「こんなはずではなかった」の先にあるもの

National Library of Wales, CC0, via Wikimedia Commons

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「こんなはずではなかった」の先にあるもの

ルカによる福音書 1:5-25
池田真理

 今日から教会のカレンダーではクリスマスを待ち望む待降節の4週間が始まります。今日は、ルカによる福音書1章5-25節にある、ザカリアとエリサベトの箇所を読んでいきたいと思います。
 皆さんは、自分の人生が「こんなはずではなかった」と感じることはあるでしょうか?今まさにそう感じている方もいれば、過去にそういう時があったけど乗り越えてきたという方もいると思います。病気や、別れや、挫折や、誰の人生にも、「こんなはずではなかった」と感じることが起こります。自分の力ではどうにも変えられない現実を前にすれば、誰でも、無力感と絶望感に支配されてしまって当然です。思い描いていた人生の歩みを強制的に変えなければならなくなることは、それ自体に喪失感と悲しみを伴います。でも、何もかも思い通りの人生を歩める人はほとんどいません。だから、もし私たちが、自分の願いが叶うことや状況が改善することにだけ希望を置いていたら、私たちの人生はそれこそ落胆と失望の連続になってしまうと思います。
 今日は、ザカリアとエリサベトの話を普通と少し違う角度から読んでいきたいと思います。聖書に記されているのは、二人の人生の最後に近い一幕に過ぎません。聖書には記されていない、そこに至る前までの「こんなはずではなかった」彼らの人生の歩みがあります。今日はそこに思いを向けてみたいと思います。長いですが、全体を通して読みましょう。

5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6 二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた。7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人とも既に年をとっていた。

8 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、9 祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。10 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。11 すると、主の天使が現れ、香をたく祭壇の右に立った。12 ザカリアはこれを見てうろたえ、恐怖に襲われた。13 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。15 彼は主の前に偉大な人になり、ぶどう酒も麦の酒も飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされ、16 イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の思いを抱かせ、整えられた民を主のために備える。」

18 そこで、ザカリアは天使に言った。「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年をとっています。」19 天使は答えた。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに語りかけ、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。20 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。」21 民衆はザカリアを待っていたが、聖所であまりに手間取るので不思議に思った。22 ザカリアはやっと出て来たが、ものが言えなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。23 やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。24 その後、妻エリサベトは身ごもったが、五か月の間は身を隠していた。そして、こう言った。25 「主は今、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました。」

A. ザカリアとエリサベト
1. 「こんなはずではなかった」人生を歩んできた二人

 この話を表面的に読むと、子どもに恵まれなかったけれども非の打ちどころのない正しい生き方をしてきた老夫婦に神様が目をとめて、彼らに特別な子どもを授けたという話です。
 でも、私はエリサベトの最後の言葉が気になりました。25節「主は今、…人々の間から私の恥を取り去ってくださいました。」当時は、不妊が神様の呪いか罰であるかのように思われていた時代です。ザカリアとエリサベトは、子どもができないことで人々に後ろ指を指されていたことが想像できます。
 だから、6節「二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた」というのも、二人の必死さの表れでもあったのではないかと思います。子どもができないことで人として欠けがあるかのように思われてしまうので、人一倍努力して、立派な人物だと認めてもらわなければいけなかったのかもしれません。
 また、ザカリアの言葉には、あきらめが読み取れます。子どもを与えるという天使の言葉に対して、彼はこう答えました。18節「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年をとっています。」ザカリアとエリサベトは、自分たちがどんなに願っても祈っても子どもが与えられない年月を過ごしてきました。そして、もう子どもを持つには年を取り過ぎて、もうあきらめていたのだと思います。「こんなはずではなかった」と思いながら、もうだんだん「これで良かったのだ」と思えるところまで来ていたかもしれません。子どもが与えられなくても、彼らが神様を信頼し、礼拝してきた歩みに、偽りはありませんでした。
 だから、この二人の物語は、どんな願いでもあきらめずに願い続けていれば神様は叶えてくださるという話ではありません。また、正しい行いをしていれば神様は報いてくださるという話でもありません。「こんなはずではなかった」という人生を、神様に信頼し続けて生きた二人の物語です。

2. それは神様が与えた試練だったのか?

 でも、疑問が残ります。神様は、なぜ長い間ザカリアとエリサベトに子どもを与えず、彼らの切実な願いに応えてくださらなかったのでしょうか?彼らと同世代の友人たちの中には、子どもだけでなく、もう孫もいる人たちも少なくなかったかもしれません。人と比べても意味はないと分かっていても、他の多くの人が普通に手に入れている幸せを、自分は手に入れられないというのは、時にとても辛く感じることです。それは、家族や大切な友人との関係が壊れてしまう時や、病気で健康を失ってしまう時なども同じです。そういう時、私たちは、神様は自分のことを他の人よりも愛していないのではないか、神様は自分の叫びなど聞いていないのではないかと、不安になります。
 でも、そんなことはありません。そう断言できる理由は、私たちを取り巻く状況の中にあるのではなく、神様の中にあります。神様は良い方で、どんな時も私たちを愛しておられるという事実にあります。それがなぜ事実なのかを教えてくれるのがイエス様ですが、その話に入る前に、私たちが自分を取り巻く状況の良し悪しに惑わされてはいけないということを、ザカリアとエリサベトの話の続きから、もう少し確認しておきたいと思います。

3. 二人の子、洗礼者ヨハネの人生(マルコ6:14-29参照)

