天に手を伸ばす私たちと、隣で手を差し伸べる神様 

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天に手を伸ばす私たちと、隣で手を差し伸べる神様

ローマの信徒への手紙 9:30-10:13

池田真理


 今日から久しぶりにローマ書のシリーズに戻ります。クリスマス前に「神様の選び」というテーマでお話ししましたが、このテーマはローマ書11章まで続いていて、今日読んでいく10章もその中にあります。今日読んでいくローマ書10章の前半は、神様の選びを自ら拒む人間の側の問題を取り上げています。神様は私たちに手を差し伸べているのに、私たちの方でその手を無視して、全然違う方に手を伸ばしている問題です。まず、9章30節から10章4節まで読んでいきます。

A. 天に手を伸ばす間違い (9:30-10:4)

30 では、何と言うべきでしょうか。義を求めない異邦人が義、しかも信仰による義を得ました。31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。32 なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによって達せられると考えたからです。イスラエルはつまずきの石につまずいたのです。33 「見よ、私はシオンにつまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、恥を受けることがない」と書いてあるとおりです。1 きょうだいたち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。2 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心さは、正しい知識に基づくものではありません。3 なぜなら、彼らは神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。4 キリストは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです。

1. 自分の力で神様に愛されようとする

 このローマ書を書いたパウロはユダヤ人で、彼の時代の多くのユダヤ人がイエス様を信じようとしないことをとても嘆いていました。パウロによれば、当時のユダヤ人の多くは、律法という掟を守り、ユダヤ人として正しい生活を送らなければ、神様に愛してもらうことはできないと考えていました。当時のユダヤ教の指導者たちが、そのように教えていたからです。それはその指導者たちの大きな間違いだったのですが、人間なら誰もが陥りやすい間違いです。

 私たちは、努力すれば正しい人間になれると思いがちです。その結果、正しい人間になれないのは努力が足りないからだと考え、絶望的な努力と競争を続けます。そして、神様に愛されるためにも、相応の努力が必要だと考えます。神様に「義」と認められる、つまり、神様に正しいと認められて愛していただくためには、自分の力で自分は正しい人間であることを証明しなければいけないと考えます。それは大きな間違いです。私たちは誰も、自分の力で神様に正しいと認められることはできないからです。努力して正しい生き方をしようとすることは、一見、何も悪いことのようには思えませんが、実はそこに、自分は努力すれば正しい人間になれるのだという、私たちの思い上がりが隠れています。

 パウロの時代のユダヤ人の多くがそうだったように、私たちも、遠くに神様を求めて、間違った方向に一生懸命になっていないでしょうか。自分の力に頼ることをやめなければ、私たちは近くにいる神様に気が付くができません。

(2. パウロによる旧約聖書の自由な解釈)

 実は、パウロはこのことをユダヤ人に説明するために、旧約聖書をとても自由に解釈して、33節に引用しています。それも、ただ引用するのではなく、イザヤ書の2箇所を1つにまとめて、大胆に言葉を変えてしまっています。これは、私たちが旧約聖書を読むときにも見習えることです。勝手に言葉を変えてしまっていいわけではありませんが、旧約聖書を読むときには、いつもイエス様の視点を持って読まなければいけないし、そのように読んでいいということです。詳しいことは、今ここでは時間がかかってしまうので省略しますが、興味のある方は後で教会のウェブサイトの原稿を読んでみてください。(以下)

(33節でパウロが引用しているのは、イザヤ書8:14と28:16です。

33 「見よ、私はシオンにつまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、恥を受けることがない」と書いてあるとおりです。

イザヤ8:14

主は聖所となる。
だが、イスラエルの二つの家にとっては
妨げの石、つまずきの岩となり
エルサレムの住民にとっては網と罠となる。

イザヤ28:16

見よ、私はシオンに一つの石を据える。
これは試みを経た石
確かな基礎となる貴い隅の親石。
信じる者は、慌てることはない。

パウロの時代、イエス様は、信じる者にとっては大切な「隅の親石」だが、信じない者にとっては「妨げの石、つまずきの岩」である、という表現が広く知られていたようです。(1ペテロ2:6-8)それはこのイザヤ書の2箇所を元にした表現だったので、パウロはローマ書を書くときに、その2箇所を正確に引用するよりも、自由に言い換えてしまって問題ないと思ったのだと考えられます。ここでパウロが言おうとしていたのは、イエス様を信じないユダヤ人はイエス様というつまずきの石につまずいたのであり、そのことは旧約聖書ですでに預言されていたのだと、ということです。それは、神様の選びは民族や血統によらないということを、改めて旧約聖書に基づいて説明するためでした。)

