ד (ダレト):私たちの道としての律法

James Tissot, Public domain, via Wikimedia Commons

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ד (ダレト):私たちの道としての律法

シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 4/22
詩編119:25-32

永原アンディ


 律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズ4回目は、4つ目の段落、各行の初めにヘブライ語のアルファベット4番目の字、ダレトが置かれた25-32節です。ダレトは、別の説もありますが、扉(ヘブライ語: דלת delet)を描いた文字に由来すると言われています。
 
 今日の箇所では道 (Way, Path) という表現が繰り返し使われていることに気付かれたと思います。道は、新約聖書でもよく用いられる表現です。たとえば、イエスご自身が私たちの歩むべき道であるとご自身を紹介されました。ここでは、その道を歩むようにと神様に勧められている私たちの人生の歩みを指して用いられています。

1. 私たちが神様に求めるべきこと (17,18)

 初めに28節までを読みます。

25 私の魂は塵の中に伏しています。
あなたの言葉 どおりに私を生かしてください。
26 私の道を語ったとき
あなたは答えてくださいました。
あなたの掟 を教えてください。
27 あなたの諭し の道を悟らせてください。
私は奇しき業を思い巡らします。
28 私の魂は悲しみのあまり溶けてしまいそうです。
あなたの言葉 どおりに私を立ち上がらせてください。

「魂が塵の中に伏している」というのは、最低の状態に置かれているということです。大きな困難に、前を向くことも、起き上がることもできない状態に置かれている様子です。皆さんにはそのように思われた時があったでしょうか?しかし、皆さんは今ここに、神様の前に進み出て共に礼拝を捧げています。それは、そのような時を乗り越えさせて下さった神様が招いて下さったからです。あるいは、まだとても乗り越えたなどとは言えない状況に置かれている人もいると思います。しかし、皆さんはこの詩人と同様に、この部分に書かれている大切なことを知っています。それは、神様がかけてくださる言葉が私たちを生かし、立ち上がらせて下さるということです。私たちがこれ以上歩み続けることができず、足を止め道端に身をかがめてしまった時、イエスは近づき、あのサマリア人(ルカ10:30-37)のように命を救い保護し、快復するための機会をくださる方です。

人生という道の歩みが頓挫した時、私たちの神、主であるイエスに助けていただくために必要なことはただ一つです。それを、ここでは「自分の道を語る」と表現されています。福音書の中に、自分の道を語って、確かな救いを得た人がいます。

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 そこに、ザアカイと言う人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 (ルカ19:1-10)

イエスは、ザアカイの「財産の半分を施す」とか「四倍にして返す」という太っ腹な申し出に感心して彼を赦したのでしょうか?そうではないと思います。むしろ、ポイントは<自分は人から騙し取ってきた>という告白です。ただ気をつけていただきたいのは、自分の罪を告白したから赦される、黙っていたら赦されないというような単なる手続的なものではないということです。ザアカイは大金持ちで、有名人で、しかし嫌われ者、罪人と蔑まれていて孤独な人でした。イエスは最初からこの人と友達になるつもりで声をかけたのです。反省させるためではありません。ただ彼を憐れみ親しくなろうとなさっただけです。しかし、ザアカイはイエスに言葉をかけられて、自分がどのような人間かがわかり、目の前にいるイエスが自分の人生を素晴らしいものに変えてくれることがわかり、自分が何をしたいかがわかり、それをイエスに申し出たのです。イエスに求められたからの罪の告白でも、救われるための代価の提案でもありません。 救いはこのようにして私たちに実現するのです。

 ザアカイがその後、どのような人生を歩んだのかは残念ながら聖書には書かれていません。ですからこれは私の想像に過ぎませんが、27節に書かれているように、彼は困難にぶつかるたびに、彼にとっての奇しき業=イエスの招き、赦し、友とされ、一緒に歩み始めた新しい人生を思い巡らして、ぬかるみが続くような時も歩み続けたのだと思います。

どうか、これらの言葉を忘れないでください。自分の魂が塵の中に伏しているような時も、悲しみのあまり溶けてしまいそうな時も、イエスは何度でも、あなたを生かし、立ち上がらせて下さる神様です。

2. 道を選ぶ (29, 30)

29, 30節をもう一度読みます。

29 偽りの道を私から遠ざけ
あなたの律法 によって憐れんでください。
30 私は真実の道を選び
あなたの裁き を私の前に置きました。

 人生は選択の連続です。数えきれないほどの選択の末に今があり、その中の一つでも違った選択をしていれば今の自分はいないし、今の人間関係もなかったでしょう。神を信じない人はそれを偶然と言い、あるいは運命と言うかもしれませんが、私たちは神様の備えて下さった真実の道と言いましょう。道には偽りの道と、真実の道があるのです。お話ししてきたように、それは戒め、言葉、掟、定め、律法などと言い換え可能なことです。偽りの言葉による歩みか、真実の言葉による歩みかということです。しかし、具体的な選択の一つ一つが、右は真実の道、左が偽りの道というようにはっきりしているわけではありません。決定的にまずい方向に向かってしまったとしても、神様はその先にリカバリーできる選択肢を与えてくださいます。何度失敗しても、最後の最後までチャンスを与えて下さる神様です。私たちが、選択し判断しなければならない時、人はどちらが「神のみこころ」かと迷い、間違うことを恐れます。しかし、その選択のどちらかそのものが「みこころ」なのではありません。「みこころ」とは、私たちの歩みの中で神様が語り続けられることばです。だから、より重要なのは、一つ一つの選択・判断ではなく、耳を澄ませ続けることなのです。ですから、どちらが「みこころ」でしょうと、牧師に聞いても分からないし、牧師がこれが御心だと言っても信用してはいけません。それは多分に牧師の願望です。

