感謝を歌え!期待を歌え!

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感謝を歌え!期待を歌え!

詩編98

永原アンディ


1 賛歌。
新しい歌を主に歌え。
まことに主は奇しき業を成し遂げられた。
主の右の手、聖なる腕が救いをもたらした。
2 主は救いを知らせ
正義を国々の目の前に現された。
3 イスラエルの家に対する
慈しみとまことを思い出された。
遠く地の果てまで
すべてのものが我らの神の救いを見た。

4 全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。
歓声を上げよ、喜び歌え、ほめ歌え。
5 琴に合わせて主にほめ歌を歌え
琴と歌声をもってほめ歌え。
6 ラッパと角笛の音に合わせて
王なる主の前で喜びの声を上げよ。

7 海とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものはとどろけ。
8 川という川は手を打ち鳴らせ。
山々はこぞって喜び歌え
9 主の前に。
主は来られる、地を裁くために。
主は義によって世界を裁き
もろもろの民を公平に裁かれる。

 コロナウイルスの感染は止まることを知らず、当たり前になされていた日曜礼拝の営みさえ、一年以上、今まで通りに行えていませんが、これは神様に与えられた良い機会です。どのような意味で良い機会かと言えば、まず、捧げられることが当たり前になっていた共に集う礼拝が、実は恵みによって守られ、捧げることができていたのだと自覚できたことです。そしてもう一つは、私たちの共に捧げる礼拝は、実際に同じ場所にいることができなくても“共に”捧げることができるとわかったことです。私たちが礼拝の意味を正しく知っているなら、どんな状況に置かれても礼拝中心に生きることが不可能になることはありません。神様は、今回もそれが可能になるように、全てを用意してくださいました。

 先週、中部地方の教会で多くの人々が集ったイースターの集いで、コロナの集団感染が発生したニュースがありました。共に歌うことは、共に食べることに次ぐ集団感染の要因になります。人数が少なく、飛沫が飛ぶほど元気に歌わなければ、危険は少ないですが、できるだけ気をつけていきたいと思っています。
状況によっては、最初の緊急事態宣言の時のようにスタッフもそれぞれの自宅からライブ配信することになるかもしれませんが、それでも共に捧げる礼拝であることには変わりありません。

私たちが主に向かって歌う、その内容は多くありますが、今日のテキストは、「神様への感謝の気持ち、神様を褒め称える気持ちを喜びを持って歌う」というタイプの歌について教えてくれます。いわゆる「賛美」です。日本の教会では、ほとんど、「そこで歌う歌=賛美」という理解ですが、これは礼拝の豊かさ、奥深さを見過ごす残念な間違いです。とは言え、賛美が礼拝の重要な要素であることは確かです。ただ、神様を素直に褒め称えられないような時に無理やり喜んだふりをしたり、感謝を口だけで言い表す必要はないということは忘れないでください。それが感謝や賛美でなくてもありのままの気持ちを主の前に持っていって言い表せばいいのです。


1. 感謝を歌おう (1-3)

1 賛歌。
新しい歌を主に歌え。
まことに主は奇しき業を成し遂げられた。
主の右の手、聖なる腕が救いをもたらした。
2 主は救いを知らせ
正義を国々の目の前に現された。
3 イスラエルの家に対する
慈しみとまことを思い出された。
遠く地の果てまで
すべてのものが我らの神の救いを見た。

神様に対するイスラエルの信頼は、出エジプトの出来事が原体験となって保たれているものです。私たちも、それぞれの出エジプト体験があります。それがあるから、イエスと共に歩む<今>があるのです。

 しかし実際にはイスラエルの民も私たちも、いつも感謝の喜びの生きているわけではありません。むしろ神様の存在を、苦しみや恐れの現実で疑いつつ生きています。

 それでもイスラエルが、ことあるごとに民族の記憶を呼び起こし感謝の歌を捧げたように、私たちは救いの事実を思い返し、喜びを甦らせることができます。礼拝の中でそれは起こります。自分が無理やり、そう思わなくても、心にもないことを歌わなくてもいいのです。神様の霊は、そのような人の心にも訪れてくださいます。


2. 期待を歌おう (7-9)

次に7−9節に注目してください。4-6節は最後にお話しします。

7 海とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものはとどろけ。
8 川という川は手を打ち鳴らせ。
山々はこぞって喜び歌え
9 主の前に。
主は来られる、地を裁くために。
主は義によって世界を裁き
もろもろの民を公平に裁かれる。

