2016/8/7 神様に仕え、権力者に従う

池田真理
(ルカ20:20-26, ローマ13:1-10, 1ペテロ2:13-17)

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神様に仕え、権力者に従う

 今日読んでいくルカの箇所は、一ヶ月前の選挙直前のメッセージで読まれたマタイの箇所と並行している箇所です。地上の権威、政治的権力者に対して、私たちはどういう態度をとるべきか、ということが書かれています。これは先週の話とも無関係ではありません。私たちは一人ひとりが神様によって送り出されている使徒だというお話です。神様は私たちがこの世との関わりを絶って隠遁生活をするように望まれているわけではありません。その正反対に、イエス様が旅をして回ったように、この世界の中でイエス様の手足となって人々の必要を満たすように望まれています。そのためにより良い政治を求め、社会的責任を果たして良く生きるというのも私たちの義務です。今日はこのテーマに従って、最初にルカを読み、その後パウロのローマの人々への手紙を読んでいきたいと思います。とても誤解しやすい箇所ですが、文脈を考えていけば間違うことはありません。最初にルカです。

 

1. イエス様の原則: 皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい (ルカ 20:20-26)

20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。21 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。22 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」26 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

イエス様を罠にかけようとした人々は、「皇帝に納税することは良いことか悪いことか」と質問しています。このことは実はユダヤ人の内部で意見が割れていた問題です。納税推進派もいれば反対派もいて、反対派の中にも穏健な人たちと熱狂的な民族主義を唱えて断固反対という人たちもいました。納税推進派は、ユダヤ人の中でも政治権力を持っていた人たちです。彼らはローマ帝国とうまくやっていくためには納税しなければならないと考えていました。反対する人たちは、穏健派にしても強硬派にしても、異教の支配者に税を納めることが間接的に異教の神を崇めることになると考えました。彼らは主に律法学者や民族主義者で、異邦人の支配者に納税しなければならないことに対して人々が感じていた不満に応える形で、律法を解釈していたと言えます。でも実際には、表立って納税反対を唱える人は多くはいませんでした。ローマに対する反逆だとみなされて処罰されるからです。人々の狙いは、イエス様が納税に反対して、ローマに反逆したと訴える口実を作ることでした。イエス様はこれまでに自分は王であり神の子であると公言してきたので、皇帝に税を納める必要はないと言うと思っていたのでしょう。彼らが考えていた王というのは政治的・民族的な意味での王様でした。もしイエス様がそういう意味での人間の王なら、自分に忠誠を誓うかローマに忠誠を誓うか、どちらかの選択を人々に迫ったかもしれません。
でも、もう私たちはよく知っている通り、イエス様はそんなことはしませんでした。イエス様が王であるということは、何人もいる人間の王たちや皇帝たちと並んで、その中の一人であるという意味ではなく、全ての人間の上に立つ王であるということだからです。そのことが、イエス様のシンプルな答えで言われていることです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」選挙の時のメッセージで言われたように、この後半の「神のものは神に返しなさい」というのは、自分を罠にかけようとした人々に対するイエス様の鋭い反撃です。自分の生活と人生全ての主導権を神様に返しなさいという意味です。納税推進派も反対派も、このことを忘れていたために、的外れな理由でそれぞれの主張をしていました。推進派はローマへの迎合、ご機嫌取りのためです。穏健な反対派は律法の表面的な理解にとどまり、断固反対派は民族主義にとらわれていました。それは全て、神様への礼拝よりも自分の都合を優先していたからです。神様を他に並ぶもののない王様として心から礼拝するなら、自分の立場や民族の利益にとらわれずに、権力に迎合することも民族主義運動をすることもありません。
これが、私たちが権力者に対して取るべき態度の原則です。私たちはまず第一に神様の権威の元にあり、人間のどんな権力者にも属さず、神様に属しているということです。私たちは人間のどの権力にも取り入らず、自由な立場でこの世界の中で神様に仕えます。それが具体的にどういう意味になるのか、パウロが詳しく説明してくれています。ローマ13:1-10を読んでいきましょう。

