神様を信じるとは神様の愛を信じること

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神様を信じるとは神様の愛を信じること

ヨハネによる福音書3:16-21

池田真理


 今日はヨハネによる福音書の続きで、3:16-21を読んでいきます。前回、ニコデモの話の最後に少しフライングして読んだ通り、この箇所は聖書全体のメッセージを要約しているような箇所です。その内容を一言で言おうとした結果、今日のメッセージのタイトルになりました。「神様を信じるとは、神様の愛を信じること」です。神様は私たちを愛しておられると信じることが、私たちの信仰の始まりであり、一生かけても確かめ切れないことだと思います。
 内容に入る前に、そんなに重要ではないのですが、聖書の解釈に関して補足があります。この箇所は、イエス様の言葉なのか、ヨハネのナレーションなのか、議論があります。数年前まで使っていた新共同訳聖書では、ここはイエス様のニコデモに対する言葉の続きとされていましたが、今使っている協会共同訳や英語のNIVでは、ヨハネのナレーション部分とされています。言葉遣いや内容の違いから、おそらくここはイエス様の言葉ではなく、ヨハネのナレーションとしてとらえる方が正解だと思います。でも、どちらにせよ、内容の理解に大きな影響があるわけではありません。
 それでは読んでいきましょう。まず、16節です。

A. 神様は愛そのもの (16)

16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

1. 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」

 この1節だけで、福音の全てが凝縮されているので、1文ずつ取り上げたいと思います。まず前半。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ここは英語の方が元々のニュアンスをよく伝えていると思います。原文を直訳すると、(英語はそのままですが)「神は世を愛されるあまり、その独り子をお与えになった」です。つまりこの一文は、神様の愛は独り子を与えるくらい大きいのだと、神様の愛の大きさについて語っているのではありません。それよりも、独り子を与える前から神様の愛は大きく、その愛の結果として独り子をお与えになったのだと、神様の行動について語っています。神様とはどんな方か、神様の性質について語っているとも言えます。

 また、ここで「世を愛された」と言われている「世」は、「神様に敵対するこの世界」という意味があります。旧約聖書の時代から、人間の歴史は神様に反抗し、神様を裏切ることの繰り返しでした。それでも、神様は私たちを愛するあまり、見捨てられませんでした。だから、「世を愛するあまり、その独り子をお与えになった」のでした。 ここに、神様の愛の本質があります。神様の愛は、敵を赦し、自分の最も大切なもの、または自分の全てを喜んで捧げる愛です。それは、神様の本質そのものとも言えます。神様は本当の愛が何かを教えてくださる方であり、愛そのものです。「神は愛です」と、ヨハネが聖書の別の箇所で言っている通りです。(1ヨハネ4:7-21)

2.  「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 それでは後半です。「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここから分かるのは、神様の望みは、私たちが罪の中で死んでしまわないで、神様と永遠に共に生きることだということです。そして、そのために私たちに求めたのは、「御子を信じる」、つまり、イエス様を信じることだけでした。イエス様を信じさえすれば、誰でも救われるように、誰も滅びなくてすむようにされたということです。

 でも、これは逆に言えば、イエス様を信じなければ滅びるしかない、と言っているようにも聞こえます。信じる者は救われ、信じない者は救われない、とは、キリスト教会でも時々聞かれる教えです。でも、それは誤解です。

 このことに関しては、続く17−18節でさらに説明されているので、読んでいきましょう。

B. 神様は私たちを裁くの?裁かないの? (17-18)

17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

1. 「裁くためでなく、救うため」

 ここで、日本語では「裁く」と訳されている言葉ですが、英語では “condemn” (非難する)が使われていて、ニュアンスに違いがあります。これは、聖書に出てくる「裁き」という言葉には、単に「神様が審判を下す」という意味だけでなく、「罪に定める」「有罪判定を下す」という意味もあるからです。そして、この箇所は後者の方の意味で、「罪に定める」という意味なので、英語の訳の方が正確かもしれません。
 神様が私たちに有罪判定を下したら、私たちは罰を受けることになります。それは怖い言い方をすれば地獄に落ちるということで、肉体の死よりも恐ろしいことです。その意味では、「裁きを受ける」とは「滅びに定められる」とも言い換えられます。
 でも、16節でも読んだように、神様は私たちを滅びから救いたいと願われました。17節では、神様は世を裁くためではなく、救うために御子を遣わされたとも言われています。この神様の憐れみ深さは、旧約聖書の時代からずっと、人類最初の人アダムが罪に堕ちた時から、変わっていません。神様は、罪を犯したアダムのことも、旧約聖書に出てくる神様を裏切る多くの人々のことも、新約聖書に登場する情けない弟子たちのことも、有罪判決を下して罰することはありませんでした。反対に、彼ら全てを憐んで、愛して、導かれました。神様は正義を行う裁き手でありながら、罪人を見捨てることなく、正しい道に導こうとされる方です。
 旧約聖書の詩篇でこう言われています。

2 主は天から人の子らを見下ろし/神を求める悟りある者はいないかと探られる。3 すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。善を行う者はいない。一人もいない。(詩篇14:2-3)

コヘレトの言葉でもこう言われています。

地上には/罪を犯さずに善のみを行う正しき者はいない。(コヘレト7:20)

このように、神様が罪を罪として裁いて罪人を罰する方だったら、私たちは全員、例外なく、罰を受けねばならず、滅びるしかありません。だから、神様は私たち全てを救うために、裁くよりも、憐んで、行動を起こしてくださいました。それがイエス様の十字架でした。

