主の言葉を信じ 賛美を歌おう

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主の言葉を信じ 賛美を歌おう

詩篇 106

永原アンディ


A. 私たちは何のために集められたのか?(1-5,47,48)

105編同様に長い詩ですが、今回も毎日読める関連箇所を紹介する形でお話しします。

と言っても、忙しくてできなかったり飛ばしてしまっても、後ろめたく思わないでください。まず5節までと47、48節を読んでみましょう。

1 ハレルヤ 主に感謝せよ。 まことに、主は恵み深い。 その慈しみはとこしえに。
2 誰が主の力強い業を語り
主への賛美をすべて聞かせられようか。
3 幸いな者 公正を守り
どのような時にも正義を行う人は、
4 主よ、あなたの民に与える恵みによって
私を心に留めてください。
救いによって私を顧みてください。
5 あなたの選ばれた者の幸いを見
あなたの国の喜びを喜び
ご自分の民と共に
誇ることができるようにしてください。

47 我らの神、主よ、私たちを救い
国々から集めてください。
私たちはあなたの聖なる名に感謝し あなたの誉れを誇ります。
48 イスラエルの神、主をたたえよ
いにしえからとこしえまで。 民はこぞって言う。「アーメン、ハレルヤ」

105篇と同様に過去の歴史を思い返して主の恵みを覚えるための歌ですが、この詩では、取り上げる範囲は出エジプトの出来事から、バビロニアという強国に占領されて指導者たちがバビロニアに連れて行かれたバビロン捕囚がから解放される時までが描かれています。

何度も繰り返される神様に対する民の背信と、それでも民に救いの手を差し伸べる神様の憐れみが歌われています。

その一つ一つのエピソードには、私たちの罪深いキャラクターが、イスラエルの民の神様を悲しませた出来事として記録されています。

この歌の範囲で言えば、神様がそれでも民を何度も助けてくださったこと思い出して、占領されて周りの国々に散り散りにされていた人々を呼び返してくださいと願い、実現することを信じて神様をほめたたえることで終わります。

私たちもコロナで散らされているような状態です。最低限、配信を使って共に礼拝することはできていますが、家族としてベストの状態ではありません。

私たちは第一のこととして背景の異なるもの同士が集められて神の家族となり、声を合わせて心を合わせて主を礼拝するために呼ばれ、その声に応えた者たちです。

再びここに集められて共に主を礼拝できる時を待ち望んで、今はこのよう制限のある状態ですが、ほめたたえ礼拝を捧げてゆきましょう。


B. 私たちの正体

1. 月曜日 大きな恵みも忘れやすい私たち (6-12, 出エジプト14:11-15:21)

6 私たちは先祖と共に罪を犯し
過ちを犯し、悪を行った。
7 私たちの先祖はエジプトで あなたの奇しき業を悟らず
あなたの豊かな慈しみに心を留めず
海のほとり、葦の海で反抗した。
8しかし主はご自分の名のために彼らを救い
力強い業を示した。
9 主が葦の海を叱ると、それは干上がった。
主は彼らに、まるで荒れ野を行くように
深い淵を進ませた。
10憎む者の手から彼らを救い
敵の手から彼らを贖った。
11彼らを苦しめる者を水が覆い
生き残る者は一人もいなかった。
12彼らは主の言葉を信じ 賛美を歌った

出エジプトと呼ばれる出来事の中でビジュアル的に一番目立つのは、先々週のメッセージノートの写真のように海の水が二つに割れ、その間を通って民はシナイ半島に向かったところです。

解放されて喜んで意気揚々と行進していたイスラエルに、気持ちが変わったファラオの命令で、イスラエルの民を捕らえて連れ戻そうと背後に迫ってきたので民は混乱し、神様への信頼は吹き飛んでしまいました。

民はこんな目に遭うくらいなら、エジプトにいればよかったと文句を言い出しました。この性質はイスラエルの民に特有のものではありません。

主の大きな恵み・憐れみを実感し、感謝し、賛美しても、また似たような失敗を繰り返す私たちです。

しかし、ここが大事なのですが、神様はそれでも私たちを見捨てずに助けてくださるのです。


2. 火曜日:旅の始まり (12-15, 創世記17)

13 しかし彼らはたちまち主の業を忘れ去り
その計らいを待たず
14 荒れ野で激しい欲望を起こし
砂漠で神を試みた。
15 主は彼らの願いをかなえたが
彼らの魂を痩せ衰えさせた。
16彼らは宿営でモーセを
主の聖なる者アロンを妬んだ。
17「地が開いてダタンを呑み込み
アビラムの仲間を覆った。
18 火が彼らの仲間のうちで燃え上がり
炎が悪しき者を焼き尽くした。

