清めの水がワインに変わった

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日曜礼拝・英語通訳付

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清めの水がワインに変わった

池田真理


 先月の私の担当の週は2回ともユアチャーチのカヴェナントについてお話ししましたが、今日からヨハネによる福音書のシリーズに戻りたいと思います。今日は2章1−12節です。少し長いですが、まず全体を通して読みます。

1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2 イエスとその弟子たちも婚礼に招かれた。3 ぶどう酒がなくなってしまったとき、母がイエスに、「ぶどう酒がありません」と言った。4 イエスは母に言われた。「女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」5 母は召し使いたちに、「この方が言いつける通りにしてください」と言った。6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。8 イエスは、「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。9 世話役が水をなめてみると、ぶどう酒に変わっていた。それがどこから来たものなのか、分からなかったので、—水をくんだ召し使いたちは知っていたが—、 世話役は花婿を呼んで、10 言った。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。12 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

A. これがイエス様が最初に起こした奇跡?

 「ガリラヤのカナ」は、前回登場したナタナエルという人の故郷で、イエス様と弟子たちにとって、この場所は馴染み深い場所だったことが伺えます。また、冒頭の「三日目」というのは、イエス様がアンデレやペテロなどの最初の弟子たちと出会ってから三日目という意味で、この箇所の出来事がイエス様が公に活動を開始して本当に間もない頃だったということが分かります。
 11節には「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」とあり、これがイエス様が最初に起こした奇跡だということが分かります。でも、この奇跡は、新約聖書に記録されているイエス様の数多くの奇跡の中でも少し特殊です。イエス様の奇跡の多くは、病気の癒やしや悪霊の追放、何千人もの人に食事を提供するなど、人の命や尊厳に関わるものです。結婚の宴会でワインが足りなくなったから水をワインに変えました、という奇跡は、なんだか魔法使いのいたずらのようで、それが「神様の栄光を現した」と言われても、違和感を持ちます。直前の箇所で読んだ、「あなたがたはもっと偉大なことを見るようになる」と言われていた「偉大なこと」とはこんなことだったのかと、肩透かしを食らったような気がします。しかも、この話の中で宴会の主催者たちはイエス様が奇跡を起こしたことに全く気付いておらず、気付いてイエス様を尊敬したのはイエス様の弟子の数人だけです。聖書に救いを求めてこの福音書を初めて読む人がここを読んだら、この先の展開が心配になってくるかもしれません。
 一体この奇跡は何を私たちに教えているのでしょうか?謎を解く鍵は、3-5節のイエス様とその母マリアのやりとりの中にあると思います。

B. 「マリアの子」から「神の子」へ

3 ぶどう酒がなくなってしまったとき、母がイエスに、「ぶどう酒がありません」と言った。4 イエスは母に言われた。「女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」5 母は召し使いたちに、「この方が言いつける通りにしてください」と言った。

1. 「ぶどう酒がありません。」

 まず3節に、母がイエスに「ワインがない」と言ったとあります。イエスに言ったということは、言葉ではマリアは何も要求していませんが、イエスが何かしら助けてくれることを期待していたのだと想定できます。マリアは、ワインがなくなったせいで宴会が中断し、宴会の主催者である花婿とその家族が恥をかかないで済むことを願ったのだと思います。でも、マリアがこの時イエス様に具体的に何をどこまで期待していたのかは、神学者の間で意見が分かれるところです。マリアはイエス様の誕生前に天使に告げられていた通り、イエス様が救い主であることを分かっていて、この時すでにイエス様が超自然的な奇跡を起こして自分たちを助けてくれると期待していた、と考える神学者もいます。でも私は、マリアはそこまで分かっていたわけではないと思います。マリアはこの時まだ、イエス様のことを自分の息子として見ていて、ワインがなくなったことを花婿に伝えるとか、どこかで追加のワインを調達してくるとか、それくらいの助けをイエス様に期待していただけなんじゃないかと思います。私がそう思う理由は、続くイエス様の言葉にあります。

