永原アンディ・テモテへの第二の手紙 3:1-17
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今日のテキストには、「しかしあなたは」と呼びかける言葉が目立ちます。周りの状況や人々の態度と私たちが求められているものとかなり違うので、パウロはこう繰り返しているのです。まず6節までを読みましょう。
A. 信心を装いながら、その実、信心の力を否定する人々
1) 彼らの特徴 (1-6)
1 しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。2 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。3 また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、4 人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、5 信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。6 彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです。彼女たちは罪に満ち、さまざまの情欲に駆り立てられており、
パウロはまだ来ていない時期について書いているのではありません。終わりの日はいつ来るかわからないとしても、終わりの時期はすでに来ていると考えています。なぜならここに書かれていることは、既にエフェソの教会で起こっている問題だからです。そして終わりの時期は今も続いています。私たちが知らなければならないことは、教会の中で書かれているようなことが起こり続けてきたということです。このことを多くの人々が誤解しています。避けるべきなのは異教徒や無神論者ではないのです。私たちにとって彼らは、困っていればその必要を満たしてあげるべき人々であり、あなたの愛と力の源がどこかと聞かれた時には、イエスを紹介すべき人々です。できるだけ仲良く付き合って行くべきです。イエスはまさにそのように人々の中に軽々と入って行きました。2節から4節で批難されている事は教会の外でも起こっていますが、パウロが問題にしているのは教会の中でのことでする。自分はイエスを主と信じていると思っている人々がしていることなのです。私たちが近付いてはいけない人々は残念なことにキリスト教徒の中にいるのです。2節から6節にかけての実例をいくらでもあげることができますが、情けなくなるので、二つだけにします。「自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になっている」人たちは、全く珍しくありません。神様の国のためと言いながら、じぶんの帝国を築くために人を集め、お金を集め、それを効果的にするために、私は日本の使徒だとか、神様に直接任命されているとか、いつも神様と文字通り顔と顔を合わせているとか言い、私のミニストリーに献金すれば、癒される、お金持ちになれると言うような人々です。「情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍」というのは、例えば「イスラム教は邪悪な宗教でイスラム教国には核兵器を使うこともためらってはいけない」とミスタートランプでも言わないような事を言うような人々です。実際に現代のキリスト教指導者の中に「素晴らしいキリスト教」対「邪悪な周りの世界」という単純な対立を強調して、邪悪な宗教からキリスト教に回心させることが宣教だと思い込んでいる人は少なくないのです。二種類だけ例をあげましたが、どちらも、信心を装い、イエスを伝えていると言いながら人々をイエスから遠ざけている人々です。このような人々は自分のために何とか人々の関心を集めたいと考えていますから、言葉も巧みで、人々の心を捉える方法もよく知っています。
しかしあなたは、このような人々に近づいてはいけません。
2) どうしたら真理の側に立てるのか (7-9)
7 いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。8 ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、彼らも真理に逆らっています。彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。9 しかし、これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。ヤンネとヤンブレの場合もそうでした。
前回お話ししたように、彼らを攻撃することが私たちのすることではありません。「しかしあなたは」と言われている通り、私たちが全力を注いですべきことは、求める人々に救いの手を差し出すこと、イエスを紹介することです。「真理を持たない、真理に逆らっている」と言われている彼らに対しては、警戒して近づかないこと、人々に近づかないように警告することだけをしていればいいのです。ところで、彼らが逆らっている真理とは何でしょう?日本の法律の中に一つだけ聖書の言葉が使われていることを知っていますか?国立国会図書館法 (National Diet Library Act) の前文はヨハネによる福音書8章32節で始まります。それは図書館のロビーにも刻まれています。 真理はあなたたちを自由にする。The truth will set you free. という言葉です。それを見る人は、「いいですね、なんだか深い哲学的な言葉ですね」と感心するのですが、真理がなんであるかを知らなければこの言葉は意味がありません。もうひとつ前の31節から読めばわかるのです。
31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
イエスの弟子であることが、真理に立つことであり、私たちが完全に自由になれる方法なのです。お話ししてきたようにキリスト教会のメンバーになることが必ずしも弟子になっているとはいえません。
