜びです。

 この世界には、治らない病気があり、消えない心の傷があります。夢が叶わないことも、あきらめなければいけないこともあります。悲しみや虚しさが繰り返し襲ってくることもあります。それでも、私たちは、イエス様の復活と共に喜びの朝はもう来たのだと、自分に向かって、世界に向かって、宣言する役割が与えられています。聖霊様の力によって、またお互いの存在を通して、その役割を果たしていける力をいただき、それぞれの人生を最後まで希望を持って歩み続けましょう。

(お祈り) 今年もイースターを迎えました。主よ、一人ひとりの心に、あなたと共に生きる永遠の希望と喜びを与えてください。目の前の状況に惑わされずに、あなたが決して私たちのことを忘れておらず、良い計画を持っておられることを信じられるように助けてください。また、他の人を元気付けることができるように、私たちをととのえて用いてください。主イエス様、あなたの変わらない愛に感謝して、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様が死からよみがえられた朝、全世界の全ての人に、永遠に揺るぐことのない喜びと希望がもたらされました。この世界を造られた神様は、私たち人間のことを決して見捨てることなく、一人ひとりが豊かで喜びに満ちた人生を送ることを望んでおられる方だということが、イエス様の十字架と復活によって証明されたからです。現実において、どんな悲しみや虚しさが私たちを襲ったとしても、死を超えた希望と喜びは、すでに私たちのものなのです。

話し合いのために
  1. イエス様がくださる生きる喜びとはなんですか?
  2. 現実の苦しみに絶望しそうな時、どうすればいいですか?
子供たちのために(保護者のために)

この詩編で、神様は私たちの悲しみを喜びに変えてくださる方だと言われています。なぜそう言えるのでしょうか?話してみてください