2. 神様は愛だと信じるかどうかの問題

 18節には、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」とあります。「御子を信じる」とは、イエス様は神様の独り子であり、神様ご自身であり、その方が私たちのために命を捧げてくださったと信じることです。それは結局、神様がそのような愛の方であると、そのように私たちを愛してくださっていると信じることです。先にお話ししたように、神様は愛そのものであると信じることとも言えます。

 「信じる者は裁かれない」とは、神様の愛を信じるなら、罪を赦されて、有罪でありながら無罪にされるということです。神様の愛を信じるなら、罪から完全に自由にはなれなくても、罪の中でも神様の愛を信頼して、生きることができるようになるということです。

 では、「信じない者は既に裁かれている」とはどういうことでしょうか?これは、神様の愛を信じないのなら、罪から解放されることなく、罪の中でもがいて生きていくしかないという意味で、それ自体がもう裁きになっているということです。神様はいつでも誰でも私たちを救う準備をしてくださっているのに、それを受け入れないのは私たちの問題です。私たちが救われるかどうかは、私たちが神様は愛だと信じるかどうかの問題だということです。神様は私たちをただ招き、その招きに答えるかどうかは私たちに選択を委ねられたのです。

 私たちが神様を信じようと信じまいと、神様は全ての人を愛し、救いたいと願われました。私たちは、神様に愛されるために神様を信じるのではありません。神様はそんなことを私たちに望んではいません。私たちが神様を信じる前から、神様が先に私たちを愛してくださっているのだと信じることが、私たちの信仰です。だから、「信じない者は救われない」というのは誤解です。

 それでは最後に19-21節を読んでいきましょう。

C. 私たちは闇を好む (19-21)

19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。

1. でも、光を求める

 私たちに光よりも闇を愛する傾向があるということは、先ほど読んだ旧約聖書にもあった通りです。私たちは皆、自分には神様の憐れみなど必要なく、自分の力で普通に生きていけると思い込もうとする傾向があります。自分が本当に正しいかどうか確かめようとせず、自分の傲慢が他人を苦しめ、自分を孤独に追い込むことにもなることを、考えようとしません。それでは私たちは、20節で言われているように、「光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」ままになってしまいます。
 でも、「真理を行う者は光の方に来る」と21節で言われています。これはどういうことなのか考えるために、前回読んだニコデモほど良い例はないと思います。イエス様がどういう方なのか、疑いながらでも、自分のプライドを捨てきれずに人目を気にしながらでも、イエス様に近づいてみることです。まだ闇の中にいても、闇に紛れてでも、イエス様にわずかな光を感じて、望みをかけて、イエス様を知るために一歩を踏み出してみることです。
 これは、信仰を持つ前のことだけではありません。私たちは、一度神様は私たちを愛しておられると知ったところで、すぐに忘れて、分からなくなってしまう弱い者です。だから私たちは何度でも、ニコデモのように、闇に紛れて、ひとりで、イエス様を訪ねます。

2. それは神様の導き

 私たちがそのように罪の中にいながらも、何度もイエス様を求められるのは、それ自体が神様の助けによります。21節の最後に「その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである」とあります。神様は私たちの心に、神様を求める心を与えてくださいます。ニコデモがイエス様に会いに行こうと思ったのも、私たちがイエス様を求めるのも、それは私たちの力ではありません。
 神様は私たちを愛しておられると信じることは、簡単なようで、実はとても難しいことです。自分の苦しみや、大切な人の苦しみや、この世界の状況を見ると、神様は私たちのことなど忘れて見捨てておられるのではないかという疑いの方がずっと大きく感じられます。だから、生きることに絶望して、神様など信じられないと思う人がいることは、残念ながら仕方ないことで、それはそのように思わせてしまう様々な要因があり、その人を責めることはおかしいと思います。
 それでも、闇の中で一筋の光を求めるようなことに思われても、イエス様は、ニコデモを救ったように、私たちにも「光はある」と教えて、導いてくださいます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これがイエス様が私たちに教えてくださった真実です。

(お祈り)主イエス様、私たちは弱い者ですから、どうぞ助けてください。あなたは私たちの罪深さをよく知っておられ、赦してくださり、ご自分の子どもとして愛してくださっていることを、どうぞ私たちがもっと分かることができるように助けてください。あなたの愛が分からなくなる時、どうぞ私たちを互いに用いて、あなたのことを思い起こし、信じることができるように導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

キリスト教信仰は「信じる者は救われる」という教えに誤解されがちです。それは「信じない者は救われない」という無用な誤解と恐怖を生みます。神様は私たちが信じるか信じないかに関係なく、私たち全てを愛しておられる方です。神様を信じるということは、神様は私たちを愛しておられると信じることです。それは実はとても簡単なようで難しく、闇の中で一筋の光を求めるようなことです。でも、神様は私たちにそれができるように導いてくださいます。

話し合いのために
  1. 「信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」(18)とは?
  2. 私たちに「光よりも闇を愛する」(19)傾向があるとは?
子どもたち(保護者)のために

今回いちばん子どもたちに覚えてほしいのは、神様は私たちが神様を信じるから愛してくださるのではなく、私たちが信じようと信じまいと、最初から変わらずに愛してくださっているということです。読むとしたら16節だけでいいかもしれません。神様は、私たちを愛しているから、イエス様をこの世界に送ってくださり、その命を捧げてくださいました。私たちがその愛に応えるか応えないかに関係なく、見返りを求めず、ただ「私の愛の中で生きてみない?」と招いてくだいました。「信じれば救われる」という言葉は間違いではないのですが、自動的に「信じなければ救われない」という無用な誤解と恐怖を生むので、神様を信じるということは神様の愛を信じるということだと覚えてほしいと思います。