信じて、喜んで、あきらめない責任

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信じて、喜んで、あきらめない責任

ローマ 10:14-21, 使徒 2:43-47

池田真理


 今日は、ローマの人たちへの手紙10章の後半を読んでいきます。前回読んだ箇所の最後に、主を信じる者は誰でも救われる、と言われていて、それでは主を信じない者は滅びるのか、という問いが残されたままでした。この問いへの答えは「いいえ」です。生きている間に信仰を持たなければ地獄に行くという教えは、聖書にはありません。それでもなお、信仰を持つ人と持たない人の違いはどこにあるのかということは、聖書の時代も現代も関心が高いようです。このことについて、この手紙の書き手であるパウロは、今日の箇所から次の11章を使って説明しようとしています。パウロは一貫して、信仰を持たない人を一切責めることなく、むしろ先に信仰を持った人に対する警告をしています。先に信仰を持った人には、信仰を伝え続ける責任があるからです。でも、その責任というのは、今日の箇所を読んでいくと分かりますが、私たちが義務感からしぶしぶ果たすようなものではなく、私たちがそれを果たすことを喜びとできるようなものです。

 それでは少しずつ読んでいきます。まず14-15節です。

A. 信仰は「聞く」ことから始まる
1. 伝える人が必要 (14-15)

14 それでは、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」と書いてあるとおりです。

 当たり前のことですが、私たちは誰でも、誰かからイエス様のことを聞かなければ、イエス様のことを知ることはできません。神様は天高く遠くから私たちを見下ろしているのではなく、私たちのすぐそばに降りてきて、一人ひとりの人生を共に歩みたいと願われていることを、誰かから聞かなければ、神様がそんな方だとは知る由もありません。だから、先にイエス様のことを誰かから聞いて信じた私たちには、今度は自分たちがイエス様のことを他の人に伝えていく責任があります。

 ただ、この責任は、口でイエス様のことを説明することよりも、私たちの生き方全体を通して自然と果たされるべきものです。このことは後でまた出てくるので、今は次の箇所に進みます。16-17節です

2. 聞いても信じない人たちもいる (16-17)

16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、誰が私たちの知らせを信じましたか」と言っています。17 それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。

 これも当然のことですが、イエス様のことを聞いても、信じない人たちもいます。言い換えれば、私たちが自分の生き方を通してイエス様のことを伝えていても、やはり信じない人たちはいます。それがなぜなのかのヒントは、17節の「聞くことはキリストの言葉によって起こる」というところにあります。英語と日本語で少しニュアンスが違うことからも分かりますが、パウロがここで何を言いたかったのか定かではありません。でも、おそらく、イエス様のことを聞いて信じるということは、イエス様の言葉を自分に向けられたものとして受け取ることから始まる、という意味です。それは一人ひとりとイエス様の関係の中で起こることで、他人には介入できない、イエス様にしかできないことです。私たちはそのことを忘れず、肩の力を抜いて、謙虚に、あきらめずに、伝え続ける必要があります。

 18節に進みます。

3. パウロによる旧約聖書の拡大解釈 (18)

18 それでは、尋ねよう。彼らは聞かなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に/その言葉は世界の果てにまで及んだ」のです。

 ここでパウロが「彼らは聞かなかったのだろうか」と言っている「彼ら」とは、パウロと同時代のユダヤ人のことです。パウロは、この手紙を書くまでに、ローマ帝国中の人が、ユダヤ人も異邦人も全て、すでにイエス様のことを伝え聞いていると思っていたようです。当時の人にとってローマ帝国が世界の全てだったので、パウロもここで「その言葉は世界の果てにまで及んだ」という旧約聖書の言葉を引用しても、違和感がなかったのかもしれません。

 でも、これは、現代に生きる私たちにはちょっと当てはまりません。世界は広く、たとえ日本のようにキリスト教が伝えられた土地であっても、キリスト教が何を教えているのか聞いたことのない人はたくさんいます。だから、この18節は私たちにはあまり関係ないと思っていいと思います。