 耳を澄ませ続けましょう。一つ一つの判断が、神様の憐れみによって致命傷にはならないとはいえ、そのために払う犠牲は小さくはありません。そのためにユアチャーチは礼拝を中心に生きること、ミニチャーチでイエスを中心とした人間関係を築くことをしつこいくらいに勧めるのです。心からの礼拝を日々捧げ続けてほしい、ミニチャーチで互いに、生きているキリストの体であること感じながら歩んでほしいのです。これらのことが正しい選択に不可欠だからです。詩人は「偽りの道を遠ざけて、あなたの律法によって憐れんでください」と願います。それは詩人が、神様との親しい交わりなしに真実の道を選べるほど、賢くも強くもないことを自覚しているからです。そして、私たちもまた同様に、もっと神様ともっと互いに親しくなることを求めましょう。

3. 道を走る (31, 32)

次の部分を読んでみましょう。

31 あなたの定め に付き従います。
主よ、私に恥を負わせないでください。
32 あなたの戒め の道を走ります。
あなたが私の心を広げてくださるからです。

 道を走るという表現が新鮮ですね。実際、聖書の中では走るよりも歩むという表現が圧倒的に多く使われていますし、人生を道に例えて歩むではなく走るという表現を使っているのは、見落としてなければ、旧約ではここだけで、新約聖書ではパウロやヘブライ人への手紙の著者が、競争に例えて使っているだけです。
 子供は何かに興味を引かれると突然、走り出します。車を運転しているときに、飛び出してきてヒヤッとしたことがあると思います。私の年になると、気持ちだけが先に行って、足がついていけなくてもつれて転ぶので別の意味で危険なのですが、走りたくなる気持ちは大切だということを話しています。聖書を通して、誰かの話を通して心に入ってくる神様の言葉は、私たちの魂に足があったなら、自然に足が早くなり、走ってしまうくらい魅力的な道なのです。
それは神様が私たちの心を広げて下さる、自由にして下さるために備えて下さっている道だからです。

 だからと言って、わたしたちは何も旧約の律法規定にウキウキ・ワクワクしなければならないわけではありません。私たちがワクワクするのはイエスのこの言葉です。

あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。(ヨハネ13:34, 35)

私たちに与えられている律法の核心はここにあります。イエスは十字架の時が近づいて、いわば遺言のようにしてこうおっしゃいましたが、その後で自身と信じる者の関係をぶどうの木と枝に譬えて教えられたあと、もう一度繰り返されました。

これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。

世界中が互いに憎み合うのではなく、愛し合うということは大きすぎる夢ででしょうか?。イエスはそうは思われないでしょう。イエスの戒めがあるところに神の国があります。そしてそれは、イエスご自身がカラシダネに譬えられたように広がってゆくものです。ユアチャーチも神様に蒔かれた、ちっぽけな一つの種に過ぎませんが、互いに愛し合うという戒めによって喜びに満たされて進んでゆくのです。神の国の一部として、イエスの福音の一部として。

(祈り)

神様、あなたの道を歩むものとしてくださったことをありがとうございます。あなたが私に近づき、招き、赦して、ついてきなさいと仲間に加えてくださったことをありがとうございます。あなたが私を立ち上がらせ、歩みを支え、真理の道に進ませていて下さることをありがとうございます。私たちがあなたの戒めの根本を忘れず互いに愛し合うことを通して、あなたの栄光が表されることを願います。そのために、あなたからくる喜びで満たして、私たちを用いてください。主イエスキリストの名によって祈ります。

それでは今朝も、主に向かって声をあげ、心の耳を開き、神様とあなたが語り合う時間、ワーシップを始めましょう。


メッセージのポイント

律法の本質は神様の語りかけです。それは私たちに立ち上がり歩み出す力、正しい判断をする力、最後まで走り向く力を与えてくれます。イエスは新しい戒めだと前置きして「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われました。これが私たちの律法の核心です。イエスご自身の歩まれた道であり、私たちに求められている歩むべき道です。

話し合いのために
  1. 偽りの道/真理の道とはどのような道ですか?
  2. 自分の「道に戻る」「道を選ぶ」「道を走る」経験をシェアしてください
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

人生が長い道のりを歩くようなものであることを、まず理解させてあげてください。数年しか生きてこなかったのですから、年齢が低ければ低いほど理解しにくいとおもいますが、親や、祖父母にも子供時代があり、進学し、成人し、
就職しなどの歩みや、高速道路のような順風満帆や渋滞や、泥濘のような困難な時についてなど話してあげれば想像が容易になるでしょう。その上で、イエスの『私が道です」(ヨハネ 14:6)の言葉や、この詩の29,30節のことばから、たどるべき道がイエス様で、偽りの道に踏み出さないように、聖書を通して、教会(人々)を通して、イエス様の語り掛けを聞きながら、保護者自身が歩んでいることを伝えてください。