池田真理 (ルカ 19:28-44)
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今日読んでいく箇所は、よくイースターの時期に読まれる箇所です。イエス様がエルサレムに入る場面です。イエス様はロバの子の背に乗ってエルサレムに入りました。そのことは、このルカによる福音書だけではなく、マタイ・マルコ・ヨハネ全ての福音書にも記録されています。でも、ルカの記録を他の福音書の記録と比べると、だいぶ違う点があることが分かります。それはルカが間違っていて他の福音書が正しいというわけではないし、その逆でもありません。ただそれぞれの福音書は、同じ出来事でも違う視点から違う読者にあてて書かれているために、強調点が違うということです。少しずつ読んでいきましょう。最初に28-36節です。
A. 預言されていた平和の王 (28-35, ゼカリヤ 9:9-10)
28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
いよいよイエス様がエルサレムに入るということで、人々の興奮は頂点に達していました。イエス様がかつてのダビデのような王様になる日も近いと思ったからです。そんな中で、イエス様はろばの子に乗ってエルサレムに入りました。イエス様はわざわざ弟子を使いに遣って、子ろばを引いて来させました。イエス様にしてはもったいぶっていて、変わったことをしたように思います。なぜこんなことをしたのか、そのヒントがイエス様の言葉にあります。31節「もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」この「主がお入り用なのです」という言葉は不思議な言葉です。英語でも日本語でも単に「主」と言われている言葉は、話の流れから考えると、弟子たちの視点から見て「私たちの主 Our Lord がろばを必要としているのです」という意味で考えるのが自然です。でも、原語のギリシャ語では、この「主」は「私たちの主」ではなく、「このろばの主 The Lord of this colt」と言われています。イエス様はろばの持ち主ownerではないのに、自分はそのろばの主Lordだと言ったということです。ここには、イエス様が神様によって約束されていた本当の王であるということが隠されています。旧約聖書でこう預言されていたからです。ゼカリヤ書9:9-10です。
ゼカリヤ9:9-10 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。
この預言によれば、神様が旧約聖書の時代から約束していた王は、神様によって勝利を与えられ、戦争を終わらせ、世界に平和をもたらす王でした。そして、その王はろばに乗ってエルサレムにやってくると言われていました。戦争で活躍する馬ではなく、人々の生活に欠かせないろばです。だから、ろばがそこにいたのも、イエス様がそのろばに乗ったのも、すべて神様の計画によって定められていたということです。
この預言を知っていたのはイエス様だけではありません。そこにいた人々も知っていたはずです。だからこそイエス様を喜んで迎えたのですが、それはまだ神様の計画をすべて理解して喜んでいたわけではありません。神様の与える勝利や平和、本当の王というのは、人々が考えていたようなものではありませんでした。続きを読んでいきましょう。
B. 平和とは言えない現実
1)「天には平和」(36-38)
36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38 「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
人々は、イエス様が神様から与えられた自分たちの新しい王なのだと信じていました。そして、王が凱旋したかのように喜びと敬意を持ってイエス様を迎えました。でも、イエス様がエルサレムに入ってからイエス様の身に起ころうとしていることは、こんな歓迎とは正反対の、人々の憎しみと拒絶です。そのことを、ルカはここですでに表そうとしています。それは、38節の人々の賛美の言葉に表れています。その後半、「天には平和、いと高きところには栄光」は、どこかで聞き覚えがある言葉です。イエス様が誕生した時に、天使たちが羊飼いたちの前で言った言葉です。2:14「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、みこころに適う人にあれ。」似ていますが、違いがあります。イエス様誕生の時には、「地には平和、みこころに適う人にあれ」だったのが、今日の箇所では「天には平和」となっていることです。ここには、この福音書の記者であるルカが感じていた、地に平和とは言えない現実があります。この先の39-44節は他の三つの福音書にはないルカ独自の記録です。ルカはここに、平和とは言えない現実を描いています。まず39-40節です。
2) イエス様を憎む人々 (39-40)
39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
ファリサイ派の人々は、イエス様が賛美されていることに怒っていました。その理由は、おそらく特に38節の前半です。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」という部分です。「主の名によって来られる方」とは、つまり神様に選ばれた者、神様の代弁者という意味です。ファリサイ派の人々はイエス様が神様の代弁者だとは思っていません。むしろ自分たちの方が神様に近いと思っていました。だからイエス様に、自分を神とするな、という意味で「お弟子たちを黙らせてください」と要求しました。イエス様はその要求に応じず、弟子たちを黙らせる必要はないと応えます。それは、自分が受けている賛美は当然で、自分は確かに神であり王なのだということです。この後、イエス様とファリサイ派の人々はますます対立を深めます。そして、最終的にはイエス様が十字架で殺されることになりました。こういうイエス様に対する暴挙が起ころうとしているのに、「地に平和」とはルカは言えなかったということです。