 ただ、肝心のパウロと同時代の人たちにとっても、この18節はあまり説得力がなかったんじゃないかと思います。旧約聖書の引用がかなり強引だからです。

 ここでパウロが引用しているのは詩編19:5ですが、詩編19篇の文脈はあくまで神様の天地創造のわざをたたえる歌です。自然界を造られた神様の栄光は地の果てにまで及んでいる、ということを歌っています。それに対して、パウロが言いたかったのは、イエス様の言葉は世界の果てにまで及んだということです。自然の素晴らしさから分かる神様の栄光と、イエス様の十字架という特別な出来事から分かる神様の愛というのは、別のものです。それを同じものとして解釈するのは無理があります。ローマ帝国が世界の全てだった、当時の国際感覚の限界による、強引な旧約聖書の拡大解釈だと言っていいと思います。

 それでは、後半に入っていきます。19-20節です。


B. 聞いても信じない人たちは滅びるのか?
1. 信じない人たちが信じる人たちを「妬む」とは (19-20, 使徒3:43-47)

19 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「私は、私の民でない者のことで/あなたがたに妬みを起こさせ/愚かな民のことで、あなたがたを怒らせる」と言っています。20 イザヤも大胆に、「私を求めない者に/私は見いだされ/私を尋ねない者に現れた」と言っています。

 パウロは、イエス様のことを聞いても信じない人たちがいることは、何も驚きではなく、旧約聖書で預言されていたことだ、と言おうとしています。そのために旧約聖書の引用をたくさんしているのですが、先に20節のイザヤ書の預言については、これは、異邦人が神様を信じるようになるということの預言です。神様に選ばれた民であるイスラエルの民、のちのユダヤ人ではなく、神様を知らないはずの外国人が神様を知って、信じるようになるという預言です。私たちは、イエス様の福音は民族や人種に関係なく全ての人に与えられていると知っているので、異邦人の信仰が預言されていると言われてもあまりピンときません。でも、この預言はこう解釈できます。誰がイエス様のことを聞いて信じるようになるのかは、私たちの想定を超えて、とても広いのだということです。
 次に、19節に戻って、引用されているのは申命記の言葉ですが、これもイザヤの預言と似ていて、異民族が祝福を受けることを言っています。ただ、イザヤの預言と違うのは、異民族が祝福を受けるのを見たイスラエルの民に妬みを起こさせる、と言われているところです。言い換えると、神様がご自分を信じる者たちを起こすのは、神様を信じない者たちに妬みを起こさせるためだ、ということです。つまり、イエス様のことを聞いても信じない人たちがいるのは、先に信じた人たちを彼らが妬むためなのです。パウロは、このことについて11章で再度触れていて、「何とかして私の同胞に妬みを起こさせたい」(11:14)と言っています。
 この妬みとは、どういう妬みなのでしょうか?ヒントに、使徒言行録2章の一部を読みたいと思います。

43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。44 信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。(使徒言行録2:43-47)

これは、生まれたばかりの最初の教会の様子です。聖霊様が豊かに働き、信者たちは物心共に支え合い、絶えず神様を礼拝していました。そして、それを見た人々は彼らを恐れ、また同時に好意を寄せた、とあります。私は、これがパウロの言う、信じない人が信じる人に抱く「妬み」だと思います。

 逆に言えば、先に信じた私たちはまだ信じていない人に妬まれるような生き方をしなければいけないということです。それは、決して立派な生き方をしなければいけないという意味ではなく、最初の教会の人々のように、聖霊様の働きに頼り、互いに助け合い、絶えず神様のことを喜んでいるという意味です。それも、人に見せるためのパフォーマンスではなく、心から信じ、喜び、生き方の全てで神様を礼拝することです。イエス様が自らの命を捧げて私たちを愛してくださったように、互いに愛し合い、許し合い、全ての人に仕える生き方をするとも言えます。神様は、私たちを通して人が神様を信じるようになることを望まれて、私たちにその働きを委ね、責任を与えましたが、私たちがすべきことはただ、イエス様と共に生きることを自分自身が喜んでいることです。または、イエス様のことが分からなくなって喜べない時も、自分の弱さを隠さずに、聖霊様に助けを求めることです。

