ח(ヘト) この地は主の愛に満ちている

Unsplashより、撮影 Laura Ockel

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ח(ヘト) この地は主の愛に満ちている

シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 8/22
詩編119:57-64

永原アンディ


 律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズ8回目は、8つ目の段落、各行の初めにヘブライ語のアルファベット8番目の字、“”が各節の初めに置かれた57-64節を取り上げます。今日の部分の特長は、祈り願う部分が少なく、過去の自身の歩みの確認や、決意に多くの部分を費やしていることです。 いつものように読み進めていきましょう。

1. 神様を「私の主」と言える特権 (57,58)

57 主は私の受ける分。
あなたの言葉 を守ると約束しました。
58 心を尽くして願い求めます。
仰せ のとおり、私を憐れんでください。

 冒頭から、「主は私の受ける分」という普段あまり使わない表現が出てきます。「遺産相続における私の相続分」と言えばわかりやすいでしょうか?「主人」は人間関係で言えば支配する側で、聖書に出てくる「奴隷とその主人」との関係なら、所有しているのは主人で、奴隷は所有されている者です。

 ところが神様との関係で、詩人は神様を自分のものと言っているわけです。それはイエスのことを考えればわかります。イエスは私たちを創られた神様なのに、私たちに仕えてくださる、対等な友のように扱ってくださる、私たちのために、死の苦しみも厭わなかった方です。

 対等ということは、私たちの方で神様との付き合い方を選べるということです。このことを意識していましたか?イエスはこうしなさいと強制しないのです。自分の意志で従うことも従わないこともできるのです。 それは、恐ろしいことでもあります。間違った方向に向かい、イエスからどんどん離れていってしまうこともあるからです。どうしたらイエスとの良い関係を保つことができるか?それはイエスをよく知ることです。

 例えば最近の電気製品は多機能で、それを十分使いこなすためには取扱説明書をよく読んで理解しなければ、それを使いこなすことは不可能です。 聖書は神様のトリセツというと失礼ですが、神様との付き合い方の説明書とは言えるでしょう。 だから、神様としっかりと結ばれて歩みたいと考えた詩人は、その言葉を守ると決心しました。しかし、自分の力でそのことを続けることは困難なことも知っていたので 「心を尽くして願い求めます。仰せのとおり、私を憐れんでください。」 と言っているのです。 それでもわたしたちは間違った方向に突き進んでしまい、しばらくわからないことがあります。詩人もまた同じでした。

次の部分を読んでゆきましょう

2. 間違っていたら方向転換できる (59,60) 

59 私は自分の道を思い返し
あなたの定め の方にきびすを返しました。
60 私は速やかに、ためらわず
あなたの戒め を守ります。

 詩人はかつて、自分の歩みが間違ってしまっていたという経験を持っていました。やがてそれに気づいた時、彼は何をしたのでしょうか?

 この部分の表現も難しい言葉を使っていますが、「踵を返す」は方向転換するということです。神様は私たちが失敗することを許し、方向転換をさせてくださる方です。 人生という道は障害物や誘惑で溢れています。そしてそれは、見た目に美しく、食べれば美味(創世記2章)だと思えるようなものです。神様に向かう道からそれてゆく。それこそが聖書が教える罪の性質です。 罪とは、神様に背を向けることと説明されることも多いですが、決して正反対の方向に向かおうという意志ではありません。 神様にはっきりと敵対したいと考える人は少ないと思います。 ただ、自分の思うところに従って生きたいという程度のことです。そして、視線を神様から反らせるのです。

この世界を歩むためにはイエスの背中ばかり(それは聖書の記述ばかり、教会でなされる言説ばかり、という意味です)見ていては、むしろ危なっかしい歩みにしかなりません。 周りの世界を観察し、それに対するイエスの意思を聞くためにイエスを見つめると言った具合に、少しづつ視線を移すことはむしろ大切なことです。 但し気を付けなければいけないのは、知らないうちにイエスに視線を向ける頻度が減ってゆき、やがて全く顧みなくなり、気が付けば遥か遠くに行ってしまうことが、私たちの持つ“罪の性質”によって起こるということです。

 詩人の良かったところは、気づいた時点で向きを変え、急いで間髪を入れず、イエスとの距離を縮めようとしたことです。このことが私たちにとっても大切なことでしょう。 

 自信を持って我が道を歩んできたように思えていたのに、突然これは間違った道だと気付かされた時、もう一度そこに立ち帰りたいというポイントを持っていることは幸いなことです。 そこが曖昧なら、間違ったところを歩いていると気づいても、それではどこに向かえば良いのかがわかりません。 そして、多少の修正をして歩き始めても、イエスとの距離はいつまでも縮まらないということになってしまいそうです。 ユアチャーチはそのような時のための道標であったらいいなと思います。だから、どんないなくなり方をしてもふらっと帰ってこられるような教会でありたいと思います。

3. 妨害に負けないための律法 (61,62)

61 悪しき者どもの縄が私に絡みついても
あなたの律法 は忘れませんでした。
62 夜半に起き、正しい裁き のために
あなたに感謝します。

 前の部分で、道を誤ることについてお話ししましたが、そのきっかけとなるのは多くの場合、他者です。 エヴァは蛇に唆され、アダムはそのエヴァに唆されました。 人は無人島に一人でいれば、犯罪者にはなれません。なぜならそこにはそそのかす人もいなければ、被害者になってもらえる人もそこには存在しないからです。

