慈しみはとこしえに

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慈しみはとこしえに

詩編 118編

永原アンディ


 詩編118編は前回と対照的に長い詩です。そこで提案ですが、今週は今日から少しづつこの詩を自分で読んで、黙想し祈る短い礼拝を毎日持ってみませんか? そこで今日はそのための導きとなる説明をしようと思います。

 まずこの詩全体について知っていていただきたいことですが、この詩を含む113-118編は過越の祭りの食事の時に、一連の祈りとして歌われていたそうです。 ということは、イエスと弟子たちが最後の晩餐の時に歌った(マルコ14:26,マタイ26:30)のも、これらの歌であったと考えられます。 そこには、神様はどのようなお方か (113)、その神様は民を苦難から解放される方 (114)、その神様に苦難の中でも信頼を失わない民 (115)、その苦難と信頼の具体的な様子 (116)が描かれていて、117,118で賛美と信頼の告白がなされます。

 神様がモーセが用いてイスラエルをエジプトから解放した出来事は、イエスが十字架によってわたしたちを罪から解放してくださったことをよく理解するための助けとなります。それでは月曜日の箇所を読みましょう。

5/30(月) 慈しみはとこしえに

1 主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。慈しみはとこしえに。
2 さあ、イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。
3 さあ、アロンの家は言うがよい。慈しみはとこしえに。
4 さあ、主を畏れる人々は言い放て。慈しみはとこしえに。

それぞれの節の前半をリーダーが歌い、全体が「慈しみはとこしえに」と繰り返し応えて歌ったと考えられています。歌うのは記憶するためです。
「慈しみはとこしえに」 真実なのに、ちょっと何かあると忘れてしまうわたしたちです。だからこそ私たちも繰り返し歌いましょう。

5/31(火) 主こそ味方

5 苦難のただ中から私は主を呼んだ。主は答えて、広い所に私を解き放った
6 主こそ味方、私は恐れない。人間が私に何をなしえようか。
7 主こそ味方、私を助ける方。私は、私を憎む者らを見下す。
8 主のもとに逃れるほうが人間に頼るよりもよい。
9 主のもとに逃れるほうが諸侯に頼るよりもよい

苦難の中で主を呼んだ経験がありますか? 神様に頼るべきところを他の人を頼りにして、残念な思いをしたという経験はありませんか? 

「主こそ味方」を実感するためには、第一に主を呼ぶことです。人も国もわたしたちを守ることはできません。わたしたちを守ることができるのは主だけです。

6/1(水) 主の名によって

10 国々はこぞって私を包囲したが 主の名によって私は必ず彼らをしのぐ。
11 私を幾重にも包囲したが 主の名によって必ず彼らをしのぐ。
12 蜂のように私を包囲し 茨の火のように燃え上がったが 主の名によって必ず彼らをしのぐ。
13 私は激しく突かれて倒れそうだったが 主が私を助けてくださった
14 主こそ私の力、私の歌。 私の救いとなってくださった。
15 歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く。 「主の右の手は力を振るう。
16 主の右の手は高く上がり 主の右の手は力を振るう。」

周りのほとんどの人々から理解を得られず、かえって非難の矢面に立たされるような最悪な状況に置かれた時のことを思い起こしてください。 前日の部分で、まずするべきことはただ一つ主を呼ぶことと言いましたが、ここでは、主を呼んだ者が力を得て、「私は<主の名によって>勝利を得る」と宣言しています。

 私たちは主をその名、イエスで呼びます。今ではあまり意識されませんが、名前は単なるラベルではなく、その人のあり方全体を表すものと考えられてきました。聖書や本や説教を読むことも大切ですが、それ以上にイエスという名を呼ぶことが日常となっていることが大切なのです。

6/2(木) 主は私の救い

17 私は死なずに生き長らえ 主の業を語り伝えよう。
18 主は私を厳しく懲らしめたが 死に渡すことはなかった。
19 義の城門を開けよ。 私は入って、主に感謝しよう。
20 これこそ主の城門、正しき人はここに入る。
21 あなたに感謝します。 あなたは私に答え 私の救いとなってくださった。