 19節のパウロの最初の問いかけは、「それでは、イスラエルは分からなかったのだろうか」でした。福音を聞いても信じない人は、福音を理解できなかったのだろうか、という意味です。この問いに対する答えが、ここまでお話ししてきたことなのですが、論点がずれていることに気づくと思います。パウロは、聞いても信じない人たちのことも神様は見捨てているのではなく、むしろ神様の計画の一部であると教えています。そして、神様は彼らのことを、先に信じた者たちに委ね、同時に、ご自分でも彼らに語りかけ続けています。最後の21節を読みます。

2. 神様は決してあきらめない (21)

21 しかし、イスラエルについては、「私は、不従順で反抗する民に、日夜、手を差し伸べた」と言っています。

 神様が愛する人々が神様に反抗するのは、旧約聖書の時代からずっと変わっていません。ここで引用されているイザヤ書もそうですが、旧約聖書全体が、「不従順で反抗する民に、日夜、手を差し伸べ」続けた神様のことを伝えているとも言えます。そして、イエス様を信じる決心をした私たちも皆、そんな神様にやっと気が付いて、差し伸べられた手を取ったにすぎません。一度信じても、またイエス様のことを忘れて、自分勝手に生きてしまうこともたくさんあります。でも、私たちは、イエス様を通して、神様は決して誰のこともあきらめずに手を差し伸べ続けているのだと知りました。だから、自分自身のことも、他の誰のことも、神様は決して見捨てないで愛し続けておられると、信じることができます。

 日本ではイエス様を信じていない人たちの方が圧倒的に多くて、私たちの周りもほとんどの人は信じていない人たちだと思います。神様は私たちにその人たちのことを委ねていて、私たちにはその人たちにイエス様のことを伝える責任があります。その責任とは、私たち自身がイエス様のことを信じて、喜んで、誰のこともあきらめない責任です。

(お祈り)主イエス様、今あなたの前で自分の弱さを隠しません。あなたを悲しませ、人を傷つけてきた私たちを、あなたは何度も赦し、あきらめないでいてくださいました。あなたのその憐れみの大きさを信頼して、少しでも周りの人にあなたの愛を伝えられるように、私たちを変えてください。自分の力に頼らずに、あなたの霊を頼ります。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

聖書は「主を信じる者は救われる」と教えていますが、「信じない者は滅びる」とは教えていません。反対に、先にイエス様を信じた者には、福音を伝え続ける責任があることを教えています。ただし、その責任とは、口でイエス様のことを説明することよりも、イエス様を信じて、イエス様と共に生きられることを喜んで、どんな状況でも希望をあきらめない生き方をする責任です。また、同時に、神様が誰のこともあきらめずに愛し続けておられることを信じる責任です。


話し合いのために

  1. 「聞いても信じない」人がいるのはなぜだと言われていますか?
  2. 19節で言われている「妬み」とは?

子供たちのために(保護者の皆さんのために)

日本ではイエス様を信じていない人たちの方が圧倒的に多くて、私たちの周りもほとんどの人は信じていない人たちだと思います。先にイエス様に出会った私たちには、その人たちにイエス様のことを伝える責任があります。でも、その責任というのは、口でイエス様のことを説明したり教えたりすることよりも、その人たちが私たちを見ていて「いいなあ」と思ってくれるような生き方をすることです。それは立派な生き方である必要はなく、苦しくてもイエス様を求める姿、弱さを隠す必要がないと知っていること、教会の仲間で支え合っていること、などです。私たち自身がイエス様のことを信じて、喜んでいることが、他の人にイエス様のことを伝える責任を果たすことになるのです。