聖霊の働き②:私たちを神の子とする

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聖霊の働き②:私たちを神の子とする

ローマ 8:12-17

池田真理

 今日は前回に引き続き、ローマ書8章から、聖霊の働きについて教えてもらいましょう。早速、まず12-13節を読んでいきます。


A. 私たちの自覚が必要 (12-13)

12 それで、きょうだいたち、私たちは、肉に従って生きるという義務を、肉に対して負ってはいません。13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

 「肉」という言葉は、前回も出てきましたが、私たちの「罪」と言い換えられます。私たちが罪の力から自由になるためには、私たち自身の良心や道徳的な努力では不可能で、それができるのは聖霊様だけだというのが、前回までの内容でした。

 ただ、今読んだ12-13節には、私たちが自覚的に聖霊様に従うことが必要だということが言われています。特に、13節には「霊によって体の行いを殺すなら」とあります。これは禁欲的生活の勧めではなく、罪に従う生活をやめるという意味です。自分がどのような生き方をするのか、罪に従うのか、聖霊様に従うのかは、私たちの自覚的な選択だということです。ただ、その選択も、私たちは自分の力で行うのではなく、「霊によって」行います。
 まとめてみると、私たちが罪から解放されるために、私たちの努力だけでは不可能で、同時に私たちの意志とは関係なく聖霊様が働くことも不可能です。私たちが自覚的に聖霊様に従う時、その選択にも聖霊様の働きがあり、聖霊様は私たちの求めに応じて私たちを助けてくださいます。私たちが助けを求めなければ聖霊様は助けてくれないという意味ではなく、助けを求めるという選択をさせてくださるのも聖霊様です。でも、そこには私たちの自覚も必要なのです。

 聖霊様によって罪から離れて聖霊様に従って生きることは、本来神様が私たちに望まれていた豊かな命につながるものです。続きの14-16節を読んでいきましょう。


B. 聖霊様が教えてくれること (14-16)

14 神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16 この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。

1. 私たちを「子」と呼ぶ神様の愛 (ホセア 11:1)

 「あなたは神様に愛されている神様の子どもです」ということを本当に信じることができたら、どれだけの人が救われるだろう、と思います。神様の霊、聖霊様は、そのことを私たちが信じることができるように教え、何度も思い起こさせてくださる方です。それは、何となくそうなんだろうと感じさせてくれる、というようなあいまいなものではなく、根拠のはっきりした、もう取り消されることのない事実に基づいたものです。イエス様の十字架という事実です。聖霊様は、二千年前に十字架で死なれたイエスという人物がこの世界を創られた神様ご自身であり、神様は人となって命を献げるほどに私たちのことを愛しておられるのだということを、私たちの心に教えてくれます。

 そして、この神様の愛というのは、二千年前に急に始まったのではなく、この世界が創られた最初から、変わらずに私たちに注がれてきたものです。私たちは自分たちの罪の中で神様を忘れ、神様に愛されていたことも忘れてしまいましたが、神様の側では何も変わっていません。旧約聖書のホセア書にこうあります。

「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。私はエジプトから私の子を呼び出した。」(ホセア11:1)

旧約聖書は、何度も神様を裏切り忘れた人間と、何度でも人間を救い、見放さなかった神様の記録です。神様は、人々をご自分の子どもとして愛し、苦しみから救い出し、導いて来られました。その神様の愛は、時代を超えて変わらず、イエス様を通してはっきり示され、私たちにも注がれているということを、聖霊様は私たちに教えてくれます。15節にあるように、神様の望みは、私たちが恐怖の中で怯えながら神様に従うことではなく、神様に愛されている子どもとして神様を信頼することです。

2. 神様を「父」と呼んで信頼すること (マルコ 14:32-36)

 ただ、神様の愛は世界の始まりの時から変わりませんが、イエス様によって、それがよりはっきり私たちに分かるようになったということは言えます。神様の子供とされて、神様を信頼して生きるとはどういうことかを、イエス様が身をもって示してくださったからです。マルコによる福音書14:32-36を読みます。

32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「私が祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく苦しみ悩み始め、34 彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」35 少し先に進んで地にひれ伏し、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り、36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」(マルコ14:32-36)

これは、イエス様が十字架にかけられる直前に、神様に祈られた場面です。ここでイエス様が「アッバ、父よ」と呼びかけた言葉は、アラム語で、親しみを込めた「お父さん」という呼びかけです。それまで、聖書の世界では、先ほど読んだホセア書のように、神様が人々のことを「子よ」と呼びかけることはあっても、人々の方から神様を「父よ」と呼ぶことはありませんでした。でも、イエス様が十字架で死なれたことによって、私たちは神様の愛がどれほど深いかを知り、イエス様と同じように、神様に親しみを込めて呼びかけていいのだと知りました。