 それでは先に進みたいと思います。まず5−8節です。

B. 神様は隣で手を差し伸べてくださっている
1. 人の驕りと神様の忍耐 (5-8, 申命記9:4-6; 30:11-14)

5 モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う者は、その掟によって生きる」と書いています。6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で、『誰が天に上るだろうか』と言ってはならない。」それは、キリストを引き降ろすことです。7 また、「『誰が底なしの淵に下るだろうか』と言ってはならない。」それは、キリストを死者の中から引き上げることです。8 では、何と言っているでしょうか。「言葉はあなたのすぐ近くにあり/あなたの口に、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。

 ここでもパウロは、ユダヤ教の伝統的な解釈を破って旧約聖書を自由に言い換えています。ここの引用は主に申命記からで、6−7節にある「心の中で〜と言ってはならない」という言い方は、申命記9章の引用です。読んでみましょう。

4 あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「私が正しいから、主が私を導いてこの地を所有させてくださった」と考えてはならない。むしろ、この諸国民が悪かったから、主はあなたの前から彼らを追い払われるのだ。…6 だからあなたは、自分が正しいから、あなたの神、主がこの良い土地を所有させてくださるのではないことを知りなさい。あなたは、実にかたくなな民なのだ。(申命記9:4-6)

神様が私たちに恵みを下さるとき、自分が正しいから神様が恵みをくださったのだと考えてはいけない、と言われています。旧約聖書の時代から、神様の選びというのは、人間の行いの良し悪しによるものではなかったのだということです。

 では、メインの引用元の申命記30章11-14節を読んでみましょう。

11 私が今日命じるこの戒めは、あなたにとって難しいものではなく、遠いものでもない。12 それは天にあるものではないから、「誰かが私たちのために天に昇ってそれを取って来てくれるなら、私たちはそれを聞いて行うことができるのだが」と言うには及ばない。13 また、それは海のかなたにあるものではないから、「誰が私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来てくれるのだろうか。そうすれば、私たちはそれを聞いて行うことができるのだが」と言うには及ばない。14 その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる。(申命記30:11-14)

これを読むと、ローマ書の言葉遣いとはだいぶ違うことに気付きますが、まずはこの申命記の言葉の意味を考えておきたいと思います。この申命記9章が言っているのは、神様に従って生きることは、誰かに教えてもらわないと分からないような難しいことではない、ということです。そして、神様の教えはあなたの心に記されていて、それを知らないという言い訳はできないし、あなたにはそれを守ることができるはずだと言われています。これは、元々聖書の神様と親しみのない日本人にはあまりピンとこないかもしれませんが、聖書の神様を信じて従って生きるということは決して難しいことではなく、たくさんの規則を学んで守るようなことではない、という意味です。反対に、神様は遠い存在で神様の要求するルールは難しすぎて守れないと思うとしたら、それは神様を理解していないことを意味します。神様はもっと近い方なのです。

2. イエス様によって明らかにされた神様の「近さ」(5-8)

 それでは、パウロがこれをどのように自由に解釈しているのか、見てみましょう。まず単純な言葉の違いから見ると、申命記では「海のかなた」(beyond the sea)なのに、パウロは「底なしの淵」(into the deep)としています。これは、ユダヤ教の伝統の中で、この二つが同じような意味で使われていたことによります。「海のかなた」は地の果て、「底無しの淵」は地の底、というようなイメージです。

 でも、パウロがここで「底無しの淵」の方を使っているのには理由があります。申命記の言葉にイエス様を当てはめているからです。イエス様は、神様でありながら人となられ、天から地に来られ、私たちのために死なれ、死からよみがえられた方です。だから、神様は天高いところにおられるのでも、地の底におられるのでもなく、私たちの近くにおられる方なのだと、パウロは言おうとしています。

 そして、パウロはさらに、私たちは自分が天国に行けるように努力したり、地獄に堕ちないように努力したりする必要はないと教えています。6−7節をもう一度読みます。

「心の中で、『誰が天に上るだろうか』と言ってはならない。」それは、キリストを引き降ろすことです。7 また、「『誰が底なしの淵に下るだろうか』と言ってはならない。」それは、キリストを死者の中から引き上げることです。

