闇の中の私たちを光に導くイエス様

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日曜礼拝・英語通訳付

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闇の中の私たちを光に導くイエス様

ヨハネによる福音書 3:1-15)

池田真理


 4月は少しお休みをいただいていましたが、今日は久しぶりにヨハネによる福音書のシリーズに戻りたいと思います。今日読む箇所は3章1-15節です。早速、最初の1−3節を読んでいきましょう。

A. 夜の闇に紛れてやってきたニコデモ (1-3)

1 さて、ファリサイ派の一人で、ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人たちの指導者であった。2 この人が、夜イエスのもとに来て言った。「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」3 イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 この箇所でまず注目すべきだと私が思うのは、この場面が夜だったという点です。このニコデモという人物は、ちょっと大袈裟な言い方をすれば、夜の闇に紛れてイエス様に会いに来たのでした。このことにはとても象徴的な意味があります。今日のメッセージのタイトルにしたように、イエス様はこのニコデモを夜の闇の中から光に導かれました。そして、私たちにも同じようにしてくださるということが今日のメッセージの内容です。

 ニコデモについてちょっと情報を整理しましょう。ニコデモはファリサイ派の一人で、ユダヤ人たちの指導者(議員)だったとあります。つまり、立場としては、イエス様と敵対するユダヤ教の宗教指導者の一人だったということです。おそらく、そのことが、彼が夜にイエス様を訪ねてきた理由に関係しています。当時の多くのユダヤ教の宗教指導者にとって、イエス様は最近田舎から出てきた怪しい教師でしかなく、危険な思想を広める可能性のある要注意人物でした。もしニコデモもそのようにイエス様を見ていたなら、日中に堂々と来て、群衆の面前でイエス様を尋問すれば良かったはずです。でも彼はそうしませんでした。群衆のいない、人目につかない夜に、一人でイエス様を訪ねました。それは、この後読んでいくとさらに分かりますが、ニコデモは個人的にイエス様に興味があり、その教えをもっと知りたいと思っていたからだと思います。でも、そんな様子を、同僚たちや群衆に見られるわけにはいかなかったのだと思います。

 2節のニコデモのイエス様に対する言葉は、ファリサイ派の人たちがイエス様をおとしめる前によく使う典型的なお世辞と同じです。ニコデモはまだ、イエス様に対して疑いの方が大きかったのだと思います。

 面白いのは、イエス様の反応です。ニコデモはまだ何もイエス様に聞いていないにもかかわらず、イエス様はいきなりこう告げました。3節「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」これは、イエス様にはニコデモが何を求めてわざわざ夜に一人でやってきたのかが分かっていたからとしか思えません。社交辞令でお茶を濁す彼に対して、単刀直入に、彼の求める答えを与えたのだと思います。

 ニコデモは、救いを求めていたのだと思います。ニコデモはおそらく、自分がそれまで信じてきたことや人に教えてきたことに限界を感じながら、それが間違っているとしたらどうすれば良いのか分からない状態にありました。どちらにも確信が持てず、自信を失い、まさに闇の中にいました。

 イエス様はそんなニコデモに、「新しく生まれ変わりなさい」と告げました。そうしなければ、神の国を見ることはできないと。つまり、これまでの歩みから離れて、新しい方向に進み始めなさいということです。それはどういうことのなのか、この後読んでいきます。

 その前に、ニコデモが結局どのような道を選んでいくのか、追加の情報を先に確かめておきたいと思います。ニコデモについては他の福音書には一切記録がありませんが、このヨハネによる福音書にはこの箇所以外にあと2回登場します。まず7章では、同僚の宗教指導者たちに対して、イエス様を裁判にもかけずに罪に定めるべきではないと、イエス様を庇う発言をします。そして、19章では、十字架で亡くなったイエス様の遺体を、アリマタヤのヨセフと協力して埋葬しています。ちょっと感動しませんか?ニコデモの人生は、イエス様と出会って大きく変えられたのだと思います。

 それでは、今日の箇所の続き、4-8節を読んでいきましょう。

B. 私たちの力では無理でも、聖霊様は私たちを新しく生まれ変わらせる (4-8)

4 ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」5 イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7 『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

 ニコデモの反応はとても的外れです。おそらくそれは、ニコデモの焦りや絶望を表しているのではないかと思います。彼は、年を取った者が新しい人生を始めるなんて不可能だと焦っていたのかもしれません。または、肉体が滅んで初めてゼロからやり直せるというなら、今の私には何の救いにもならないと絶望しそうになっていたのかもしれません。
 そんなニコデモにイエス様は、人間の力では無理でも、聖霊様には可能なのだと語りかけます。6節ではこう言われています。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」この「肉」は、ここでは人間の力と解釈して良いと思います。私たちの能力や努力には限界があります。自分自身について、変わりたくても変われないことがたくさんあります。社会の中で、変えたくても変えられないこともたくさんあります。自分のことも社会のことも、間違いに気が付いてすらいないこともあります。それが私たちの「肉」の限界です。でも、「霊」は違います。この「霊」は神様の霊、聖霊様のことです。聖霊様は、私たちを新しく生まれ変わらせることができ、世界を変えていく力を私たちに与えてくれます。それは私たちの力ではなく、神様の力です。
 さらに、8節でイエス様はこう言われています。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」この「風」と訳されている言葉は、「霊」とか「息」とも訳される言葉です。聖霊様は、神様の意志によって私たちに注がれ、私たちのうちで自由に働かれます。そして、私たちに新しい息を与え、新しい命を与えます。私たちはこの聖霊様の働きによって、自分の力では到達できないところにまで到達することができます。
 イエス様は、 「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」と言われました。新たに生まれ変わり、新しい人生を始めることは、不可能ではなく、可能なことだからです。自分の力ではなく、聖霊様の力に期待して、大いに楽しみにしなければならないことだからです。
 でも、ニコデモはまだ信じられませんでした。最後の9-15節を読んでいきましょう。

