神様が残してくださった信仰

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神様が残してくださった信仰

ローマ 11:1-12

池田真理


 今日からローマ書11章を3回に分けて読んでいきます。ローマ書は、この11章までが神学的な説明の部分で、12章からは信徒たちに向けた実践的なアドバイスに入ります。なので、この11章はいよいよ神学的な説明の結論です。(つまり、難しいのもあと一踏ん張りです。)早速読んでいきます。まず、1節から2節の最初の文章までです。

A. 神様を拒む人々の中でも
1. パウロ自身が一つの証 (1-2a)

1 では、尋ねよう。神はご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。私もイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けたりなさいませんでした。

 ここでパウロが言っていることは単純です。ユダヤ人の大半がイエスを信じる信仰に至っていないのは、神様が彼らのことを見限って見捨ててしまったということなのか、という問いに対して、そんなことはない、その証拠に生粋のユダヤ人である自分がイエスを信じているじゃないか、という反論です。

 現代に生きる私たちにとって聖書の神様というのは全ての人の神様ですが、パウロの時代には、まだまだユダヤ人という民族は特別な存在でした。それは、イエス様自身がユダヤ人として生まれ、イエス様の教えは全てユダヤ人が守り伝えてきた旧約聖書に基づいていたので、当然のことです。また、旧約聖書の時代にはユダヤ人が神様に選ばれた特別な民だったということは事実です。でも、イエス様は、当時のユダヤ人の偽善を批判し、神様は人を民族や血のつながりによって差別しないということを人々に教えました。それは、自分たちを特別だと思ってきた当時のユダヤ人には、なかなか受け入れられることではありませんでした。

 それでも、イエス様を最初に信じたのはイエス様と旅を共にした身分の低いユダヤ人たちであり、彼らを通して、イエス様を信じる信仰が民族を超えて伝えられていきました。多くのユダヤ人がイエス様を拒絶した中でも、神様は確かにまずユダヤ人にご自分の働きを委ねたと言えます。それは、旧約聖書を通してご自分のことを教えてきた神様が、実はイエスという一人の人としてこの世界に来られたのだということを理解できるのは、旧約聖書を守ってきたユダヤ人しかいなかったからです。

 続く2節の後半から6節を読んでいきましょう。

2. 旧約聖書の時代も今も (2b-6)

それとも、聖書がエリヤの箇所で何と言っているか知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。3 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。私だけが残りましたが、彼らは私の命を狙っています。」4 しかし、神は彼に何と告げているか。「私は、バアルに膝をかがめなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。5 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。6 恵みによるのであれば、もはや行いにはよりません。そうでないと、恵みはもはや恵みではなくなります。

 冒頭の「それとも、聖書がエリヤの箇所で何と言っているか知らないのですか」という言葉に、元ユダヤ教エリートだったパウロの誇りがにじみ出ていると思います。「エリヤの箇所」と言っただけで、パウロにはすぐに内容が思い出せたのだと思います。ちょっと嫌な奴だなと思いますが、そんなパウロだからこそ、旧約聖書の時代も今も、神様は何も変わっていないのだということを教えることができました。

 先ほども、旧約聖書の時代にはユダヤ人が神様から選ばれた特別な民だったと言いましたが、その旧約聖書においても、このエリヤの箇所もそうですが、神様に選ばれた民の多くが神様を拒み、少数の者だけが神様を信じ続けたということが繰り返し語られています。パウロは、それと同じことが今も起こっていて、多くの人がイエス様を拒んでいる中でも、神様は確かに少数の者を恵みによって選んで残してくださっている、と解説しています。

 私は、これは、クリスチャンがノンクリスチャンの世界で少数者として選ばれて残っているという意味ではないと思います。むしろ、クリスチャンの中で、教会の中で、神様に従っていると思い込んで実は神様を利用しているだけの人が多いという現実に関係していると思います。

 私たちが歴史の授業で習うキリスト教の歴史は、良いことよりも悪いことの方が多いと思います。でも、いつの時代も、教会を改革する人たちが現れました。また、そういうリーダーたちの裏には、歴史に名が残っていなくても、真にイエス様の愛の実現を求めて生きた人々がいたはずです。そういう人たちが、エリヤの箇所で言われている、神様が「自分のために残しておいた七千人」です。

 私たちは、神様がそのように残してくださった人々を通して、信仰を受け継がれてきました。そして、私たちも同じように受け継いでいくことを期待されています。

 後半に入っていきましょう。まず7-8節です。


B. 神様を拒む人々のために
1. 拒む理由:神様の意志 (7-8)

7 では、どうなるのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。8 こう書いてあるとおりです。「神は、彼らに眠りの霊/見えない目、聞こえない耳を与えられた/今日に至るまで。」

 ここからは、ローマ書9章から始まった、「なぜ人は神を信じようとしないのか」という問題に戻っていきます。ヤコブとエサウ、イサクとイシュマエルの話を覚えている方は、あれを思い出していただくと分かりやすいかもしれません。

 先に結論をお伝えすると、人が神様を信じない理由は二つあります。一つは、それが神様の意志だから、ということ。今読んだところでも、9章からも繰り返し言われてきたように、神様は一部の人の心をかたくなにされます。8節で言われている「神は彼らに見えない目と聞こえない耳を与えられた」ということは、元々旧約聖書(申命記とイザヤ書)にありますが、イエス様ご自身もこれを引用して人々に教えられたということが新約聖書の福音書(マタイ、マルコ、ヨハネ)に記録されています。人の心を神様に向けて開かせることができるのは、神様ご自身だけだということです。なぜ神様が人の心を閉じたままにさせるのか、開いてくださらないのかは、私たちには分かりません。でも、9章から学んできたことは、決して神様がその人たちを見捨てたからでも、滅ぼすつもりだからでもなく、人間には分からない神様の計画によるものだということです。

