2016/6/12 あなたを救わなければならない

池田真理(永原アンディ)・ルカによる福音書19:1-10, ヨハネによる福音書10:14-15

 

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 今日はザアカイの話を読んでいきますが、その中でこのタイトルになっている言葉が私たち一人一人に語られていると受け取っていただければ嬉しいです。私たちが神様に救いを求める以前に、神様ご自身が私たちを救わなければならないと思っているというこことです。今日は最初に全部読みたいと思います。

1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

私が初めてこのザアカイの話を聞いたのは中学生の時でした。ミッションスクールだったので年に1回修養会というものがあり、2泊3日くらいで天城山荘という宿泊施設に学年全体で泊まりました。私も含めて生徒ほぼ全員がクリスチャンではなかったので、修養会と言えばただ友達と一緒にお泊りができて、いかに先生に見つからずに夜更かしをできるかというスリルを味わう、楽しいイベントくらいにしか思っていませんでした。いつも学校の外から誰か牧師先生が呼ばれて来て、聖書のお話をし、3日間をそのお話について色々話し合わされるというものでした。私は不真面目で、話し合いに支障の出ない程度に先生のお話を聞くために睡魔と戦っていました。そして何年生のときだったかは覚えていませんが、ある年の修養会で取り上げられた聖書の箇所がこのザアカイのお話でした。先生がどんな話をしたのかは覚えていませんが、徴税人というのは人のお金をだまして横取りしていたので嫌われ者だったと説明してくれました。徴税人で嫌われ者で、背が低くてイエス様が見たいのに見えなかった人。人に押しのけられて、皆の後ろでぴょんぴょん跳ねていたと思います。そして、道の先に生えている木を見てそうだと思いついて、走って行ってその木によじ登った人。その頃の私にとっては、こういうかっこ悪い人物が聖書に出てくるというのが意外でした。でもそれだけではなくて、今思えば、自分とザアカイは似ていると感じたから印象に残ったのだと思います。
皆さんは自分が嫌われ者だと感じたことはあるでしょうか?私は小学生の時、一緒に帰る友達がいなくてよく一人で帰っていました。友達がいなかったわけではありませんが、人気者でもありませんでした。その時私が感じていた疎外感や孤独は、その後も、友達や家族がいても、いつもどこかにありました。それは社会を生きていれば誰でも感じるものだと思います。どんなに仲のいい友達や家族がいても、私たちは皆ザアカイと同じで、どこかに孤独を感じています。それはかっこ悪くて自分でも認めたくないものかもしれません。でも、何回か前のAndyさんのメッセージにあったように、その孤独は神様を知る上で必要な孤独です。人間には満たすことのできない、神様にしか埋められない、私たちの心の空白です。イエス様に出会うまで、それを何に求めればいいかも分かりませんでした。
ザアカイも同じです。彼はイエス様に質問したいとか、病気を癒してほしいとか、具体的に求めているものはなく、ただ好奇心でイエス様に近づいています。でもイエス様の方は彼の心にある思いを知っていました。イエス様のザアカイに対する呼びかけは、一見あまり特別な意味はなさそうに思えます。でも、結果的にはザアカイの人生を変えてしまいました。イエス様の呼びかけに、どこにそんな力があったのか、これから少しずつ注目していきたいと思います。もう一度5節だけを読みましょう。

 

A. 人生を変えるイエス様の呼びかけ

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

・「ザアカイ」

イエス様はザアカイと今まで会ったこともないのに、「ザアカイ」と呼びかけました。知らない人から自分の名前を呼ばれて、ザアカイはとてもびっくりしたはずです。それは、人であり神様でもあるイエス様の「私はあなたを知っているよ」ということの表明です。ザアカイはイエス様を知りませんでしたが、イエス様の方ではザアカイのことをよく知っていたということです。同じことが私たちにも起こります。私たちもイエス様のことを知りませんでしたが、イエス様は私たちそれぞれのことをよく知っています。そして一人一人の人生に入ってきてくださる方です。イエス様との出会いはとても個人的なものです。自分のことをイエス様が本当に知っているのか、それは結局自分で確かめるしかありません。確かめる方法は、まず聖書を読んで、自分でイエスという人がどういう人で、何を教え、何をした人だったのか探ることです。そして、自分の周りにいるイエス様を信じている人と話すこと、その人たちの生き方を見ること。そして実際に心の中でイエス様に呼びかけてみることです。聖書の言葉を通して、また他の人たちの言葉を通して、私たちは「これこそ今自分に必要な言葉でした!」という興奮を、何度も経験できます。また、ひとりで祈る中でも、みんなで歌いながらでも、不思議と「神様は共にいてくださっている」と分かる時があります。そういう経験はとても個人的ですが、その人にとってはリアルなものです。「イエス様は私のことを知っている」ということを、まだ体験していらっしゃらないなら、ぜひ体験していただきたいです。そして、一度だけでなく何度でも教えていただきましょう。