2. パウロの説明 (ローマ 13:1-10)
a. これは普遍的な指示ではない (1-2) 

1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう

 まず注意しなければいけないのは、これは時代や社会状況を超えて普遍的に守らなければならない指示ではないということです。パウロがこれを書いたのは具体的にAD1Cのローマの教会の人々であって、パウロはまさか自分のこの手紙が2000年にわたって世界各地で読まれるとは思っていません。さっき、ルカを読んだときに、納税に反対する熱狂的な民族主義者たちがいたとお話ししました。彼らは「熱心党Zealots」と呼ばれて、この手紙が書かれた頃、反ローマ運動をますます活発にしていました。その影響が、ローマの教会のユダヤ人たちにも及んでいました。パウロはそういう民族主義的な興奮に注意を促しています。当時のローマは平和で、教会が特に反逆しなければならないような事態にはなっていませんでした。だからこの1-2節のような言葉になったということです。もしパウロが、この1-2節をどんな権威にも従いなさいという意味で言っていたとしたら、彼自身もユダヤ人の権力者たちに従順にふるまい、殉教することはなかったはずです。
第二次世界大戦中のドイツで、ヒトラーの暗殺計画に加わった牧師がいました。ボンヘッファーという人です。彼は神学者でもありましたが、ヒトラーを黙認していることの方が彼を殺すよりも罪だと考えました。彼は一度はアメリカに亡命したものの、ヒトラーの暴走を止めるためにドイツに戻り、結局捕まって処刑されました。もしボンヘッファーがこのパウロの言葉を文字通り受け取っていたなら、こういう行動には出なかったでしょう。牧師が人を殺す計画に加わるということは許されるのか、それは色々な意見があります。でも、少なくとも当時のドイツでヒトラーの暴挙を見て見ぬ振りをせずに、自分の身の危険を顧みないで行動にうつした牧師がいたということは、教会の歴史の中でこれからもずっと覚えられていくだろうということは言えます。ボンヘッファーの選択はギリギリの極限状態でされました。私たちはそこまでいってしまう前に、できるだけ早くに時の権力者たちが誤った方向にいっていることを見抜いて、平和的・民主的な方法で解決するように注意している必要があります。
では続きの3-7節を読んでみましょう。

b. 異邦人の権力者を「神に仕える者」と言う寛容さ (3-7)

3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

 ここから分かることは、権力者も私たちもすべきことは同じで、悪を行わずに善を行うことを求められているということです。そのことを次のcでお話ししていきますが、その前に注目しておきたい点があります。それは、ここでパウロが「権威者は神に仕える者」だと明言していることです。ここでの権威者はローマ帝国の支配者を指すとお話ししました。ですから、パウロはここで異教の支配者も「神に仕える者」だと言っているということです。これは多くのユダヤ人にとって考えられない発言だったはずです。現代ですら、ここまで宗教的に寛容な態度は誰もが持てるものではありません。宗教が多くの戦争の原因になったのは、それぞれが自分達こそが神の側にいると信じて、相手は神の敵だと信じたからです。その教訓がやっと信教の自由という形で法律で守られるようになったのは、人権という概念と共にここ数百年のことです。しかも今でも、法律はあっても忘れられたり、実際は対立が続いている場合も多くあります。その中で、このパウロの発言はとてもオープンで時代の先をいく考え方でした。それはパウロがイエス様と出会って、神様は全ての人を愛し、ユダヤ人も異邦人も関係ないのだということに確信を持っていたからです。そして、誰が正しいか間違っているのか、最終的な判断は神様のみが下すのであり、私たちは一人一人が自分の行動に責任を持つことに集中すべきだと信じていました。では何を基準に私たちは行動すべきかということが、「善を行い、悪を避けなさい」ということです。

c. 権力者も私たちもすべきことは同じ=悪を行わず、善を行うこと (3-7, 1ペテロ2:13-17)

