3階:イエスの手足となって世界に仕える

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3階:イエスの手足となって世界に仕える

メッセージシリーズ ユアチャーチは3階建の家 (3/3) (I コリント12:12-17, ヨハネ 21:15,16, 10:11-16, マタイ 5:13-16)

永原アンディ


 シリーズでユアチャーチを3階建ての家に例えて話をして来ました。今週は最終回で、3階部分についての話をします。今までは過去と現在についてお話しして来ましたが、今日は現在から未来に向けてのお話しをしたいと思います。ユアチャーチは神様を愛し、互いに愛し合う者として、どのように世界と人々を愛するかということについてです。

A. あなたがユアチャーチ (Iコリント12:12-27)

12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。13 なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。14 実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。(中略)27 あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。

 ユアチャーチの”ユア”の意味について話して来ましたが、ここで”チャーチ”の部分に触れおきたいと思います。これはとても大切なことなので30年折りあるごとにお話しして来ました。
 チャーチ=教会とはこのビルディングのことではありません。使徒パウロは教会を「キリストの体」と表現しています。つまりイエスを中心とした共同体です。イエスがお一人なのですから体も一つです。そしてユアチャーチとはその体の一器官であり、私たちはその一つ一つの細胞です。教会堂も日曜礼拝を始めとする集まりも教会の本質ではなく、私たち自身がユアチャーチなのです。教会堂があろうとなかろうと私たちは教会です。先々週紹介したヴィンヤードという教会は日曜日は高校の体育館を借りて礼拝していました。先週お話したホープチャペルは、初めは借りられる場所もなくビーチで礼拝していました。その後小学校の体育館を借りて礼拝していた時に私たちは出席したのです。私たちも最初は日曜日だけ借りられる場所で礼拝を始めました。今となってはインターネット上でさえ教会を始められると思います。
 教会に問われていることは、建物の大きさや立派さではありません。先々週お話しした神様を礼拝すること、先週お話しした互いに仕え合うこと、そして今日お話しする、この世界にどう仕えるのか?ということです。 
 人々はユアチャーチ、つまり私たちをどこで知るのでしょうか?ある人は、横浜線に乗っている時に、このビルにかかっている看板を見て私たちを見つけ、この教会のメンバーとなりました。ある人はインターネット上のウェブサイトを見てやって来てやがてメンバーとなりました。しかしこの建物やウェブサイトでなくても、人々はユアチャーチを見ることができます。どこで見ることができるのでしょう?
 人は皆さんを見る時にユアチャーチを見るのです。間違っていますか?私たちは皆、キリストの体のユアチャーチという器官なのですから間違っていません。
 日曜日の礼拝の終わりにワーシップリーダーが呼びかける言葉は祝祷と呼ばれるものです。私たちは祝祷の最後の部分で「それぞれが遣わされているところに送り出します」という言葉を受けて1週間の歩みを始めるのです。私たちは日曜日に教会に来ているのではなく、ここから教会として社会に出て行き、そして人々はそこでユアチャーチに出会うわけです。

 この3階は、私たちが神様に(1階)ではなく、互いに(2階)でもなく、世界の人々に仕えるところです。

B. 世界に対する私たちの働き
1. 委ねられた羊の世話をする (ヨハネ 21:15,16, 10:11-16)

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。(ヨハネによる福音書 21:15,16)

 世界というと海の向こうの大陸や島々と考えてしまいがちですが、そんな遠くの話をしているわけではありません。イエスはすべての人を海外宣教師としてどこかの国に送り出したいと考えているわけではないのです。実は、祝祷で言われているように、神様は皆さんを“牧師”として「この社会のそれぞれの場所」に派遣され、皆さんはそこで1週間を過ごすのです。
 私たちが読んでいる聖書で、牧師あるいは牧者、羊飼いと訳されている言葉は、「羊にえさを与える」という意味の語源を持っています。この、イエスが「私の羊を養いなさい」と言われたその真意を理解するためには、同じヨハネが記録している福音書のイエスの言葉を読んでみる必要があります。

私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。 それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。 私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。(ヨハネによる福音書 10:11-16)

イエスはユアチャーチに「チャペルをお客さんで満たしなさい」ではなく、「弟子を育てて送り出しなさい」と命じておられるのです。私たちは自分のニーズが満たされるために招かれたのではありません。人のニーズを満たすために招かれたのです。もちろん、そのためにはまず自分が癒され満たされ力を得る必要があります。だから1階と2階が重要だとお話しして来ました。

 皆さんは、月曜から土曜まで、自分に委ねられた羊たちの世話をしている「牧師」なのです。皆さんはもしかしたらもっとサービスの良い教会を経験されて来たかもしれません。そこでは牧師は「何でも屋」です。日曜日にお話しし、平日には聖書研究会で教えてくれます。あらゆる集まりで司会を務め、メッセージをして、最初と最後のお祈りをします。人々のリクエストに応えて病人を尋ね、また家庭訪問をします。誰々のために祈ってください、というリクエストにも答えます。 
 ユアチャーチにはないサービスです。しかし、それでは人々はいつまでも、お世話してもらうお客様か、癒してもらう患者さんのままです。人々は、働き者の牧師に感謝しています。でもそれは本当の教会の姿ではありません。それでは囲いの外の羊を心配するイエスを喜ばせることは出来ません。それで喜ぶのは狼です。出て行って世話をする牧師がいなければ、世界は狼の「サッポロビール園」(ビール飲み放題・羊食べ放題)のままです。

