イエス様の悲しみと怒り

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イエス様の悲しみと怒り

ヨハネによる福音書 2:13-25

池田真理


 今日はヨハネによる福音書の続きで、2章の後半を読んでいきます。全体を三つに分けて読んでいきたいと思いますが、最後の23-25節は付け足しのような部分なので、メインは13-22節です。まずはその前半13-17節を読んでいきましょう。

A. イエス様の怒り(13-17)

13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14 そして、神殿の境内で、牛や羊や鳩を売っている者たちと両替人たちが座っているのを御覧になった。15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16 鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

1. ヨハネの神学

 この箇所は通称「宮浄め」の箇所と呼ばれ、イエス様が逮捕される直前の出来事として、受難週に読まれることの多い箇所です。来週はちょうど受難週なので、ちょうどよかったかもしれません。
 このエピソードは、聖書の中で唯一、イエス様が怒りをあらわにして暴力的に行動した場面を記録しています。「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し(た)」とあります。羊や牛の鳴き声や人々の悲鳴や怒号、お金が散らばり、台がひっくり返される音が聞こえてきそうです。その場は突然の横暴な男の出現に騒然となったでしょう。普段私たちが想像するイエス様は穏やかで、それは間違っていないと思いますが、この場面でのイエス様はあまりに乱暴で、ちょっと戸惑いを感じます。でもそれは、イエス様の悲しみと怒りがそれほどに大きかったからです。そのことをこの後考えていきたいと思うのですが、その前に、お話ししておきたいことがあります。
 ヨハネによる福音書は、マタイ・マルコ・ルカによる福音書と比べて、その内容も出来事の記録の順番も全然違います。これは、最初の三つの福音書が元にした資料はある程度共通していた一方、ヨハネは独自の資料を元にして書かれたからというのが大きな理由です。でも同時に、それぞれの福音書は同じ出来事をそれぞれ違った目線と目的で記録し、それぞれに真実を語っています。ですから、どれが最も正確かという議論は無意味で、私たちはそれぞれに伝えたい神学があるということを覚えて読む必要があります。
 そこで、今日のエピソードについてですが、最初にお話しした通り、このエピソードは受難週によく読まれます。それは、マタイ・マルコ・ルカの福音書では、確かにこのエピソードはイエス様の活動の終盤に、逮捕される直前の出来事として記録されているからです。でも、ご存知の通り、ヨハネによる福音書はまだ始まったばかりで、この福音書ではイエス様の活動も始まったばかりで、イエス様が逮捕されるのはずっと先のことです。
 このことをどう解釈すべきなのか、学者によってはイエス様は「宮浄め」を活動の最初と最後の2回されたのだと主張する人もいますが、それは少数派です。また別の一定数の学者たちは、マタイ・マルコ・ルカの記録が間違っていて、ヨハネが正しく、ここで記録されている通り、イエス様は活動の一番最初に「宮浄め」をされたのだと考えています。でも多くの学者は、イエス様はやはり逮捕される直前にエルサレムで「宮浄め」を行い、その行動がユダヤ人の宗教指導者たちの怒りに火をつけるきっかけになったのだと考えています。私もこの考え方が一番納得できるように思います。そうなると、ヨハネは独自の神学によって、意図的に出来事の起こった順番を無視して、この出来事をイエス様の活動の最初に記録したと考えるしかありません。
 それでは、ヨハネの意図とは何だったのでしょうか?それは、前回読んだ、水をワインに変える奇跡の話と同様に、この「宮浄め」のエピソードはイエス様の活動全体を象徴する重要な出来事だったから、最初に置いたということだと思います。
 では、このエピソードの何がそんなに重要なのでしょうか?それは、先に少しお話しした通り、この話はイエス様の悲しみと怒りを最もよく表しているからです。そして、それは神様の私たちに対する悲しみと怒りであり、イエス様がこの世界に来られた理由そのものでした。イエス様は、暴力的になるほどに、何を怒り、悲しまれていたのでしょうか?今日の箇所の内容を考えていきましょう。

2. イエス様は何に怒ったのか?