 最初の部分と異なることは、過去を感謝して歌うのではなく、未来を期待して歌っていることです。この詩の時代の人達は、イエスを知りません。彼らの期待は、イエスの誕生で答えられることになります。

 私たちはどのような未来を期待して歌うことができるのでしょうか?それは神の国の完成です。このことは、異端的な教えがするような、イエスの十字架は不完全だったという意味ではありません。
 そうではなく神様は、創造の出来事の中で人に委ねた役割を、十字架の後も取り上げなかったのです。神様が人に委ねた役割とは

神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」(創世記1:26)

です。イエスの十字架の出来事の後、始まった終わりの時が完成する時まで、私たちはイエスの手足として、この地上での神様の働きを続けるように励まされているのです。


3. みんなで歌おう (4-6)

4 全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。
歓声を上げよ、喜び歌え、ほめ歌え。
5 琴に合わせて主にほめ歌を歌え
琴と歌声をもってほめ歌え。
6 ラッパと角笛の音に合わせて
王なる主の前で喜びの声を上げよ。

 なぜ、この部分を最後の取っておいたかというと、先に取り上げた過去の恵みと、未来への期待という両方の思いを礼拝として表すためのヒントが書かれているからです。

 礼拝は一人でも捧げられることは今までもお話ししてきましたが、それぞれに困難や弱さを抱えながらも、感謝、期待の思いを持つ者が共に声を合わせ、楽器を奏でて神様に捧げることを軽んじていいということではありません。それは、私たちがイエスにあって一つの大きな家族であるからです。この大きな家族の主であるイエスを感謝し、愛を、期待を、願いを言い表すことは、個人的にだけではなく、家族としてなされるべきことです。イエスは私の主であると共に私たちの主なのです。
 教会は、目に見えるキリストの体です。私たちが心を合わせ、声を合わせて礼拝することが基礎になければ、体は、頭であるイエスに従って調和した動きをすることは難しいのです。

 まだ地上での旅は続きます。過去の神様がしてくださった多くの恵みと、神の国の完成に向かって確かに歩みを進めているという確信が、私たちの口から喜びの歌として発せられます。私たちは、創世記の始めに祝福された者の子孫として、世に生かされている間、新しい喜びのうたを歌い続けることができます。一人一人が直面する危機にあっても、キリストの体とされた教会は、喜び、賛美することをやめません。

(祈り) 主よ、今朝もあなたの恵みを思い起こして感謝します。あなたがしてくださることを期待して喜びます。あなたが私たちを、あなたの体の一部として、あなたのおおきな家族の一員としてとして、一人一人を招き入れてくださっていることを感謝します。どうぞ私たちの全ての憂いにまさって、あなたの存在が大きいことを、私たちの心に覚えさせてください。今日もあなたに向かって歌います。私たちの礼拝を受け止めてください。私たちの心を新しい歌で、新しい平安で、新しい喜びで満たしてください。


メッセージのポイント

主に向かって歌うことは、私たちの礼拝の中心です。私たちは、日々新しくされ、新しい問題も起こるけれど、新しい力に満たされて克服できるので、私たちの歌も日々新らしくされるのです。私たちは、過去の恵みについても、これからの期待についても歌います。声だけでなく、さまざまな音色の楽器を神様と共に楽しみ、親しくすごす礼拝を捧げ続けましょう。

話し合いのために
  1. なぜ主に向かって歌うことが礼拝の中心なのですか?
  2. 神様は、どのような歌をもって礼拝されたいと思っておられるでしょう?
子供たちのために(保護者のために)

全体でも良いですが、特に4節以下をもちいて、子供達と礼拝してください。
1) 読み聞かる
2) 一緒に声を出して読む。
3) 子供に分かる言葉で説明する
4) 礼拝で歌われる歌を、みんなで歌う
5) ユアチャーチの祝福の祈りを優しい言葉に変えて子供達を祝福する

(例) 私たちの主、イエス・キリストの恵みが、みんなの一週間の歩みにゆたかに現されますように。
私たち、一人一人の言葉と行動が、神様の愛を相手に表すものになりますように。
聖霊に力や知恵をいただいて、それを現すことができますように。
一人一人がイエス様の使いとして今週も過ごしましょう。アーメン