火曜日は13-18節と民数記11,16:12-35です。この部分の出来事は民数記の11章と15章の出来事について歌っています。

私たちの物質的な欲望や、人に対する妬みは、簡単に私たちの心を主から引き離します。

そして一旦そのようになれば悪循環が加速して、私たちの魂は痩せ衰えます。


3. 水曜日 偶像礼拝に陥りやすい私たち (19-23, 出エジプト32章)

19 彼らはホレブで子牛を造り
鋳物の像に向かってひれ伏した。
20自分たちの栄光を
草を食む牛の像と取り替え
21自分たちを救った神
エジプトで大いなる業を行った方を忘れた。
22ハムの地で奇しき業を
葦の海で恐るべき業を行った方を忘れた。
23 主は言われた、「彼らを滅ぼそう」と。
しかし、主に選ばれたモーセは 主の前で破れ目に立ち
滅ぼそうとする主の憤りをそらせた。

水曜日は19-23節と出エジプト32章です。旧約聖書は偶像礼拝を厳しく禁止しています。このことが今の私たちに何を意味しているのでしょうか?

ある人々はそれが他宗教の宗教的な儀式に参加したり、神社やお寺に行ったりといった目に見える行為を指すと考え、仏教儀礼への参加を禁じます。

笑い話のようですが、日本式の挨拶(お辞儀)は相互偶像礼拝だからやめた方がいいといった宣教師さえいました。皆さんはどう思いますか? 

偶像礼拝とは神様以外のものを神様とする。神様でないものを神様の上位におくことだと思います。

お金や、人物や、聖書でさえ偶像礼拝の対象になりうると思います。


4. 木曜日 聞き従わない私たち (24-31, 民数記14:1-35, 25:1-13)

イスラエルはエジプトに入り ヤコブはハムの地に寄留した。主はその民を大いに増やし 苦しめる者たちよりも強くした。(23-24)24ところが彼らは愛すべき地を侮り
御言葉を信じず
25天幕でつぶやき
主の声に聞き従わなかった。
26主は彼らに向かって手を上げ
荒れ野で彼らを倒すと誓った。
27また、国々の間でその子孫を倒し
もろもろの地に散らすと誓った。
28彼らはバアルべオルに付き従い
死者に献げたいけにえを食べた。
29その行いは主を怒らせ
疫病が彼らの間に広がった。
30ピネハスが立って執り成すと
疫病は収まった。
31これは代々とこしえに
ピネハスの義と見なされた。

木曜日は24-31節と民数記14:1-35, 25:1-13です。目の前に見える状況が絶望的だったので、民は泣き叫びました(民数記13章を読むと経緯がわかります)。

そして、こんなとこに連れ出したモーセを責め、更には神様に向かって文句を言い始めます。

誤解しないでください。神様に向かって祈りの中で文句を言ってもいいのです。問題は、神様なんて信じなければよかった。信じないでいようと考えることです。

イスラエルの民にとってはその結果が民数記25章に基づく28-31節の出来事に表れています。


5. 金曜日 不安で不満を訴える私たち (32-39, 民数記20章)

32彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせ
それゆえにモーセに災いが起こった。
33それは彼らがモーセの霊に逆らったとき
モーセが唇で軽率に語ったからである。34彼らはもろもろの民を
主が命じたとおりに滅ぼさず
35諸国民と混じり合い
その行いに倣った。
36偶像に仕え
それらは彼らの罠になった。
37彼らは息子や娘を
悪霊どもに献げ
38罪のない血を流した。
カナンの偶像に献げた息子や娘の血
その血によって土地は汚された。
39彼らはその業によって汚れ
その行いによって淫らな者となった。

金曜日は32-39節と民数記20章です。32-33節が民数記20章に対応する部分です。困難と不安によって民だけではなくモーセまでも神様を信頼することができなくなっています。

コロナの時を乗り越える一番の力は神様への信頼です。

ところで34節以下は申命記の7章による部分です。どう受け止めていいのか困ってしまう箇所です。私たちの知っている憐れみに満ちた神様が、周りの民族に憐れみをかけてはいけない。滅ぼし尽くさなければいけないと言っているのです。