しかしあなたには、イエスの弟子になっていただきたいのです。
イエスの弟子とはどのような者を指すのか?次の部分から考えてゆきましょう。
B. しかし私たちは….
1) イエス・キリストに結ばれて生きる(10-13)
10 しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、11 アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。12 キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。13 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。
イエスは大胆にも、私が道であり真理であり命ですといいました。(ヨハネ14:6) それで、真理があなたを自由にするというのですから、つまり私があなたを自由にするといっているのです。こんなことを言う人に対しては絶対に関わらないか、命がけでついて行くべきかのどちらかの態度をとるべきです。関係なく生きるか、弟子になるかの選択です。弟子になるということを、この部分では「キリストに結ばれて生きる」と表現しています。弟子は、限られた時間の中で先生から教えられる生徒とは違います。弟子は師と生活を共にして師のあらゆる行動、態度、言葉を見て真似をして、師のようになってゆきます。いつまでたってもイエスと同じにはできません。それでいいのです。ただ何度失敗しても懲りずにイエスを真似ながらついてゆけばよいのです。イエスに結びつくことは、弟子となることは、イエスを敵、危険人物と考える人々の中で、「それでも私たちは」と言ってイエスについてゆくことなのです。もう一つこの部分で注目しておきたいことは、パウロがキリストに結ばれて生きることを勧めながら、自分自身の歩みに倣ったテモテをほめていることです。パウロもテモテも私たちも最初の弟子たちとは違い、イエスと生活を共にした経験はありません。私たちはイエスに直接倣う機会を持つことはできないのです。だからパウロは自分に倣うことを勧め、テモテはパウロに倣いました。
あなたが「私に倣いなさいなんてとても言えない」と思っているなら、あなたの精神は健康です。自分の弱さ、不完全さを知っているからです。一方、最初にお話ししたような、私たちが関わりにならない方がいい人たちの方は「私に従うことが神に従うことなのだ。私のようになりなさい」と何のためらいもなく言うのです。それは高慢、思い上がりです。パウロは高慢でもなく思い上がってもいません。自身の弱さをいくつかの手紙の中で率直に告白しています。私たちはどんなに自分が不完全であっても、私に倣いなさいと言う必要があるのです。これはキリストの体の宿命(destiny)です。あなたを通して、誰かがキリストに出会うとはそういうことです。自分は不完全ながらも懸命にイエスについて行く。人には、「不完全な私の中にかすかに見えるイエスの生き方をなんとか感じ取ってください」という願いながら、私に倣ってくださいと言うのです。それは高慢からくる言葉ではなく、自分のうちに働くイエスの霊への信頼からくる言葉です。イエスキリストに結ばれて生きる弟子たちの行動、態度、言葉が、キリストの体、教会を今日まで、内に問題をたくさん抱えながらも成長させてきたのです。しかし、倣う方の側からすれば、誰が本当に倣うべき人なのか、そうではない人なのかを見分けなければならないという難しさがあります。かつてはそうであった指導者が、変な道に逸れていってしまうということは実際起こるのです。
しかしあなたは、そのような人についていってはいけません。なぜテモテはパウロを信頼できたのでしょうか?皆さんはどうしたらユアチャーチでなされる教えが健全なものであるかどうか見分けることができるのでしょうか?このことについて次の部分から学びましょう。14-17節です。
2) 聖書の教えによって整えられる (14-17)
14 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
周りの人々が、異なる教えにそれて行く時にも、私たちが真理の側に立ち続けることができるのは、私たちが、誰も書き換えることを許されていない聖書を与えられているからです。パウロは、私に倣いなさいと言いますが、私から離れてはいけませんとは言いません。「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。」と言っています。最終的な権威は聖書にあるということをここで伝えているのです。イエス・キリストを直接見ることができない時代の私たちにとっては、尊敬できる他の弟子に倣いつつも、自分自身が聖書を通してしっかりとイエスに結びついていかなければならないということです。人を通してだけ繋がっているなら、その人が離れて行った時に自分も離れていってしまうことになります。日頃から聖書に親しみましょう。それは新しい聖書研究会を始めましょうということではありません。それまでの経験から、ユアチャーチを始める時、日曜日に取り上げるテキスト以外には、聖書研究会や、祈り会で他の聖書の箇所を紹介するのはやめることにしたのです。他の教会から来た人には、聖書研究会はないのですかと聞かれるのですが、ともに読む聖書は一箇所でいいと思っているのです。それ以上になっても消化不良になってしまうことを知っているからです。それより日曜日のメッセージを思い出しながら、そのテキストや関連するテキストを読んで、月曜から土曜日までの日常生活の中で適用してみることを試みてください。子供の教会でも同じテキストをベースにしていますから、親子で読んだり話したり祈ったりしてみたらどうでしょう。それはもう立派なミニチャーチです。ミニチャーチはその助けになるので、ぜひ参加していただきたいのです。日曜日に話したメッセージについてみんなで話し合っていれば、指導者が真理から離れ始めたらすぐわかるでしょう。
そのようなことが起こったとしても、しかしあなたは、聖書の教えによって整えられて、注意深くイエスから離れないように歩んで欲しいのです。
メッセージのポイント
私たちが真理の側に立ち続けるために背を向けなければならないのは、他宗教やイデオロギーを信じる人々ではなく、むしろ信心を装いながら、その実、信心の力を否定する人々です。イエスに従っていると言いながらイエスに逆らい、周りの人を巻き込んで彼らをイエスから引き離す人々に関わりを持たないように、聖書の教えによって整えられて、注意深くイエスから離れないように歩んで行きましょう。
話し合いのために
1) 私たちはどのような人々を避けるように警告されているのでしょう?
2) ここには聖書の価値がどのようなものであると記されていますか?
子供達のために
今日のポイントは「本当に大切なのは、キリスト教に従うことではなく、イエスに従うこと」なのですが、子供達には抽象的な議論は難しいので、14節以下を中心に、よく聖書に親しんでイエスに喜ばれる生き方をするよう勧めてください。イエスは道徳的水準を求めているのではなく自分に依り頼んでついてくることを求めています。(金銭を愛することをやめましょう、親の言うことを聞きましょう、たくさん聖書の言葉を覚えましょうという話にならないように、気をつけます)1−5のリストに対比しているのは霊の結ぶ実(ガラテア5:22, 23)です。もし取り上げられれば紹介して、何よりも大切なのはイエスを信頼することだと伝えてください。