 今日の箇所の場面は、エルサレム神殿の境内です。エルサレム神殿とは、旧約聖書のソロモン王の時代に建設されたのが始まりで、その後、王国の消滅と共に崩壊しましたが、イエス様が生まれる約20年前に再建工事が始まりました。今日の箇所はそれから50年弱が経ったところで、まだ工事は完了していませんでしたが、その荘厳さは歴史家が記録に残すほどでした。でも、そもそも神殿の建設自体、神様が望んだものではなく、それは人間の弱さと傲慢さの産物だったということを覚えておく必要があると思います。
 その神殿の境内では、当たり前のように商人たちが商売をしていました。売られていた動物は人々が神様への犠牲として捧げるためです。牛や羊や鳩という種類がいたのは、貧富の差に応じて大きな動物か小さい動物かを選ぶことが許されていたからです。また、神殿に奉納することが許されていたのはユダヤの貨幣だけだったので、人々はローマ帝国の貨幣を両替する必要がありました。そのために両替商もいました。これはすべて、遠方から来る巡礼者たちにとって便利で助かることで、合理的なことだったとも言えます。
 でも、イエス様は乱暴に彼らを追い出して、こう言われました。「私の父の家を商売の家としてはならない。」イエス様は神殿を「私の父の家」と呼んでいます。神殿は、そもそも人間のエゴの産物だとしても、そこで期待されている役割は少なくとも人々が神様に礼拝を捧げる場所であることです。罪を赦してくださっている神様の憐れみに感謝を捧げる場所です。でも、実際には、人々の礼拝は形式化し、商業化すらしていました。人々は、その場所に行くこと、そこで犠牲の動物を捧げて、いくらかお金を奉納することだけで満足してしまっていました。それだけしていれば、礼拝をした気になって、自分は正しい人間であると勘違いするようになっていました。それは単なる自己満足で、神様に対する冒涜です。イエス様は、そのことを見抜いて、悲しみ、憤られました。イエス様が怒ったのは、人々が神様を礼拝しないからではなく、表面上だけの中身のない礼拝をしていたからだったのです。
 それでは、イエス様が私たちに求める真実の礼拝とはどんなものなのでしょうか?続きの18-22節を読んでいきます。

B. イエス様の愛(18-22)

18 ユダヤ人たちはイエスに、「こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と言った。19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」と言った。21 イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

1. 私たちが壊さなければならない「神殿」

 イエス様が私たちに求める真実の礼拝とは、私たちが自分の弱さを隠すために築き上げた「神殿」を壊すことから始まるのだと思います。私たちが築いた「神殿」とは、自分の弱さや間違いを見て見ぬふりをしてきた私たちの傲慢さや偽善です。それを壊すというのは、自分の弱さと間違いを認めて、隠すのをやめることです。そして、そのままで神様の前に出ていくことが、真実の礼拝です。
 実は、このことは旧約聖書の時代から繰り返し預言者たちによって言われてきたことでした。詩編51篇にはこうあります。

18 あなたはいけにえを好まれません。焼き尽くすいけにえを献げても/あなたは喜ばれません。
19 神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません。

エルサレム神殿を建てて、祭りの度に犠牲の動物を捧げることを習慣としていた旧約聖書の人々の間にも、犠牲を捧げる行為自体に意味があるのではないということに気が付いている人たちがいました。彼らは、神様が本当に求めるいけにえは、私たちの「打ち砕かれ悔いる心」なのだと、知っていたのです。

 もし、神様が私たちの罪と弱さを容赦なく責める方だったら、私たちは誰も神様に赦されることはありませんし、動物の犠牲をどれだけ捧げても足りません。でも、神様が私たちに求めたのは、私たちが全く間違いを犯さない完璧な強い人間になることではなく、ただ私たちが罪の中でも弱いままでも神様を求めることでした。実際、それ以外に私たちにできることはありません。