2 . 「女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」

 イエス様はマリアに、「女よ、私とどんな関わりがあるのです」と言ったとあります。この言葉の解釈に関しては、神学者たちは大体一致した見解を持っています。その見解とは、ここでイエス様はマリアを冷たく突き放しているのではなく、母としてのマリアに一線を引いたのだという解釈です。「女よ(婦人よ)」という呼びかけは、私たちにはちょっと不自然で乱暴な感じがしますが、イエス様の時代の社会ではそんなことはなく、女性の呼び方として一般的でした。でも、実の母親に対して使う呼び方ではありません。イエス様はマリアに「女よ」と語りかけることで、「私はもうあなたの息子ではない」と告げたということです。イエス様はもうマリアとヨセフの子ではなく、「人の子」「神の子」としての歩みを始めていました。「私とどんな関わりがあるのです」という言葉も、同じように解釈できます。「あなたと私はもう母親と息子の関係ではない」ということです。イエス様は神様ご自身であるのに対し、マリアは一人の人間に過ぎません。だから、イエス様はもうマリアの指図は受けず、イエス様の行動を決められるのはイエス様自身だけだという意味です。
 ただ、次に続くイエス様の言葉、「私の時はまだ来ていません」をどう解釈するかは、難しいところです。これは一見、マリアの要求を拒んで、「私の力を発揮する時はまだ来ていない」と言っているように聞こえます。でも、イエス様は結局奇跡を起こしたのであり、ここでマリアの要求を拒んでいるのだとしたら、一度は拒絶したけれども、その後で思い直したということになります。そうだと解釈する神学者もいます。でも、その解釈はイエス様が言う「私の時」の意味するところを見落としています。このヨハネによる福音書の中でイエス様が「私の時」と言う時はいつも、十字架の苦難の時を指しています。だから、ここでもイエス様は「私の苦難の時はまだ来てない」と言っているということです。でも、それと「ワインがない」という状況はどうつながるのでしょうか?
 そのヒントは聖餐式です。聖餐式で私たちは、イエス様の流された血としてワイン、ぶどう酒をいただきます。それは、私たちの罪の赦しと神様の憐れみを象徴するものです。
 マリアがイエス様に「ワインがない」と告げた時、マリアはただそのままの意味で言ったのであり、イエス様もそれは分かっていました。でも同時にイエス様は、その言葉をあえて象徴的な意味で聞き、答えたのではないのでしょうか。「ワインがない」ということは、私たちに罪の赦しをもたらすイエス様の血がないということ、神様の憐れみがないということ。だから、イエス様の死が必要であるということです。そして、その時はまだ来ていませんでした。そのことを理解できる人は、マリアも含め、この時点ではまだ誰もいなかったはずです。それでも、イエス様はご自分の活動を開始するこの最初の場面で、そのことをマリアに語りかけるのを通して、私たち読者に語りかけているのではないでしょうか。

3 . 「この方が言いつける通りにしてください。」

 マリアは、イエス様の言葉を全部を理解できなくても、息子はもう息子ではなく、生まれる前に天使に告げられた通り、この人を通して神様が何かを始めようとされていることに気が付いたのだと思います。また、宴会の席でワインがないという具体的な問題に対しても、イエス様が無視することはないと分かっていたのだと思います。だから、召使いたちに「この方が言いつける通りにしてください」とお願いしました。

 それでは、ここからはイエス様が起こしたこの最初の奇跡が持つ意味をさらに考えていきたいと思います。

C. この奇跡の意味
1. 清めの水がワインに変わった

 まず最初に、イエス様は清めの水をワインに変えたという点についてです。清めの水というのは、当時のユダヤ人の習慣で、食事の前に手足を清めるために用意された水です。それは衛生管理の意味もありますが、宗教的な意味もありました。ここでは、清めの水は、私たちが自分の力で、自分の汚れ、つまり罪を償って、神様に認めていただくことができるという、私たちの傲慢と偽善の象徴ととらえていいと思います。イエス様は、その清めの水を入れるはずの水がめに、新しく水をいっぱいに注がせました。そして、その水を神様の憐れみというワインに変えてしまいました。それは、私たちがもう自分の力を頼りにして互いの傲慢さと偽善の中で死んでしまうのではなく、神様の憐れみを頼って、その美味しさを味わい、互いに分け合うことができるようになるということを意味します。それはイエス様が十字架でしてくださったことであり、イエス様が私たちに起こされる奇跡です。私たちはただその憐れみを受け取るだけです。

2. そのワインは大量にあり、最高の品質だった

 次に注目したいのが、この新しいワインの量と質です。6節には、「水がめが六つあり、いずれも二または三メトレテス入りのもの」とあります。1メトレテスは約39ℓなので、水がめ一つが約80ℓか120ℓの容量です。(だから英語では「20ガロンから30ガロン」と訳されています。)そこにあった水がめ6つ全てをイエス様が使ったのかどうかははっきり書いてありませんが、複数形が使われているので、おそらく全部使ったと考えられます。そうなると、少なく見積もっても全部で480ℓ(120ガロン)、最大で720ℓ(180ガロン)です。500ℓだとしても、現代で一般的なワインボトルは1本750mlなので、約660本分(55ダース)です。これは、明らかにこの婚礼の祝宴で飲み切れる量ではなかったでしょう。そして、そのワインの質については、味見をした宴会の世話人を驚いて花婿を呼び出して褒めるほど、良いものでした。
 神様の憐れみというのは、私たち全員が受け取っても余りあり、私たちの想像が及ばないほどに大きく、誰が受け取っても美味しく、誰をも喜ばせることのできるものです。