3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

 パウロは3-7節で、権威者は良いことのために神に仕えており、悪を行う者を罰する役割があると言っています。だからあなたたちも善を行うようにしなさいと勧めています。5節では、それは「怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも」しなければいけないことだと言われています。ここで何が前提にされているかというと、何が善で何が悪か、それをあなたたちは自分で良心に従って判断できるということです。このことはペテロの手紙でも言われています。

1ペテロ2:13 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、14 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。16 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

私たちは、「自由な人として」、そして「神の僕として」、何が良いことで何が悪いことなのか、自分で判断して行動しなさいと言われています。ペテロもパウロもローマの支配者たちは善を行い悪を避けていると判断していたので、彼らに従いなさいと言っていますが、権力者には誰でも盲目的に従いなさいとは言っていません。このペテロの13節ではっきり言われています。「主のために」従いなさいということです。15節にも、善を行い悪を封じることが神の御心だと言われています。だから、権力者であろうとなかろうとしなければならないことは同じで、善を行い悪を避ける、ということなのです。その中で、時の権力者が神様の意志に適っているかどうか、そして彼らに命じられる様々な要求が良いことか悪いことか、自分のためではなく主のために、主の僕として、判断して行動することが私たちにも求められています。ではなぜ、私たちには善悪の判断ができると言えるのか、それが続きのパウロの言葉から分かります。最後にローマ13:8-10です。

d. 神様を愛し、全ての人を愛する (8-10)

8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

 愛が全ての基準だということです。イエス様は、隣人を自分のように愛するとはどういうことか、身をもって教えてくださった方です。イエス様が教えてくださった愛は、他人のために自分が犠牲を払うこと、苦労を惜しまないことです。私たちは個人としてそんな愛に生きることができるように願うと同時に、この愛に反する法律や政治を監視していなければいけません。特定の人種・宗教を排除したり、弱者を差別したり、自分の国の利益だけを追求したりする人たちには、はっきりと反対しなければいけないということです。
8月は日本にとってエモーショナルな月です。戦後71年を迎え、戦争を直接知る世代は非常に少なくなりました。太平洋戦争が起こる前、日本の多くの人たちはまさかあんな戦争になるとは思っていなかったのだと思います。でも実際戦争は始まりました。当時の権力者がそう決断したのであり、それを許したのは一人一人の国民です。今日はメッセージのタイトルを「神様に仕え、権力者に従う」としましたが、神様に仕えることなしに権力者に従うとしたら、また同じ過ちを繰り返すことになります。神様を愛し、イエス様が愛してくださったように人々を愛するために、その目的のためだけに善悪を判断し、権力者に従いましょう。それ以外の目的で従う必要はなく、従ってはいけません。でもその目的に適っているなら、どんな背景の権力者であっても、パウロの寛容さを見習って、彼らも神様に仕えていると言える柔軟さを持ちましょう。判断が難しいこともありますが、あきらめずに神様の意志が実現することを求め続けましょう。

メッセージのポイント

神様に仕えるということは、神様の僕として現実の社会の中で政治的にも社会的にも責任を持って生きるということです。それは、盲目的に権力者に従うのとは正反対で、それぞれの与えられた時代と状況の中で、キリストの愛に従って善悪を判断して行動するということを意味します。

話し合いのために

1) 神のものは神に返しなさいとは?
2) イエス様とパウロは納税に反対ですか?賛成ですか?なぜですか?

子供たちのために

子供達は親や先生の言うことを聞きなさいと言われていますが、自分で考えることも大切だと教えてください。大人も間違いをします。なぜそれがいけないのか、いいのか、疑問に思ったら聞いてみてください。ただし、それはいつも自分勝手な理由ではなくて、神様がどう思うか(喜ぶか悲しむか)をまず考えて判断することが大切です。