C. 私たちはイエス様と共に神様の国で永遠に生きる (9-15)

9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11 よくよく言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。12 私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 自分の人生を変えられるとまだ信じられないでいるニコデモに対して、イエス様はさらにもっと素晴らしいことがあると伝えています。それは、単に聖霊様の力に頼ってこの世での人生を生きるだけでなく、肉体の死を超えて、イエス様と共に永遠に生きる永遠の命があるということです。
 少し、14−15節に注目しましょう。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とあります。これは、旧約聖書で、モーセが作った青銅製の蛇を見上げた人々は罪を赦されたという故事にちなんでいます。(民数記21:4-9)同じように、イエス様を見上げる人は罪を赦されるということです。また、「人の子も上げられねばならない」というのは、人々の罪を赦すために、イエス様は十字架に上げられねばならないという意味でもあります。さらには、十字架での死の後、復活し、天に上げられねばならないという意味もあります。それは、15節にあるように、イエス様を信じた者が永遠の命を得るためでした。イエス様は、私たちの罪を担い、私たちの身代わりになって死なれました。私たちの罪を赦して、私たちに神様の愛の中で生きる新しい命を与えるためでした。そのことを信じ、イエス様は天からこの世界に来られた神様であり、神様はご自身の命を私たちのために捧げてくださったのだと信じるなら、私たちは神様の愛の計り知れなさを知ります。
 今日出てきた言葉の中で、この神様の愛と切り離せないものがあります。それは「神様の国」です。イエス様はニコデモにまず、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と言われました。次に「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)と言われました。神の国を見ることと神の国に入ることは同じことです。神様の国とは、神様の愛の支配するところです。ですから、新しく生まれ変わるということは、神様の愛が支配するところで生きることができるようになるということです。
 イエス様は11節でこう言われています。「私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。」自分の疑いや絶望に支配されて、目の前に差し出されている神様の愛を受け取ることができないのは、ニコデモも私たちも同じです。でも、神様の愛は、イエス様が証しし、イエス様を信じた人たちが今日に至るまで伝え続けてきた、真実です。私たちは何度でも、この神様の愛を受け取って、自分の人生を変えることができます。
 最後に、次回読む、16-21節を読んで終わりにしたいと思います。今日の内容の要約のような部分であり、聖書全体の中心メッセージのような部分です。

16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。

(祈り)イエス様、どうぞ今私たち一人ひとりの心の闇を照らしてください。闇の中にいると感じている人に、あなたの光を与えて、導いてください。私たちが自分の力では乗り越えられないと思っている試練を、あなたの力で、あなたと共に一歩ずつ進ませてください。どうか私たちが不安や恐れに負けないで、あなたに希望を置くことができるように助けてください。主イエス様、あなたの光を頼ります。導いてください。あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

私たちは時に、それまで自分がやってきたことに自信を失い、信じてきたことを疑い、進むべき方向が分からなくなります。イエス様はそんな私たちに、「新しく生まれ変わりなさい」と言われます。それは、私たちの力では無理なことで、聖霊様の力によってのみ可能なことです。聖霊様は私たちに神様の赦しと愛を教え、私たちの間違いを正し、イエス様と共に前に歩み続ける力を与えてくださいます。。

話し合いのために
  1. 私たちはどうやって「新たに生まれる」ことができますか?それはどんな生き方ですか?
  2. ニコデモと自分で似ているところはありますか?
    (ニコデモについて参照:7:50, 19:39)
子どもたち(保護者)のために

ニコデモという人について一緒に考えてみてください。「ファリサイ派の人たち」は聖書ではイエス様の敵(悪役)として登場することが多いですが、この箇所に出てくるニコデモのような人もいます。ニコデモは人目をはばかって、夜にイエス様に会いに来ました。ここでのイエス様とのやり取りは一見噛み合っていないように思えますが、それはニコデモの悩みが深かったことを示していて、イエス様なら何か自分を新しく導いてくれるかもしれないと期待していたことを示しています。ニコデモはこの福音書にしか登場しませんが、この後イエス様を庇う発言をしたり(7:50)、十字架で亡くなったイエス様の埋葬にも関わったとされています。(19:39)ニコデモはイエス様を信じたのだと思います。