ע(アイン) あなたの時が来ました、主よ

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ע(アイン) あなたの時が来ました、主よ

詩編119:121-128
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する”16/22

永原アンディ


久しぶりに、律法への賛歌と呼ばれる詩篇119編のシリーズに戻りましょう。16回目の今日は、16番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット16番目の字、“ע(アイン)”が各節の初めに置かれた121-128節を取り上げます。
読んでゆきましょう。

A. 信仰に疲れる時
1. 悪は栄え、自分は顧みられないと思える現実 (121,122) 

121 私は公正と正義を行います。
虐げる者らに私を委ねないでください。
122 あなたの僕のために恵みを保証してください。
傲慢な者らが私を虐げないようにしてください。

 詩人でなくても、私たちもまたこの世界のさまざまな出来事を見て、また自分の身に起こる問題に直面して、同じような思いを持つのではないでしょうか? 神様を信じて、正しく生きようとしている自分に問題が降りかかり、自分が神様であるかのような自己中心的な態度を持つ人々が力をふるい、思いのままに人生を楽しんでいるではないか?
 先週のニコデモの話を覚えていますか?いまヨハネによる福音書のシリーズとこの詩編によるシリーズを週替わりで読んでいますが、神様は不思議なことに、この全く別々のテキストから、前の週の続きとしか言えないことを語りかけてくださいます。今回もそのようなお話になりそうなのです。
 ニコデモもと詩人の共通点は「神様の意思に従って歩みたい」と願っていることであり、またそれぞれの置かれている社会の中では、その「神様の意思」が尊重されていないと痛感している点です。だから詩人は苦しみ続け、ニコデモは夜に紛れてイエスを訪ねました。
 神様は、私たちの誰よりも忍耐強い方です。アクション映画のヒーローのように悪を行う者を片っ端から打ち倒すようなことはなさいません。全ての人が神様に立ち返ることを神様は望んでいるからです。イエスはマタイによる福音書13章(24-30)で、次のような例えを用いて説明されました。

イエスは、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の国は、良い種を畑に蒔いた人に似ている。 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 芽が出て、実を結ぶと、毒麦も現れた。 僕たちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい」と刈り取る者に言いつけよう。』」

 だから、私たち神様を知った者には忍耐が求められます。 しかし、私たちはその忍耐にに勝る良いものを神様が与えてくださることを先週学びました。 

 神様がイエス・キリストによって私たちを全く新しい存在に変えてくださること、そして変えられた私たちは聖霊によって、世界の様子がどんなに過酷なものであっても、希望を持って生きることができることです。与えられたのは肉体の命を超えた永遠の命であって、私たちは死を恐れる必要のない存在と変えられたのです。肉の命と霊の命はどちらかを選ばなければならない対立するものではありません。肉には終わりがきますが霊に終わりはありません。次元が違う事柄なのです。 

2.  主に助けを求めよう (123.124)

123 私の目はあなたの救いと
正しい仰せを求めて衰えました。
124 あなたの慈しみにふさわしく
あなたの僕をあしらってください。
あなたの掟を教えてください。

 「それにしても、神様は私が思うような救い、正義をくださらないので、期待して何が起こるかと見開いていた目は、疲れはててかすんでしまいました。私はあなたに不当に扱われているように思えてしまうのです!」と詩人は自分の気持ちを率直に神様にぶつけています。
 しかし、私たちは詩人のように、叫び続ける必要のないことを知っています。 ニコデモのように主に聞くことのできる者だからです。聖霊の力に期待することを知っている者だからです。今年のイースターは終わりました。教会のカレンダーの次の記念日は何という日であるか覚えていますか?ペンテコステです。聖霊が、弟子たちの上に激しく臨み、彼らを満たしたことを記念する日です。 彼らは、イエスを天に送った後、イエスに言われていた通り祈りながら聖霊を待ち望んでいたのです。今年のペンテコステは、再来週の5月28日です。お話は私の番で、使徒言行録のペンテコステのテキストからお話ししようとも思いましたが、この詩篇の次の部分も、また不思議なことにペンテコステを想起させるテキストだったので、シリーズの続きとしておはなしするつもりです。 

 困難にぶつかると、私たちはそれまでの自分の歩みに自信を失い、自分の信仰を疑い、進もうとしている道にも希望が持てなくなってしまいます。イエスはニコデモに、「新しく生まれ変わりなさい」と言われまました。それは、彼の想像を超えることだったので、ニコデモは検討はずれの応答しかできませんでした。
 しかし、ペンテコステを経験している私たちは知っています。それは自力で可能なことではなく、聖霊の力によってのみ可能なことです。聖霊は、私たちがイエスと共に前に歩み続ける力を与えてくださいます。それが新しく生まれた者として生きるということです。