 全ての人が持つ罪の性質は、人間関係の中で、例えば犯罪のように具体的に目に見えてきます。 あなたを共犯者にしようと近づいて来る者もあれば、危害を加えようとする者もいます。 この詩人の場合は、おそらく比喩的にですが、彼を綱で縛って自由を取り上げ被害者にしようとする者がいたのです。 そして、その動機は詩人の神に従って歩むという生き方が、その人にとって不都合なものであるための攻撃でした。

 神様の意思を知り、それに従って生きたい思う人には必ず、私たちのを絶望させたい、失敗させたい、不幸にさせたいという悪の意志が働きかけます。 そして、それは世界の最初にエヴァを唆した蛇のような存在として誰かを用いて働きかけるのです。 これに対抗するための方法は、主の律法、教え、語りかけを忘れないことだと詩人は言います。

 そのような攻撃に耐えている詩人は、ふと真夜中に目を覚まします。 あるいは、不安が眠気に優り、寝ようと努めても寝ることができず、ついに起き上がって神様を礼拝したのかもしれません。 しかし、それは詩人にとって神様と親密に過ごす貴重な礼拝の時となったようです。

 皆さんは夜中に一度も起きずに朝までぐっする眠れますか?私は睡眠についての悩みはないのですが、それでも時々真夜中に目を覚まします。 そして、さらに稀にですが、目がすっかり冴えてしまって眠れなくなることもあります。 睡眠時間や睡眠の質について心配している人は、夜中に目覚めてしまい眠れなくなることを恐れていると思いますが、私はそのような時には神様がなんらかの理由で起こしてくださったと思うことにしています。 そして、起きて礼拝したり、次のメッセージに関するテキストや参考書を読んだりすることにしています。 皆さんも、あまり途中覚醒を気にせず、感謝するときとして用いられたらいかがでしょうか?真夜中でも礼拝することができるのです。

4. この地は主の愛に満ちている (63,64)

63 私は、あなたを畏れるすべての人
あなたの諭し を守る人たちの友です。
64 主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。
あなたの掟 を私に教えてください。

道を間違えるきっかけが人間関係によってもたらされるなら、正しく歩むことも人間関係によって保たれます。 主を畏れる人、主の諭しを守る人は多くはありませんが、そのような人が自分の友であるという告白をあえてここに入れられているのは、私たちには同じ主を見上げる仲間が不可欠だからなのでしょう。

 それは神を頼らず、人を頼るということでは全くありません。 私たちが目に見えない神様を頼るという時、一旦イエスとして目に見える形でご自身を表してくださったくださった方を頭とする教会を頼るということでもあるからです。 教会とは建物や集会ではなく、私たちのこの人間関係です。

 皆さんの手元にある週報の最後のページにニカイア信条が載せてあります。紀元381年に開かれた公会議で制定されたキリスト教の基本的な信仰を書き表したものです。 来週の日曜日はなんの日か知っていますか?はい、ハロウィンも正解ではありますが、クリスチャン、特に私たち、プロテスタント教会の系譜の中にいる者にとってはその起源となった宗教改革の記念日です。 このニカイア信条はそのプロテスタントの分離(1517)はもちろん、正教会とカトリックに分かれた1054年の東西教会の分裂より遥か昔に書かれたのですから、現在の全てのキリスト教が共有する信仰理解といえます。 この下から2列目に「私は、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます」と書かれています。

 教会は聖なるもので、全てのクリスチャンがつながるキリストの体として信頼すべきものであるということです。 私たちがこのキリストの体に繋がっているならば、この世界の状況がどんなに絶望的に見えても大丈夫です。 この体には互いに支え合う力があるからです。だから詩人は「この地はあなたの慈しみに満ちています」と言い切っています。 私たちが主の体に繋がっている限り、主の言葉を聞き続けている限り、主の慈しみはこの地に満ちていて、その恩恵を豊かに受けて歩み続けることができるのです。

(祈り)神様あなたの憐れみによって「あなたは私の受ける分」と言わせていただけることをありがとうございます。 あなたを見上げることを忘れ、気が付けば遠く離れてしまった時も、あなたは声をかけてくださりあなたの道に引き戻してくださいました。

 さまざまな問題が目の前に立ちはだかっても、あなたの言葉によって、怯まずに一歩づつ進んでゆくことができるように助けてください。 あなたが与えてくださった、あなたを信じる者同士の人間関係・教会をありがとうございます。 

 それぞれを通して表されるあなたの愛によって、憐れみによって、互いに支え合い、あなたと共に喜んで人生を歩み続けることができるように導いてください。 イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

神様を信じる、主を知ることは自分の能力や意志でできることではありません。ただ主の憐れみによって、わたしたちはイエスを知り、彼に従って歩み始めることができたのです。この世界にあって辛いこと、悲しいことは少なくありませんが、イエスを信じて人生を歩めること自体が大きな恵みであることを覚えて、同じように主を見上げる多くの友と共にイエスの働きを担ってゆきましょう。

話し合いのために
  1. 「主が私の受ける分」とはどのような意味ですか?
  2. なぜ「この地は主の愛に満ちている」と言えるのですか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

(表現を子供向けに書き直してみました。本文を順に読みながら説明してあげてください。)

イエス様 「私はあなたのものです」と言ってくださってありがとうございます。
わたしは神様の言葉の一つ一つをよく理解することに努めますから、弱い私を助けてください

1日の歩みを振り返って、もしイエス様を悲しませるような自分であったらそのことを教えてください。方向転換してあなたのほうに向かいます。

困ったこと、辛いこと、悲しいことが起こったときにどうぞ神様の言葉を思い出して力を得られますように。

イエス様を信じる家族、兄弟姉妹、友人がいることをありがとうございます。力を合わせて、心を合わせて家すらものついてゆきたいと思います。いつもわたしの心に語りかけてください。