 それでは、人が神様を信じないもう一つの理由の方ですが、これは前々回の10章の前半でも出てきました。自分の力で神様に届くことができると思い込んで、隣にいる神様を無視する人間の問題です。自分を神にするという、人間の罪の問題です。続きの9−10節に進みます。

2. 拒む理由:人間の罪 (9-10)

9 ダビデもこう言っています。「彼らの食卓が/彼ら自身の罠となり、網となるように。つまずきとなり、報いとなるように。10 彼らの目が曇って見えなくなるように。彼らの背をいつまでも曲げておいてください。」

 これは詩編69篇の言葉で、ダビデが自分を苦しめる敵が滅びることを願って、神様に訴えている詩です。パウロがここでこれを引用したのは、彼自身がイエス様を信じないユダヤ人たちから苦しめられていたことと無関係ではないと思います。さっきのエリヤの箇所の引用にしても、エリヤの言葉には、人に理解してもらえない預言者の孤独や、敵に命を狙われる恐怖が表れていますが、それはパウロ自身のものでもあったのかもしれません。自分に都合の悪い人を排除するために悪意を持って人を攻撃する人たちがいるという現実を、パウロはよく知っていたということです。そして、それはダビデも同じで、旧約聖書の時代から変わらない人間の罪の現実でした。

 さらに踏み込んで言うと、この詩編69篇は、十字架に架けられたイエス様にも結びつけられる詩です。イエス様が十字架で死なれたのは、私たち全ての罪を償うためでした。エリヤの敵もダビデの敵もパウロの敵も、時代はもちろん違いますし、具体的な状況もそれぞれ違いますが、本質的には全て同じ理由で彼らを苦しめた人たちです。本当の神様を畏れず、神様を都合よく利用して自分の主張を正当化し、自分に反対する者を排除しようとする、自己中心性という罪です。この罪の性質を持たない人間は存在せず、今の時代の私たちも、互いの罪が悪意となり暴力となって、苦しめ合っています。

 ですから、人が神様を信じようとしない理由は、それが神様の意志である場合と、人間の罪による場合と、両方あります。その二つをどこで切り分けるのかは、とても難しいことで、人間には分からない、神様にしか分からないことだと思います。

 でも、イエス様が人間を罪から救うために十字架で死なれたという事実は変わりません。私たちと神様を隔てるのは私たちの罪ですが、イエス様はもうそこに罪の赦しという橋をかけて来てくださったのであり、私たちはただ隣に来られたイエス様の手を取るだけです。それは誰にでも開かれている可能性です。

 パウロも、ここで、自分を苦しめる敵が本当に滅びることを願っていたわけではありません。それは次回から読んでいく続きの箇所でよく分かりますが、最後に、冒頭の11-12節だけ読んでおきたいと思います。

3. 神様は罪人を救う方 (11-12)

11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたのは、倒れるためであったのか。決してそうではない。かえって、彼らの過ちによって、救いが異邦人に及びました。それは、彼らに妬みを起こさせるためです。12 彼らの過ちが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。

 前回出てきた「妬み」がまた出てきました。つまり、今「彼ら」が神様を拒んでいるのは、先に神様に信仰を与えられた者たちを通して、彼らがやがて信仰を持つようになるためである、ということです。そして、神様を拒んでいた者たちが皆神様を求めるようになったら、それはどんなに素晴らしいでしょう、と言われています。かつて自分自身がキリスト教徒を迫害する者だったパウロは、イエス様の罪の赦しと愛が、自分を苦しめる者にも向けられていると、確信できたのだと思います。

 信仰は、私たちが自分の力で手に入れるものではなく、神様が与えてくださるものです。旧約聖書の時代から現代に至るまで信仰が受け継がれてきたのは、どんな時代もどんな社会でも、神様が人に信仰を残してくださったからです。自分を神様にして本当の神様を排除しようとする私たちの罪の性質はなかなか無くなりませんが、それ以上に、罪人を憐んで救ってくださる神様の恵みは、尽きることなく私たちに注がれています。

(お祈り)神様、どうか私たちの心にあなたを求める確かな信仰を与えてください。あなた以上にいつも変わらない、永遠に続く価値のあるものはないのだと、教えてください。私たちがむなしいものを追いかけ続けることのないように、私たちをあなたの愛に引き寄せてください。私たち全てのために命を捧げてくださった主よ、どうかあなたと共に、終わりの日までずっと共に歩ませてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

信仰は、私たちが自分の力で手に入れるものではなく、神様が与えてくださるものです。旧約聖書の時代から現代に至るまで信仰が受け継がれてきたのは、どんな時代もどんな社会でも、神様が人に信仰を残してくださったからです。自分を神様にして本当の神様を排除しようとする私たちの罪の性質はなかなか無くなりませんが、それ以上に、罪人を憐んで救ってくださる神様の恵みは尽きることなく私たちに注がれています。

話し合いのために
  1. 信仰を持たないのは、神様の意志によりますか?人間の罪によりますか?
  2. 信仰を受け継いでいくために、私たちににできること・できないことは何ですか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

 神様が正しいことはよくわかります。しかし私たちは自身の正しさに自信がありません。 それは当然のことで、そこに自信を持つなら、間違いを犯し続けることになります。 神様は、私たちを正しくないままで、しかし正しい者としてこの礼拝の場に招いてくださっています。

 イエスの出来事によって、私たちは正しくないままで正しい者とされたのです。正しい者とは、自分は正しい判断をできないことがある者と自覚しながら、できるだけ神様の意思を聞き、行いたいと思う者のことです。