3 . 奇跡に心を動かされたのは弟子たちだけだった

 三つ目に、これほどの大量の美味しいワインがどこから出てきたのか分からないにもかかわらず、宴会の当事者たちはそれが奇跡だと思わず、弟子たちだけがイエス様の奇跡を奇跡だと気がついて、イエス様を信じた、と言われている点についてです。これは、イエス様の奇跡に気が付いて喜ぶことができるのは、イエス様のそばにいる者だけだということを示していると思います。弟子たちは、この時点ではまだ、イエス様が起こした奇跡の本当の意味は理解していなかったと思います。それでも、そこにいる全員が飲んでも飲みきれないほどの量の良いワインを用意されたイエス様の、その不思議な力と優しさには気付くことができたのだと思います。
 私たちの日常の中でも、イエス様は多くの奇跡を起こしてくださいます。それは、イエス様のそばにいてイエス様のことを知りたいと願っている人には見えますが、そうでなければ見過ごしてしまいます。

4 . これがイエス様が最初に起こした奇跡だった

 最後に、この奇跡がイエス様が最初に起こした奇跡だった意味についてです。イエス様は、この最初の奇跡を通して、私たちに、ご自分がこの世界に来られた目的を教えてくださっているのだと思います。イエス様の目的は、私たちが神様の憐れみを受け取って、神様と共に生き、神様の祝宴の席に共につくように招くことでした。聖書には、旧約・新約を通して、私たちと神様の関係を婚礼に例える箇所が多くあります。ある箇所では、私たちは神様を何度も裏切る花嫁で、神様は私たちを待ち続ける花婿です。またある箇所では、神様が婚礼に招いてくださったのに出席を断る失礼な客が私たちです。またある箇所では、私たちは神様という花婿を待っている花嫁で、ある人は待ち続け、ある人は途中で飽きてしまいます。神様の願いはただ、私たちが神様を求め、愛し、一緒に生きることなのです。イエス様が用意したワインを、人々は一緒に飲み、心ゆくまで宴会を楽しみ、祝ったでしょう。イエス様が私たちに伝えたかった神様の国は、そういうところです。神様の憐れみというワインを、私たちがみんなで一緒に飲み、喜び、祝うところです。

(お祈り)主イエス様、私たちはあなたの十字架の苦しみを思い起こす特別な時期、受難節にあります。あなたが私たちをご自分の元に招くために、ご自分の命を捧げてくださったことを思います。私たちの人生には、私たちには背負いきれないと思うような悲しみや苦しみが起こります。病気に苦しむ人、人に傷つけられて苦しむ人、どうか一人ひとりにあなたの深い慰めと励まし、新しい力を与えてください。また、今日は特に12年前の東日本大震災で大切な人や故郷を失った人たちの痛みを覚えます。誰にも癒すことのできない喪失の悲しみの中でも、日々を生きる希望と力を与えてください。同じことを、トルコとシリアの地震の被災者のためにも願います。また、シリアやウクライナで続く戦争を、どうかやめさせてください。あなたの憐れみによって私たちを導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

ヨハネによる福音書が記録する、イエス様が最初に行った奇跡は、婚礼の祝宴で水をワインに変えるという奇跡でした。その水は元々は清めのために用いられるためのものでしたが、イエス様はその水を最高品質のワインに変えてしまいました。その量は少なくとも500リットル=ワイン660本分。それは、イエス様の死によって現される神様の憐れみの大きさを表し、私たちが自分の力ではなく神様の憐れみに頼って生きる、新しい喜びの時代が始まることを象徴するものでした。

話し合いのために
  1. 3〜5節のイエス様と母マリアのやりとりを、あなたはどう考えますか?
  2. なぜ宴会の世話役や花婿は奇跡に気付かず、弟子たちだけが「イエスを信じた」のでしょうか?
子どもたち(保護者)のために

イエス様が最初に起こした奇跡は、水をワインに変える奇跡でした。お祝いでワインが足りなくなることは、命に関わるような重大な問題ではありません。でも、イエス様は私たちの深刻な問題を解決するだけではなく、嬉しいことを一緒に喜びたいと願い、私たちの日常を一緒に歩んでくださる方です。聖書の箇所を絵本でもいいので一緒に読んで、この場面のことを子供たちと一緒に話してみてください。