イエス様を天から引き降ろし、死者の中から引き上げたのは、神様の意志でした。私たちが地獄に行かないで、天国に行けることが、神様の意志だったからです。だから、私たちに必要なのは、神様はそういう方であるということを信じることだけです。どうやったら天国に行けるのか、地獄に行かないですむのか心配することは、イエス様の十字架をなかったことにすることで、神様の憐れみを無視することです。イエス様は、はるか遠くの天から、私たちが自力で上がってくるのを待っているのではなく、自ら私たちの隣に降りてきて、私たちの弱さと罪を赦して、手を差し伸べてくださっています。だから、次のパウロの言葉に続きます。9-10節です。

3.  必要なのは「心で信じて、口で告白する」ことだけ (9-10)

9 口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10 実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。

 私たちに必要なのは、イエス様を心から信頼することだけです。私たちの間違いも弱さも、私たちが自分の力でどうにかできるほど、簡単なものではありません。悪いまま、弱いままで、イエス様に助けを求めることだけが、私たちにできることであり、実際それしか求められていません。

 ここで、「心で信じて、口で告白する」と言われていますが、これは直前の8節に引用されている申命記の言葉を受けたもので、あくまで焦点は「心で信じる」ことにあります。口で告白していなければ救われないという意味はありません。でも、改めて言う必要もないですが、言葉と行いは私たちの心を表すので、言葉と行いが伴わない信仰はないのと同じです。

 それでは、今日の結論部分、最後の11−13節です。

C. 全ての人を愛している神様 (11-13)

11 聖書には、「主を信じる者は、誰も恥を受けることがない」と書いてあります。12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。

 11節の引用は、33節で引用されていたイザヤ書の繰り返しです。ただし、「主を信じる者は誰も」と、元々のイザヤ書にはない「誰も」が加筆されています。これはパウロの意図的な加筆です。パウロが今日の箇所全体で言いたかったことが、これだからです。「主を信じる者は誰でも救われる」ということです。主にふさわしい正しい立派な人だけが救われるのではなく、主にふさわしくない者、弱い者、悪い者を愛してくださる主を信じる者が救われる、という意味です。そこには、私たち人間が勝手に作り上げた様々な壁、差別や偏見はなんの意味も持ちません。

 それでは、主を信じない者は救われずに、滅びるのでしょうか?その答えは、次回読んでいく箇所にあります。その1節だけを読みます。

「私は、不従順で反抗する民に、日夜、手を差し伸べた」(ローマ10:21)

神様は天高く遠くにおられるのではなく、私たちの近くから、全ての人に手を差し伸べ続けています。

(お祈り)主イエス様、あなたのことを自分の主と呼べる恵みをありがとうございます。どうか、私たちがあなたが自分の主(あるじ)であることを覚え、闇雲に助けを求めたり、どこにも助けはないとあきらめてしまうことのないように、助けてください。苦しみの中で動けないとき、あなたが一番近くで共に苦しんでくださっていることを知り、あなたと共に歩んでいけることを教えてください。あなたの手が差し伸べられていることに気付かせてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

私たちは、天国に行くための努力も、地獄に堕ちないための努力も、する必要はありません。イエス様が天から来られ、地獄から戻ってこられたのは、どんな人のことも愛して、隣にいたいと望まれたからです。私たちは自分の力で愛されようとしてしまいがちですが、それは、隣にいるイエス様を無視して、自分の力で天に届くことができるという驕りの裏返しでもあります。神様でありながら人となられ、私たちの代わりに苦しまれたイエス様は、私たちのすぐ近くで、いつでも手を差し伸べてくださっています。


話し合いのために

1. 私たちはなぜ自分の力に頼ろうとするのでしょうか?

2. 「信じる者は救われる」と「神様は全ての人を愛している」はどう両立しますか?


子供たちのために(保護者の皆さんのために)

今回のローマ書は旧約聖書の引用が多くて分かりにくいので、申命記30:11-14を読んでみてください。神様は、天高くや海のかなたにいる遠い存在ではなく、誰かを介さなければ知ることのできない方でもありません。神様は一人ひとりの心の近くにいたいと願われる方で、神様を信じるということはそんな神様を信頼すると自分で決めることで、何か難しいことをしなければいけないわけではありません。そんなことを子どもたちと話してみてください。