「クリスチャン」であることの価値

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「クリスチャン」であることの価値

ローマ 3:1-20

池田真理


 今日はローマ3章1-20節を読んでいきます。この箇所は1章からのまとめです。パウロは1:18からここまで、ユダヤ人も異邦人も、神様を知っている者も知らない者も、人間は皆同じように罪人なのだということを言ってきました。でも、なぜ神様を知っているユダヤ人が神様を知らない異邦人と同じように罪深いのか、納得できないユダヤ人は少なくなかったようです。それは、「クリスチャン」が抱く間違った優越感の問題につながります。私たちは、神様を知っているという点で、神様を知らない人たちよりも、何かが優れているのでしょうか?その答えはイエスとノー両方です。4つの部分に分けて読んでいきます。まず1-4節です。

1. 私たちは神様を裏切るが、神様は私たちを見捨てないと証明できる (1-4)

1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。2 それは、あらゆる点でたくさんあります。第一に、神の言葉が委ねられたことです。3 それはどういうことか。彼らの中に真実でない者がいたにせよ、その不真実のせいで、神の真実が無にされるとでもいうのですか。4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。

 私たちは何か優れているのか?ここでのパウロの答えは「イエス」です。でも、では何が優れているのかというと、優れているのは神様であって、私たちが優れているのではありません。
 ここでパウロが言うように、私たちには「神様の言葉が委ねられました。」ここで神様の言葉とは聖書のことで、特に旧約聖書のことを指します。旧約聖書は、何度も神様を裏切ったユダヤ人と、決して彼らを見捨てなかった神様の、長い歴史にわたる記録です。それは、ユダヤ人にとって華々しい栄光の記録ではなく、むしろ情けない不名誉な記録です。でも彼らは、その自分たちの不名誉な歴史を通して、それでも彼らを見放さなかった神様の愛と誠実を証明することができました。その点においてユダヤ人は優れていると、パウロは言います。私たちも、自分自身については何も誇ることができませんが、私たちが何度間違っても失敗しても、決して私たちを見捨てずに導いてくださる神様がおられるのだということを証明することができます。その点において、私たちは優れていると言えます。
 このことは、4節でパウロが引用している旧約聖書の箇所からも分かります。この引用は詩編51篇で、私たちは罪を犯し、道を誤りますが、主はいつも正しく裁かれる、ということが言われています。(ぜひ詩編51篇も読んでみてください。)
 ただ、私たちの不誠実さが神様の誠実さを証明するというと、昔も今も反論が起こるのかもしれません。5-8節に進みます。


2. 正しく生きようと努力することに意味はないのか? (5-8)

5 しかし、私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、何と言うべきでしょう。人間としての言い方をすれば、怒りを下す神は正しくないのですか。6 決してそうではない。もしそうだとしたら、神はどうして世をお裁きになることができましょう。7 私の偽りによって神の真理がいっそう増して、神の栄光となるのであれば、なぜ、私はなおも罪人として裁かれねばならないのでしょうか。8 また、「善を来らせるために、悪を行おうではないか」ということになるのでしょうか。私たちがそう言っていると中傷する人々がいますが、彼らが裁かれるのは当然です。

 これは、「私たちが悪い者であるのは、神様の正しさを証明するためだと言うなら、そもそもそのように私たちを造られた神様が悪いのであって、私たちにはどうしようもないことじゃないか」という反論です。それは、「そんなはずはない、神様に正しいと認められるために努力することは無駄ではないはずだ」という思い込みの裏返しでもあります。神様を信じて正しく生きようと努力しても、結局、神様を知らないで自分勝手に生きている人たちと同じ扱いしか受けられないなら、確かに不公平かもしれません。神様は、正しい者に報いを与え、悪い者を裁かれる方ではなかったのでしょうか?そんな不満が出てくるのは、私たちが神様を人間の尺度でしか見ていないからです。続きの9-18節で、パウロは私たちに厳しい現実を突きつけています。


3. 「クリスチャン」でもそうでなくても、この世界に正しい者はひとりもいない (9-18)