2. イエス様の死と復活という「しるし」(23-25)

 神殿の境内から商人たちを追い出したイエス様に対して、人々は「あなたはどんな権威でこんなことをするのか、しるしを見せろ」と要求しました。彼らが要求した「しるし」というのは、超自然的な力で病気を癒やしたり悪霊を追い出したりする不思議なわざのことです。でも、そのような超自然的な力を求める人々が、本当に神様を求めているのでも、イエス様を信じたのでもないことを、イエス様は知っていました。23-25節を読んでみます。

23 過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。24 しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、25 人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

イエス様の不思議な力を知ってイエス様を信じることは、自分もその力に守られて利益を得たいという利己的な願いに基づいています。それは本当の信仰でも礼拝でもありません。
 これに対して、イエス様が示された「しるし」というのは、多くの人にとって信じがたい愚かな話でした。イエス様はこう言われました。

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

ヨハネはこの言葉についてこう解説を加えています。「イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。」そして、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」のでした。イエス様の「しるし」とは、十字架の死と復活です。私たちのために、私たちの代わりに、十字架で死なれ、三日後によみがえられた方、それがイエス様です。イエス様の死と復活が、神様の私たちへの愛と憐れみ、罪の赦しの証です。

 私たちが自分の罪と弱さの中で打ち砕かれ、ただ神様に助けを求める時、私たちはイエス様の十字架の愛を知ります。イエス様の十字架によって、神様は私たちをもう赦してくださっており、愛してくださっていると知ることができます。そして、イエス様が死からよみがえられたように、私たちも自分の罪の中で死ぬことなく、神様の愛の中で生きる新しい命を与えられます。私たちが礼拝している神様は、このような方です。私たちは一人ひとり、偽善と傲慢を捨てて、恐れずに自分の罪と弱さに直面していきましょう。私たちが自分の心そのものを捧げて、生き方の全てで神様を頼ることを、神様はただ喜んでくださいます。それが、私たちの捧げるべき礼拝です。

(お祈り)主イエス様、どうぞ私たちの心を調べてください。あなたの霊を注いで、私たちの心があなたの愛をもっと知ることができるように導いてください。私たちが自分の過ちを隠さないように、私たちの偽善と傲慢を明らかにしてください。あなたが十字架で払った犠牲の大きさと、私たちに惜しみなく注いでくださっている憐れみを、私たちがもっと知ることができますように。あなたに心からの礼拝を捧げるために妨げているものが私たちの中にあるなら、どうか教えてください。主イエス様、あなたに感謝して、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

神様は私たちが弱いことや間違いを犯すことに怒って罰を下すようなことは決してありません。でも、私たちが自分の弱さと間違いを隠して、自分は正しい人間であるかのように偽善的に傲慢に生きることに対しては悲しみと怒りをあらわにされます。私たちは、自分の生き方が本当に心からの神様への礼拝になっているか、いつの間にか自分に都合の良い形式的な礼拝をしていないか、振り返る必要があります。

話し合いのために
  1. イエス様は何に一番怒ったのでしょうか?
  2. 私たちが壊さなければいけない「神殿」とは?
子どもたち(保護者)のために

この箇所は、イエス様が乱暴とも言える行動をした聖書の中で唯一の箇所です。それは、人々の神様への礼拝が薄っぺらで表面的で偽善的なものになっていることに対する、イエス様の怒りと悲しみの現れでした。13-17節の内容を子どもたちが想像できるように話して、なぜイエス様が怒ったのか、話し合ってみてください。そして、神様は、私たちが立派な人間のふりをして自分の間違いを隠して生きることよりも、弱いままで間違いを隠さずに神様の前に出て行って、神様を愛して生きることを喜ばれる方だと教えてあげてください。