このファリサイ派の人たちがイエス様に対して持っていた感情というのは、私たちにも共通するものです。それは平和を壊し、争いを起こす原因となります。ファリサイ派の人たちがイエス様を敵対視した理由は、イエス様が自分たちの地位を危うくするかもしれないという恐れと妬みでした。それが憎しみと怒りとなり、彼らは人々を扇動してイエス様を殺す結果になりました。今、私たちの世界にもますます憎しみと怒りが広がっています。バングラデシュで起こったテロについて、背後にはISの影響があると言われています。ISは破壊集団であって、その主張に正当性はありませんが、ああいう組織を生み出したのは今のこの世界です。不平等であり、格差が広がり、富んでいる人たちは貧しい人たちを犠牲にして富んでいると言えます。抑圧されている人々が怒りを感じるのは当然と言えます。その怒りをISのような集団が利用しています。世界の歪みは最近アメリカで起こっていることにも現れています。警察官が何の罪もない黒人男性に発砲して殺してしまったという事件も、その後に10人以上の警察官が黒人男性に狙撃されたという事件も、その背後にとても根深い問題があるのだと思います。人種間の差別は、互いに対する無理解によって起こる恐れと妬みです。そして恐れが憎しみを正当化し、暴力を生み、その暴力がまた恐れと暴力を呼びます。また、アメリカでもイギリスでも日本でも、ここのところ民族主義と排他主義が支持を集めるようになってきました。それは自分の利益を損なっているのは自分と異なる人々のせいだというメンタリティです。ファリサイ派の人たちがイエス様に感じた脅威と本質的に同じです。相手のことを知ろうとせずに、ただ恐れと憎しみから行動を起こそうとします。神様はこんな世界の状況を誰よりも嘆いておられるでしょう。続きを読んでいきましょう。
3) エルサレムの悲劇 (41-44)
41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
ここで言われていることは、実際にAD70年に起こったエルサレムの悲劇です。ローマ帝国に対してユダヤ人は反乱を起こしましたが、失敗しました。エルサレムには火が放たれ、多くの人々が犠牲になったと言われています。数年前に完成したばかりの神殿は破壊され、二度と再建されることはありませんでした。ルカがこの福音書を書いたのはこのエルサレムの悲劇から10年後か20年後くらいだと言われています。人々の記憶には、平和とは正反対の破壊が生々しく残っていた頃です。イエス様が平和をもたらす王だとしたら、なぜ現実には平和がないのか、多くの人が疑問を持っても不思議ではありません。それに対するルカの答え、そしてイエス様自身の答えがこの41-44節です。
イエス様は都のために泣いたと書かれています。イエス様が泣かれたという記録は、聖書の中に2箇所だけあります。ここと、ヨハネによる福音書の1箇所です。イエス様は、平和とは言えない現実に誰よりも先に心を痛めていました。それがたとえ、人間が自らの罪によって招いた結果でも、イエス様の悲しみは変わらなかったでしょう。それは今の私たちの世界についても同じです。イエス様は、バングラデシュのテロもアメリカの事件も、誰よりも嘆いておられるはずです。そしてエルサレムに対して言われたのと同じように、私たちのこの時代にも、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…」こんなことにはならないのに、と言われているでしょう。イエス様は私たちにどのように平和を実現するように言われているのでしょうか。最後にこのことをお話しして終わりにしたいと思います。
C. イエス様のもたらした平和
ファリサイ派の人たちにしても、世界で今起こっていることも、互いに対する無理解と恐れ、嫉みが根本にあるとお話ししました。そしてそれが憎しみと暴力を起こし、対立を深めます。この負の連鎖を止める方法は一つしかありません。それは互いを受け入れ、許すということです。けんかをした相手を自分から許すということは、大きな決心と努力が必要です。相手から受けた傷が大きければなお難しくなります。それでも、自分がそうしなければ、負の連鎖は止まりません。そして、どうか今日一番覚えていただきたいのは、この負の連鎖を誰よりも悲しんで止めようとされたのは神様だということです。イエス様が十字架で苦しんで死ななければならなかったのは、私たちに負の連鎖は止められるということを示すためでした。それは、私たち一人ひとりが、イエス様が自分のために苦しんで死なれたということを受け入れることから始まります。ファリサイ派の人たちはイエス様を妬んで争っていましたが、それは神様と争っていたことになります。神様がどんな方かを知らなければ、私たちも自分を神様にするしかなく、ファリサイ派の人たちと同じになってしまいます。そして負の連鎖が止まることはありません。神様は、イエス様を通して私たちをどれほど愛してくださっているかを教えてくださいました。だから、イエス様を心に受け入れることによって、私たちは神様を知り、自分を神様にする必要がなくなります。それが、イエス様が私たちにくださった平和です。それは単に戦争がない状態を指すのではなく、目に見える状況がどんなであれ、恐れと憎しみから解放された心です。イエスという平和の王様を心に受け入れてください。そこから、全ての平和が始まります。
メッセージのポイント
イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入ったということは、四つの福音書全てに記録されていますが、ルカによる福音書では特にイエス様と「平和」を結びつける形で描いています。イエス様を拒むなら、平和を拒むことになります。イエス様だけが、私たちと神様の間に平和をもたらして下さる方です。イエス様を心に迎えることが全ての平和の始まりです。
話し合いのために
1) イエス様のもたらした平和とは何ですか?
2) この箇所は詩編118篇とも関係が深いと言われています。読んでみて、感じたことを話してみましょう
子供たちのために
「平和」と聞いて、子供たちはどういうことを連想するでしょうか?普通は戦争のない状態のことを平和と考えます。でも、イエス様のもたらした平和は、まず第一に神様と私たちの間の平和です。友達や家族との関係でも、世界規模でも、神様が中心になっていないから争いが起こります。一人一人が心にイエス様を王としてお迎えすること(自分にとって一番大切な人は自分ではなくイエス様だと知ること)が平和の始まりだと話してみてください。