誤解は、どのような意味で聖書は神様の言葉なのか?を巡って生じます。

聖書の言葉は天からの声をそのまま聞き書きしたものではなく、時代や地域の中で言い伝えられた事柄が書かれた文章として確定したものです。

イエスは聖書についてこう言っています。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ 5:39 )

イエスは聖書についてこう言って

聖霊が人々の心に働きかけ、口伝え、筆記、編集、正典の確定、各国語への翻訳のプロセスを導いたものとしての聖書がここにあるのです。

つまり。そのプロセスの中に、ジュノサイトまで神様に命じられたという人間の側の自分勝手な誤解、本来なら神様の意図ではなかった事柄が混入している文章であっても、聖霊の助けを借りて神様の意思を受け取ることができるという意味で聖書は神の言と言えるということです。


6. 土曜日 何度も失敗を繰り返す私たち (40-48, エズラ記9:1-9)

40主の怒りがその民に向かって燃え上がり
主はご自分の民を忌み嫌った。
41主は彼らを国々の手に渡し
彼らを憎む者らが彼らを支配した。
42彼らは敵に虐げられ
その手の下に屈服した。
43主は幾たびも彼らを救い出したが
彼らはたくらみを抱いて反抗し
自分たちの過ちによって没落した。
44それでも、叫びを聞かれたとき
主は彼らの苦しみを顧み
45彼らのために契約を思い起こし
豊かな慈しみにふさわしく満れみ
46彼らをとりこにした者が皆
彼らに満れみを示すようにした。
47 我らの神、主よ、私たちを救い
国々から集めてください。
私たちはあなたの聖なる名に感謝し あなたの誉れを誇ります。
48 イスラエルの神、主をたたえよ
いにしえからとこしえまで。 民はこぞって言う。「アーメン、ハレルヤ」

土曜日は40-48節とエズラ記9:1-9です。何度でも失敗し、そのたび憐れみによって救われるのに、また別の失敗を繰り返す私たち。そしてこの繰り返しは今でも続いています。

聖書を文字通り読むべきと言われますが。今までもお話ししてきたようにそれは正しくありません。長い歴史を経て口伝えで伝わり編集を経て下の聖書ができ、それをまた私たちが読めるように翻訳されたものです。解釈には幅があるのです。

聖書の言葉をコンテキストから抜き出して、パッチワークのように繋げればどんなことでも聖書が言っていると言えてしまいます。

かつてそのようにして、奴隷制度も、女性差別も、人種差別も聖書が支持していると主張されました。

しかしそのような乱暴な聖書の読み方ではなく、より正確な受け取るためにイエスの言葉にヒントを求め、その愛に即して正邪を判断することによってキリスト教は聖書の記述に起因する差別性を、人種差別、性差別において克服してきました。

しかし今も、聖書の表面的な読み方によって傷つけられている方々がいます。

LGBTQ=性の自認および性の指向性における性的少数者です。

私たちはどのような性自認、性指向の人であっても、偏見を持たず、神様が「あなたは私の目に高価で尊い」と見られていることを忘れずに愛し合い、神様の愛を求めて歩んでいきましょう。

(祈り)

神様、あなたは私たちの弱いところ、あなたを悲しませやすい性質をよく知っておられます。あなたには何も隠し事はできません。

わたしたちを憐んでくださいとしかいう資格のない私たちに、子供として私の周りにきなさいと言ってくださる、あなたの愛を、憐れみを心から感謝し、あなたに礼拝を捧げます。

今のこの時も、病に、飢え渇きに、貧困に、差別に苦しむ、私たちの周りにいる、そして世界中にいる人々を憐れみ助けてください。

私たちがあなたの手、あなたの足となってあなたの働きの一部とされますように、私たちに必要な力をお与えください。


メッセージのポイント

旧約聖書は直接私たちに向けられて書かれたものではないので、全く実状にそぐわない箇所があります。中には、今日のテキストのようにイエスの教えとは正反対であることまで書かれています。神様はそのような書をご自身を紹介する文書として認められました。しかし現実の社会とイエスの言動とを考えながら読むことによって、21世紀の私たちにも生き方の指針を与えてくれます。


話し合いのために

1)イスラエルの神に対する態度から何を学びましたか?
2)「周辺民族を滅ぼせという命令」をどう理解しますか?


子供たちのために(保護者のために)

子供たちと一緒にメリバの水(民数記20章1-13)のエピソードを読んで、感想を聞いてみてください。一つの結論に導く必要はありませんが、親の感想も子供達にわかりやすく伝えてください