9 では、どうなのか。私たちはまさっているのでしょうか。そうではありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。11 悟る者はいない。神を探し求める者はいない。12 皆迷い出て、誰も彼も無益な者になった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。13 彼らの喉は開いた墓であり/彼らは舌で人を欺き/その唇の裏には蛇の毒がある。14 口は呪いと苦味に満ち/15 足は血を流そうと急ぎ/16 その道には破壊と悲惨がある。17 彼らは平和の道を知らない。18 彼らの目には神への畏れがない。」

 神様を知っていてもいなくても、「クリスチャン」であろうとなかろうと、「クリスチャン」になる前もなった後も、私たちの罪の本質は変わりません。この世界に、神様に正しいと認められる人間はひとりもいません。私たちは皆、神様を忘れ、自分勝手に歩み、人の痛みに鈍感な存在です。
 パウロは10節以下で旧約聖書の詩編やイザヤ書を引用していますが、この引用は当時のユダヤ人にとっては驚きの引用だったはずです。もともとはユダヤ人の敵に対して使われている非難の言葉を、自分たちユダヤ人自身を指す言葉として使っているからです。「口は呪いと苦味に満ち、足は血を流そうと急ぎ、その道には破壊と悲惨がある」のは、私たちの敵ではなく、私たち自身だ、と言っているということです。
 神様は正しい者に報い、悪い者を裁かれる正義の方であるというのは本当です。でも、だから報いを得るために正しい者になる努力をすればいいというのは、どんなに努力しても、世界中の誰も、神様に認められる正しい者にはなれないという現実を見ていないことになります。神様を知っていても、私たちは神様を忘れることがあり、イエス様をほめたたえながら、誰かを苦しめているのに気が付かないのが、私たちの現実です。だから、「正しい者はいない。一人もいない」のです。自分の努力次第で神様に正しいと認めてもらえると考えること自体が間違っています。最後の19-20節に進みます。


4. 自分の力で正しく生きるのは不可能だと知っている (19-20)

19 さて、私たちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にある者たちに向けられています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためです。20 なぜなら、律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 これは、パウロの言葉を聞いていたユダヤ人にとって、最後のダメ押しだったかもしれません。律法を守って生きることを誇りにしていた人たちにとって、律法も全て意味がないと言われることは、到底受け入れがたいことです。そして、パウロも律法が無意味だと考えていたわけではありません。律法には大切な役割がありました。それは、正しい生き方を教え、それを完璧に行うことは不可能であると教える役割です。
 私たちにはユダヤ人の律法はありませんが、良心や道徳心があります。そして、イエス様の十字架を通して、最も大きな愛は他人のために自分の命を献げることだと知りました。神様が私たちに求めている正しい生き方は、私たちの力では到底実行できません。自分の愛の小ささ、根気のなさ、忍耐力のなさに、打ちのめされるしかありません。それが私たちの限界なのです。でも、それを知っていることには価値があります。なぜなら、イエス様がこう言われたからです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)

(お祈り) 主よ、私たちはいつも心に悪を持ち、あなたを悲しませる者です。私たちはこれまで何度もあなたを忘れ、見失いました。でも、あなたは何度でも行く先々で私たちと出会ってくださり、そこで共にいてくださいました。私たちが傲慢になって、あなたを悲しませることができるだけないように、私たちの歩みを導いてください。主イエス様、あなたの十字架の愛に感謝して、あなたのお名前によってお祈りします。


メッセージのポイント

「クリスチャン」になる前となった後で、私たちの罪の本質は何も変わりません。イエス様を信じていながら、傲慢になったり、人を傷つけたり、神様を悲しませることを繰り返すのが私たちです。「クリスチャン」であることの価値は、自分は自分の力で神様を喜ばせることができないと知っていることであり、それでも神様はそんな私たちを何度も赦して見捨てない方だと知っていることです。

話し合いのために
  1. 世間の人が一般的に持つ「クリスチャン」のイメージに、あなたはどう影響されていますか、いませんか?
  2. パウロは、私たちは何が優れていると言っていますか?
子供たちのために(保護者のために)

イエス様を信じて生きることとイエス様を知らないで生きることは、何が違って、何が同じだと思うか、話し合ってみてください。(イエス様を信じて生きることは、私たちは誰も自分の努力で神様に喜ばれる生き方をできる人はいないと知っているから、イエス様に頼って生きることです。イエス様を知らないで生きることは、頼りない自分に頼って生きることです。両方とも、私たちが頼りないという事実は変わりません。)