B. イエスの時を知っている私たち
1. 今はどんな時か? (125,126) 

125 私はあなたの僕です。
私に悟らせてください
あなたの定めを知ることができますように。
126 主の働かれる時です。
彼らはあなたの律法を破りました。

 旧約聖書の詩編をシリーズで読んでいますが、旧約聖書では詩人のように神様に忠実であろうとした者の多くが、神様が働かれる時を待ち焦がれていました。私たちはそれが「イエスの時」であることを知っています。
 ではなぜ「イエスの時」をリアルタイムで経験した弟子たちは、イエスの言葉と行いが記された福音書や使徒の手紙などの現在、新約聖書と呼ばれる部分だけではなく、ユダヤ教の聖書であった旧約聖書をも、イエスに従う者も信じるべき神様の言葉であると考えたのでしょうか?それは、彼らが旧約聖書全体をイエスの登場によって成就する究極の預言と受け取ったからです。イエスを民族の歴史や宗教と脈絡なく忽然と現れた新宗教の教祖ではなく、旧約時代の人々の待ち望んだ神の現れと信じたからです。
 また新約聖書には多くの旧約聖書の引用があり、イエスご自身も旧約の言葉を引用しているので、旧約聖書を読まなければ新約のメッセージも正確に理解することができないからです。旧約を正しく読むためには新約を、新約を正しく読むためには旧約を無視することができません。
 そして今は、文書としての新約聖書も、すでに完成し、そこに付け加えることも、省くことも固く禁じられています。私たちは旧約聖書の時代でも新約聖書の時代でもなく、それ以降の時代に生かされています。

 そこで、今、聖書を正しく読むために、もう一つ考慮するべきことがあります。それは私たちが置かれている世界の中で、その内容が何を意味するかという点です。例えば私たちは、旧約の「食物規定」を守る必要がないことを知っています。 また、新約聖書の時代に「女性は教会で教えてはならない」と命じたパウロに従うことをイエスが望んではおられないことを知っています。
 聖書を正しく読むことと、文字通りに読むこととは異なります。今の時にふさわしい意味を知るといっても、それが自分勝手な解釈にならないように聖霊の助けが必要なのです。弟子たちは主イエスの復活を経験し、ペンテコステを経験して、キリストの体つまり教会として歩み始めました。彼らの生きた新約聖書の時代を「イエスの時」と呼ぶなら、ペンテコステ以降は「聖霊の時」あるいは「教会の時」と呼ぶことができるでしょう。

2. 終わりの日まで歩き続けよう (127,128)

127 それゆえ、金よりも純金よりも
私はあなたの戒めを愛します。
128 それゆえ、あなたのすべての諭しに従って
私はまっすぐ歩き
偽りの道をことごとく憎みます。

 なぜ今が聖霊の時かと言えば、この目に見えるイエスの姿、耳で聞こえるイエスの声を私たちは体験できないからです。今私たちは、聖霊の働きによってイエスを見、イエスに聞きます。聖霊の助けによって、自分の弱さ、罪深さに関わらず、どんな環境にあってもイエスと共に神の国の完成を目指して歩み続けることができるからです。

 そして、なぜ今が教会の時かと言えば、イエスが私たちを彼の体つまり教会として、この世界においたからです。後から混入された毒麦も成長することを、神様があえて許された畑のような世界で、終わりの日まで良い麦として力強く成長してゆくためには、私たちがイエスを頭とする体すなわち共同体として生きることが不可欠だからです。それは自分の無力を認めた者だけが持つことのできる新しい体、新しい人生です。

 新約聖書の中の多くの手紙を書いているパウロは「弱い者こそ強い」という真理をこのように表現しています。

キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられるからです。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力のゆえにキリストと共に生きるのです。

そして主イエスご自身は、はっきりとこうおっしゃいました。

私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
 私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。 (ヨハネ15:4,5)

さあ最後まで、終わりの日までイエスに従って、イエスと共に、多くの実を結ぶ人生を歩み続けましょう。

(祈り)神様、イエスとして来てくださり、私たちを新しく生まれ変わらせ、あなたと共に生きるものとしてくださった「イエスの時」をありがとうございます。

「聖霊の時」を生きる私たちに、あなたの霊を豊かに注いでください。

私たちは聖霊の助けなしには、あなたの意思を正しく知ることも、行うこともできない者です。

どうか、あなたの目として世界を正しく見ることができるように、あなたの霊で私たちを満たしてください。

あなたの耳として、助けを求める声を聞き逃さないように、そしてあなたの手足として働くことができるように、あなたの霊で私たちを満たしてください。

私たちの弱さの中に、あなたの恵みが満ちあふれますように。

感謝して、期待して、イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

「なぜ、神様に背を向け歩む者が栄え、神様に従う私は報われないのか?」と信仰の歩みに倦み疲れ、弱音を吐く詩人の中にこそ、福音を信じる私たちの信仰の本質があります。私たちは誰も、神様を満足させられるような正しさも強さも持ち合わせてはいません。だからイエスが来てくださったのです。イエスの体の一部として生かされている恵みを信じて歩み続けましょう。

話し合いのために
  1. なぜ今を聖霊の時、教会の時と言えるのですか?
  2. 私たちにとって神様の戒めを愛するとはどういうことですか?
子どもたち(保護者)のために

子供たちとヨハネ15:4,5を一緒に読みましょう。そして大人であり親や保護者である自身もまたイエスにつながっていなければならない理由を話してあげてください。そして、子供達にもイエスに繋がっていれば、どんな困難にも耐えられること、良い人生を送ることができることを教えてください。