・「急いで降りてきなさい」

次にイエス様はザアカイに「急いで降りてきなさい」と言いました。「ザアカイ」と名前を呼んでザアカイを驚かせた次は、そんなところにいないで早く降りてきなさいという命令だったということです。それはイエス様とザアカイの距離が近づく最初の一歩でした。ザアカイの方はイエス様に近づきたくても近づけませんでしたが、イエス様はそれを知っていてご自分から彼を引き寄せました。こちらに来なさい、私の方に来なさい、という呼びかけは、私たちにも向けられています。なぜイエス様はザアカイを呼び、私たちを呼んでくださるのか、その答えが次の一言にあります。

・「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」

「今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」日本語では希望を表す弱い表現(I want to stay at your house today)ですが、英語では “must” が使われていて、「あなたの家に泊まらなければならない」という強い表現です。英語の方が原語に即しています。これは、イエス様がザアカイに声をかけたのは偶然ではなく、神様の計画によるものだということです。旅人が旅先で他人の家に泊まるということは、当時は珍しくありませんでした。旅人を迎えてもてなすということが一つの美徳でした。その意味ではイエス様が見ず知らずのザアカイの家に泊まること自体は特に変わったことではありません。でも、イエス様の「今日はあなたの家に泊まらなければいけない」という言い方はやはり大胆です。それはまるでザアカイが自分の古い友人であるかのように、自分の頼みを断るわけがないと分かっているかのような、親しみのこもった言い方です。イエス様はこの言葉を通して、自分はザアカイを他の人々のように嫌っておらず、むしろ親しい友人だと思っていると伝えました。それが神様のザアカイに対する計画でした。神様はザアカイが自分は愛されていて、神様に忘れられていないということを知らなければいけないと思っていたということです。だから、「今日はあなたの家に泊まらなければならない」は「今日あなたに知らせなければならない。私はあなたを愛していることを。」に言い換えられます。それは、「あなたを救わなければならない」とも言い換えられます。
ザアカイはこのイエス様の呼びかけに応じて、イエス様を家に招きました。そしてそれまでの自分の行いを反省しました。自分が知るよりも前に、神様は自分のことを知ってくださっていたと分かったからです。また、自分が神様を求めるより前に、神様の方が自分のことを愛してくださっていたと分かったからです。私たちは、このザアカイの物語から、救いとは何かが分かります。それは、「あるべき場所に帰ること」です。

 

B. 救いとは

 

・あるべき場所に帰ること

今日最初に、誰にでも神様にしか埋められない心の空白があるとお話ししました。毎日の生活を楽しく過ごしていようと、悲しみの中に暮らしていようと、誰にでも孤独があります。それが神様にしか満たせないものだとあきらめなければ、私たちは他の人に埋め合わせを期待してがっかりすることになります。でも、神様に満たしてもらうことができると分かったなら、他人が自分に何を与えてくれるかくれないかは怖くなくなります。私たちの生活の中心は、本当は神様しかいません。神様の方では、私たち一人一人のことを救わなければいけないといつでも思っています。イエス様の十字架によって、私たちの罪は神様自身が負ってくださいました。私たちには神様といういるべき場所があり、そこに帰る道はすでに与えられています。

最後に、ヨハネによる福音書の言葉を紹介して終わりにします。(ヨハネ10:14-15)

 

・羊飼いは羊を知っており、羊も羊飼いを知っている

14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる

あなたの名前を呼んで、こっちに来なさい、あなたを救わなければならないと言われているイエス様の呼びかけに、どうぞ耳を澄ましてください。あなたはその声を知っているはずです。

 

メッセージのポイント
ザアカイはイエス様を知りませんでしたが、イエス様はザアカイを救わなければいけないと知っていました。そして、まるで古い友人であるかのように、当然そうすることになっていたかのように、ザアカイに呼びかけます。呼びかけられたザアカイは、自分が求めていたものはイエス様にあると分かりました。私たちもイエス様に呼びかけられて、自分がいるべき場所を知り、神様に愛されていると知ります。

 

話し合いのために
1) ザアカイはなぜ変わったのでしょうか?
2) それぞれがイエス様に呼びかけられた経験を話してください。

 

子供達のために
ポイントは5節です。日本語では「ぜひあなたの家に泊まりたい」となっていますが、英語では “must” が使われているように、「あなたの家に泊まらなければならない(泊まることになっている)」とイエス様は言われました。それは、ザアカイがどんな罪人だったとしても、神様はザアカイを救いたいと願っていたからで、イエス様は神様の計画に従って彼と出会ったということです。イエス様はザアカイに「行いを改めなさい」とも「あなたは間違っている」とも何も彼を責めることは言いませんでした。ただ、「私はあなたを知っているし、あなたを愛している」と伝えました。それが彼を変えました。みんなでザアカイの気持ちになって話し合ってみてください。