 宗教改革者ルターはそれまでの、聖職者は神様と人との間に立つ者という考えがイエスから来たものではないことを万人祭司という言葉で明らかにしました。
皆さん一人一人が直接イエスに従って歩いてゆくことができるのです。教会の牧師は、皆さんが牧師として活躍できるようにお世話をするという役割を持った者であって従うべき権威では決してありません。教会の牧師はサッカーティームのキャプテンのような者です。イエスが監督として導くティームなのです。皆さんはキャプテンを通してではなく監督から指示を受けます。キャプテンは監督の意志がティーム全体によく伝わるように、皆に声をかけ、励まし、調整する者として立てられているのです。

ルターが根拠としたテキストは、ペテロの手紙の

「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです」。(第一ペテロ2:9)

と、黙示録の

「彼らを私たちの神に仕える御国の民また祭司となさったからです。彼らは地上を支配するでしょう。」(黙示録5:10)

です。

さて、私たちの基本的役割は「祭司」であるということがわかりました。イエスに従う祭司の務めは愛すること、世話をすることです。イエスに従う者は、それぞれが置かれたところで牧師の働きをします。それは、神様の意思に従って、そこにいる人の魂、心、体のケアをするということです。
 
 ただ、私たちに期待されていることは、人々の身の回りのお世話をすることだけにはとどまりません。それはイエスの次の言葉でよくわかります。読んでみましょう。

2. 地の塩・世の光(マタイによる福音書 5:13-16)

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、灯をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」(マタイによる福音書 5:13-16)

 イエスは、イエスに従う私たちのこの世界における役割をこう説明されました。塩は料理の味に欠かせません。また、塩は食べ物の腐敗を防ぎます。社会がすべての人にとって暮らしやすいものになるように、社会が犯罪や不正義によって腐ってしまわないように、行動し、また人々に行動することを促すという役割りです。M.L.キング牧師の指導した公民権運動はその好例です。また、地域の人々にホッとする場を提供する私たちの「エンドウマメ」もささやかですが、この働きの一部を担っているのです。
 教会は個人の魂の問題だけに関わるべきで、政治的に中立であるべきだという考え方が強くありますが、私はそう思いません。イエスは私たちに核廃絶、軍縮、反差別を進めることを求めておられると思います。イエスは今苦しんでいる人は、天国に帰れば楽になるから今は黙って耐えなさいとおっしゃるでしょうか?中立とは耳障りの良い言葉ですが、要するに、私は「よきサマリア人」になるつもりはありません、ということのほかならないのです。ここでイエスは、塩気がなくなった教会、つまり神様の求める義を行わない教会は外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけとさえ警告しておられます。
「魂の救い」だけでなく、正義のためにもユアチャーチの3階が存在します。イエスは続けて、私たちが世の光であると言われました。
先週、1997年に教会の名前を変えた話をしました。ユアチャーチになる前の名前はライトハウスでした。イエスを多くの人に紹介して、イエスという確かな光を世界に投じて、その光に導かれて人生を歩み始める人の手伝いをしたい、闇を照らす光のような教会になりたいという思いを込めて、このテキストから付けた名前です。お話ししているように、それはユアチャーチの3階の機能の一つなので良い名前だとは思いますが、3階は1階、2階あってのものだということを強く意識し始めたのでユアチャーチとなったのです。しかし、教会が礼拝とそこに集う人の楽しみのためだけにあるなら、それは、コンテストやダンスパーティーで踊ることを目指さないダンス教室のようなもので健康な教会とは言えません。
 灯台の光は船の航海に欠かせないものです。イエスは、すべての人の人生という航海の導きの光です。教会は灯台としてイエスを人々に届けるのです。「そうか!じゃあビルの壁に十字架をつけて夜も見えるようにライトアップしよう!」という問題ではありません。このビルに来てもらうことが目的ではないからです。
 イエスを知ってもらうためにはイエスに出会わなければなりません。人はどうやってイエスに出会うのでしょう?今日の最初にお話ししたことを思い出してください。人はあなたと出会い、あなたと知り合うことによってイエスに出会うのです。 求められない限り、口でクリスチャンになることの効能を説明する必要もありません。ただ心を込めて皆さんの羊たちのためにお世話し、祈り、慰め、励まし、必要を満たしてください。神様は今日も私たち、ユアチャーチをこの世界に送り出します。

(祈り)神様、私たちがあなたの体として用いてくださっていることをうれしく思います。あなたが送り出してくださったところで、喜んであなたの働きを担うことができるように、私たちの必要を満たしてください。私たち一人一人が置かれているところにユアチャーチがあること、一人一人が委ねられた羊たちがいることを聞くと、その責任の重さと自身の弱さのギャップに圧倒されてしまいます。どうか私たち一人一人をあなたの霊で満たし、地の塩として、世の光として用いてください。
 あなたの30年の導きに感謝し、これからの導きを期待して、主イエス・キリストの名前によって祈ります。


メッセージのポイント

社会の中で、神様に期待される働きを教会が担うためには、神様に仕えること(1階)、互いに仕え合うこと(2階)が不可欠です。私たちは、神様に派遣されて、その体である教会の一部として、この社会の中で、愛を持って人々のお世話をし、正義を行い、イエスを紹介します。

話し合いのために
  1. 教会とは何ですか?
  2. あなたの羊はどのような人々ですか?
子どもたち(保護者)のために

愛を持って世話をするということを、その年齢なりの例話で説明してください。ペットの世話、年下の弟妹の世話、お年寄りの世話、同級生のために、イエスは何をしてあげることを喜んでくださるか、考えさせてみてください。高学年なら、地の塩とは?世の光とは?を考えさせてください。