 最初の「 私は死なずに生き長らえ主の業を語り伝えよう。」は、詩人が平穏な日常の中でもっと長生きしたいといっているのではなく、いつ取り去られてもおかしくない状況の中でそう言っていることに気を付けてください。その厳しい状況は、イスラエルが神様に背いて歩んだ結果、もたらされたものでした。

 自分の失敗を悔い、状況を悪くしてしまった責任を感じ、打ちのめされている者にも主は扉を開いてくださいます。 そしてその門が「正義の扉」であることに心を留めましょう。 主の正義と愛は一体です。正義のない愛は偽りで、愛に欠けた正義は正義とは言えません。 主の愛を求めるなら、主の正義を求めざるを得ないのです。

「義の城門を開ける」ということは、それを求めて歩みを進めるということです。その先には感謝して受け取ることのできる未来があります。

6/3(金) 隅の親石

22 家を建てる者の捨てた石が隅の親石となった。
23 これは主の業 私たちの目には驚くべきこと。
24 今日こそ、主が造られた日。これを喜び躍ろう。
25 どうか主よ、救ってください。 どうか主よ、栄えをもたらしてください。

 この部分をイエスご自身が取り上げて、ご自身について教えられています。(マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17)

 イスラエルにとっては民族自体が、神様の計画のなかで、捨てられたが再び用いられた隅の親石であるとの理解がありましたが、ユダヤ教の中ではアブラハムやダビデに当てはめて、義人(正しい人)の典型として考えられてきました。

 イエスは暗に自分を指して、この言葉を用いたので、宗教家たちの反感を買い、十字架につけられてしまいましたが、実際にその言葉通り、イエスは私たちの人生を城壁に例えるなら、それを取り去れば全てが崩れてしまう大切な親石となってくださったのです。

6/4(土) 礼拝・祝福・感謝

26 祝福あれ、主の名によって来る人に。 私たちは主の家からあなたがたを祝福する。
27 主こそ神、主が私たちを照らす。 祭壇の角のところまで枝を手に祭りの行列を組め。
28 あなたは私の神。あなたに感謝します。 わが神よ、あなたを崇めます。
29 主に感謝せよ、主は恵み深く その慈しみはとこしえに。

 土曜日は、みんなで共に捧げる礼拝の前日、皆さんはどんな気持ちで過ごしていますか? ここを読む時、神様がわたしたちを礼拝に招いておられることを強く感じます。 来て祝福されなさい、光を受けなさいという招きです。

 ユダヤ教の神殿の祭壇は動物をいけにえとして献げる台で四隅に角がありました。 角には罪の赦しのためにいけにえとされた動物の血が塗られました。 そのすぐ近くまで行列を作って来なさい、と呼びかけられています。

 私たちにとっては、イエスの十字架の真下にまで来なさいという招きでしょう。どうぞ真剣に受け取ってください。

(祈り)この詩を通して、あなたが人々に、やがてくるメシア、イエス・キリストとして来られることを予告しておられたことがわかりました。

 主よ、あなたご自身が、全ての人の人生を支える隅の親石であることを打ち明けられ、そのために十字架につけられるまでして、わたしたちを愛してくださったことをありがとうございます。

 私たちが、辛い時、悲しい時、苦しい時でもあなたを呼ぶことを忘れずに歩み続けることができるように助けてください。 私たちは、他の誰にでもなくあなたの名を呼び、あなたの導きを求めます。感謝して、期待して、主イエスキリストの名前によって祈ります。


メッセージのポイント

イエスを主・神と信じる者にとっては、旧約聖書はイエスをより深く知るための書です。直接イエスは登場しませんが、預言として、類比的にイエスの存在や言動を指し示しくれます。新約聖書の著者たちはもちろん、イエスご自身もこの詩編の「隅の親石」をご自分のこととして説明されました。

話し合いのために
  1. 隅の親石とは何ですか?
  2. 主を呼び求めた時の経験をシェアしてください。 
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

子供がいる家庭では、この礼拝を子どもと共に捧げてみてください。共に読み、感想を聞き、話し合い、祈りあってください。