 天使ガブリエルはザカリアに言いました。14節「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。」私は最初、洗礼者ヨハネの最期を知っているので、この言葉がとても切なく感じてしまいました。ザカリアとエリサベトの喜びであり楽しみであった息子ヨハネは、やがて権力者に捕らえられて、下らない理由で首を切られる最期を迎えます。ヨハネは人々に正義を教えたのに、不正義を行う権力者に逆らえず、殺されてしまいました。それは、人の目には悲劇であり、「こんなはずではなかった」人生だと思われます。
 でも、イエス様はヨハネについて、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」(ルカ7:28)と言われました。ヨハネは神様から与えられた特別な役割を果たして死んだのです。人には悲劇に思われる人生でも、神様には偉大なことを成し遂げたと認められたということです。
 だから、私たちが自分の人生と他の人の人生を比べて、どちらがより良いのか、より幸せなのかを決めることは、とても意味のないことです。極端な言い方ですが、たとえ他人からは試練の多い報われない人生だと思われたとしても、神様から見れば偉大な人生かもしれません。また、その反対もありえます。

 それでは、先程の話に戻って、私たちがどんな状況にいたとしても神様は良い方で、私たちを愛しておられると断言できる理由はどこにあるのでしょうか?それは、イエス様が絶望を知っている神様だからというところにあります。

B. 絶望を知っている神様
1. イエス様の生涯

 イエス様は、人にも神様にも見捨てられたことのある神様です。権力者に無実の罪を着せられ、弟子たちに裏切られ、群衆の見せ物になりました。そして、イエス様の叫びに神様は応えず、イエス様は絶望の中で十字架で死なれました。イエス様は、人としての心の痛みも体の痛みも知っています。それは全て、私たちの苦しみを共に分け合うためでした。それが神様の愛で、神様は私たちのことを愛しておられるということの意味です。
 これは、具体的な問題の解決や実際の状況の改善を求める私たちにとっては、抽象的で役に立たないことのように思われることもあります。切実な願いを叶えてくれる代わりに、それが叶わない現実の苦しみを共に分かち合ってくれると言われても、神様に求めているのはそんなことじゃない、と言いたくなってしまう時もあります。
 でも、神様がこの地上から全ての人の苦しみを取り去るのは、世界の終わりの時です。私たちはそれまで不完全な存在であり続けます。それまでの間は、神様は私たちと苦しみを分かち合う方法を選ばれました。神様なのに、苦しみを取り除くのではなく受け入れるというのは、一見とても受け身的で、消極的な行動です。でも、それが結局は不完全な私たちを少しずつ変えて、私たちが自分の意志で神様を知っていく道を備えました。それは、私たちの苦しみを神様が共に分かち合ってくださっていると知るのと同時に、神様の苦しみを私たちが共に分かち合っていると知ることでもあります。

2. 自分の願いよりも神様の愛を追い求めよう

 私たちは、自分ではどうにもならない現実に悩む時にこそ、そこで共に苦しむイエス様の愛を知ることができます。神様に対して、この状況を変えてくださいと願うことは何も間違っていませんが、その願いが叶っても叶わなくても神様の愛は何も変わらないということを忘れないでいることが大切です。ザカリアとエリサベトのように、願いが叶わなくてもいいと思った頃に神様は動くかもしれません。私たちはもう絶対に不可能だとあきらめていたとしても、神様は奇跡を起こして、私たちに嬉しい驚きを与えてくださるかもしれません。でも、そんな奇跡は起きないかもしれません。どちらでも良いんです。私たちの願いが叶っても叶わなくても、神様が私たちを愛しておられることには変わりありません。そして、私たちが自分を取り巻く状況を何も変えることができなくても、神様を愛し、人を愛することは、どんな状況の中であろうとできることです。そのようにして、自分の願いよりも神様の愛を追い求めることが、イエス様が十字架でご自分の命と引き換えに私たちに与えてくださった新しい生き方です。

(お祈り)主イエス様、どうか弱い私たちを助けてください。あなたは私たちの心にある願いをよくご存知です。どうか私たちが、どんな時も、あなたは良い方で、私たちを愛し、共に苦しんでくださる方だということを、忘れないように助けてください。あなたの霊で、私たちの心を正しい方に導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

誰の人生にも、「こんなはずではなかった」と感じることが起こり、私たちは無力感と絶望感に支配されてしまう時があります。思い描いていた人生の歩みを強制的に変えなければならなくなることは、それ自体に喪失感と悲しみを伴うものです。もし私たちが自分の願いが叶うことや状況が改善することにだけ希望を置いていたら、私たちの人生はそれこそ落胆と失望の連続になってしまうでしょう。でも、私たちの希望は、どんな状況の中でも神様の愛は変わらないという確信を持てることにあります。

話し合いのために
  1. あなたの人生で「こんなはずではなかった」と感じたことは?
  2. 「どんな状況でも神様の愛は変わらない」と、あなたは信じていますか?なぜ信じられるのですか?信じるのが難しい時はどうすればいいですか?

子どもたち(保護者)のために

子どもたちには、ほしくてしょうがないものや、どうしても叶えたい願いや夢があるでしょうか?もしそれが手に入らなかったり、叶わなかったりしたら、みんなは神様のことを嫌いになってしまうでしょうか?(ザカリアとエリサベトは赤ちゃんがほしいと願っていましたが、叶わないまま、おじいさんおばあさんになってしまいました。)神様は、残念ながら、私たちの願いをなんでも叶えてくれるわけではありません。それは、神様が意地悪だからではなく、「もうちょっと待ってて」と言っているか、「それはあなたには必要ないよ。もっといいものをあげるよ」と言っているからです。子どもたちの具体的な願いを聞きながら、一緒に話してみてください。