 でも、神様のことを「お父さん」と呼ぶことは、人によっては抵抗を感じることだと思います。人間の社会の中では様々な家族の形があり、父親という存在に対する感情も人それぞれだからです。また、神様に性別はないので、神様はお父さんでもお母さんでもないとも言えます。だから、神様のことを無理に「お父さん」と呼ぶ必要はないと思います。

 大切なのは、神様に何と呼びかけるかではなく、イエス様の「アッバ」という呼びかけにある、神様への親しみの感情と深い信頼を持っていることです。イエス様の祈りはこう続いています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」私はこの苦しみから解放されたい、でも、たとえそれをあなたが叶えてくれなくても、あなたは良い方であると信じています、ということです。私をご自分の子として愛してくださっているあなたが、私に悪いことをなさるはずがなく、私には理解できなくても、全てはあなたの計画のうちで良いことなのだ、という信頼です。そのような深い信頼を、私たちが自分の力で持つことは不可能です。聖霊様によって、イエス様の十字架の愛をただ知識として受け取るのではなく、自分の心に受け取って、心を動かされることが必要です。それも、人生の中で何度も繰り返し必要です。

 それでは、最後の17節を読んでいきましょう。


C. イエス様と共にこの世界を受け継ぐ (17)

17 子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共に栄光をも受けるからです。

 この一節は続きの箇所へのつなぎの部分で、詳しいことは続きの箇所を読まないと分かりません。でも、今日最後に覚えておきたいのは、この17節で言われているように、私たちは、神様の子どもとして、イエス様と共に栄光を受けることが約束されているということです。その栄光とは、世界を支配する王としての栄光です。それはもちろん、人間の王が私利私欲のために権力を濫用して世界征服をするようなことではありません。イエス様の支配とは、神様の愛の支配です。全ての人が互いに愛し合い、傷を癒やされて、神様を愛し、礼拝する世界です。そこでは、喜びと希望が絶えず、誰もが平和に暮らせるはずです。いつか、イエス様がこの世界に戻ってこられたとき、そのような神様の愛の支配する世界が実現します。私たちはそこにイエス様と共に永遠に住むことを約束されています。それが、神様の子どもたちに約束されている、将来の希望、栄光です。

 ただ、いつもお話ししているように、そのような平和な世界は、すでに、私たちの周りに始まっているものでもあります。私たちが希望のないところで希望を信じ、愛のないところで愛を信じるとき、小さな神様の国が始まっています。それは、私たちの力では到底無理なことですが、聖霊様が私たちの思いと行動を導き、イエス様を信頼させてくださるから、できることです。

 将来、イエス様が完全な形で実現してくださるまでは、神様の国はまだ小さく、私たちの苦しみは続きます。イエス様がこの世界に来られて、人間の罪を背負われて苦しまれたように、私たちも自分たちの罪の中で苦しむことを避けることはできません。でも、この苦しみは、やがて来る神様の国に必ずつながります。

(お祈り) 神様、私たちは様々な苦しみの中で生きていますが、どうかあなたを信頼して、あなたは私たちにいつも関心を持ち、ご自分の子どもとして愛してくださっていることを信じられるように助けてください。そして、目の前の状況が変わらなくても、あなたを信頼して、希望を失わず、あなたが自分に何を望んでおられるのかをよく聞き、周りの人を愛して生きることができるようにさせてください。私たちは自分の力だけで生きることはできません。あなたの助けが必要です。どうぞ、あなたの霊を私たちに注いで、私たちの思考も感情もあなたが導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

神様の恵みでさえ、水や空気の大切さと同様に慣れてしまい、喜べないものに目を向けてしまいがちです。神様の声よりも、それ以外のノイズが耳に付いて心が重くなります。しかし、世私たちは、神様にとって、ご自分の命を献げるほどに大切な子どもであり、体の死を超えて永遠に共にいることを望むほどに愛すべき子どもです。でも、私たちは、聖霊様の助けなしには、簡単に神様を疑い、見失ってしまいます。聖霊様は、そんな私たちに神様の愛を思い起こさせ、私たちが神様を親しく信頼できるように助けてくださる方です。


話し合いのために

1)聖霊様に導かれるために私たちにできることは何でしょうか?
2)私たちは神様の子どもとして、どんな特権や責任を持っていますか?


子供たちのために(保護者のために)

世の中には色々な家族の形があり、「父親」に対する感情も様々なので、神様を無理に「お父さん」と呼ぶ必要はないと思います。でも、大人は誰もがかつては子どもだったのであり、子どもは大人の助けなしには生きられない存在であることは誰でも経験済みです。神様は私たちをご自分の子どもとして、私たちが困ったときに助けてくれ、嬉しいときに一緒に喜んでくれ、間違ったときにはちゃんと分かるように教えてくれる、「良い大人」と言えるかもしれません。そんな「良い大人」=神様を、大人も子供も必要としていることを、子どもたちと一緒に話してみてください。