永原アンディ
(テトス 1:5-16)
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清い人には、すべてが清い
この手紙の受取人テトスはクレタ島の諸教会全体の指導者でした。テトスはパウロから町ごとに、長老あるいは監督と呼ばれるリーダーを立てる使命を与えられていました。パウロは今日のテキストの前半の部分で、リーダーに求められる資質について述べています。そして後半ではリーダーにしてはいけない人々について述べています。それではまず前半5−9節を読みましょう。
A. 教会のリーダーの資質 (5-9)
5 あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。
6 長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。
7 監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、
8 かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、
9 教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。
クレタ島は、地中海とエーゲ海の間に浮かぶ東西に細長い島です。その広さは東京と神奈川と埼玉を足したくらいですが、人の数は少なく、町田市より多く、相模原市より少ないくらい(2010年で60万人強)です。町ごとに教会を組織してそのリーダーを立てるのは、テトスにとって責任の重い仕事でした。前回お話ししたように、テトスは生涯をかけてこの仕事に取り組んだのです。どのような人をリーダーとするのか?パウロはテトスに具体的に指示を出しています。それは、エフェソの諸教会を指導していたテモテに指示したこととほぼ同じ内容です。6−8節までの詳しい点については2015/10/18にお話しした「牧師やリーダーにもとめられていること」というメッセージを参考にしてください。
今日は、一つ一つ具体的な指導者像が挙げられている理由として「神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならない」という点に注目しましょう。実際にはテトスが選ぶわけですが、パウロは「神から任命された管理者」だと言っています。つまりテトスの本当の使命は、自分の判断でリーダーを選ぶのではなく、神様が選んだ人を見出すことだったのです。ここで指示されている資質は資格ではなく最低条件です。どんなに優秀な人でも、人気があっても、高い教育を受けていても、周りの人々を愛し、自分をコントロールできる人でなければ神様はその人をリーダーとはさせないのだと、パウロはテトスやテモテに教えているのです。まだ若い二人が、人々からの信望とか市民としての高い地位とか、そういった要素で神様が立てるつもりのない人を立ててしまわないように、できるだけ神様の視線に従って選べるようにパウロはこのことを伝えたのです。教会のリーダーたちに求められる資質は社会的評価や地位、聖書の知識ではないのです。特に聖書の知識を持っているのはいうまでもなく大切ですが、それらだけが判断の材料ではないのです。8節までに記されている資質を、一言にまとめた言葉が9節にあります。「教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人」です。そして、今まで読んできた資質を求められている理由が最後に述べられています。「そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできない」からなのです。ユアチャーチのリーダーも神様が選び出された者たちです。この人たちが神様に立てられているのは、ユアチャーチが常に健全な教えに従って勧めるためであり、反対者の主張を論破して、人々がイエスに背を向けることを防ぐためなのです。私たちもこの考え方でリーダーを選んでいます。実際には私が一人で考えるのではなく、すでにリーダーとなっている人たちとの話し合いによって新しいリーダーを選びます。多数決ではなく、みんなが納得した人を選びます。話し合いの中で、この人こそ神様が私たちのリーダーに立てられたと信じられる人をリーダーシップグループに加えてきました。どうかこれからもリーダーたちがイエスに忠実に、人々のお世話をしていけるように祈っていてください。パウロはこの後、決してリーダーとしてはいけない人々について、「汚れている者」というキーワードを用いて教えています。10-16節を読みます。
B. 清い人として生きる (10-16, マルコ 7)
10 実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。
11 その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。
12 彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」
13 この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、
14 ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。
15 清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
16 こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。
1)汚い人には全てが汚い
当時、クレタ島にはユダヤ人が多く住んでいました。教会にもはユダヤ教の背景を持ったユダヤ人が多くいたようです。しかし彼らの中には、間違った教えによって人々に悪い影響を及ぼす者が多くいたようです。決してリーダーにしてはいけない人々です。彼らはイエスが自分の命と引き換えに解放された人々を再び不自由な言い伝えや戒律に縛られるような生活に引き戻そうとしていたのです。実際に教会に集う家族を分裂させるような影響力を持っていたようです。
それにしても12節は言い過ぎです。
彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」 この言葉は当たっています。
パウロが預言者と言っているのは、紀元前600年頃のクレタ島出身の詩人、哲学者エピメニデス(Epimenidēs)です。エピメニデスはギリシャ神話の神ゼウスが不死であるとされていたのに、クレタでは人々がゼウスの墓を作ったことに対してこう言ったのです。パウロは、テトスを励ますために、テトスの邪魔をする人々に対してそのように言ったのでしょうが、600年後にそれを持ち出せばクレタ人はいつでもみんな「うそつき、悪い獣、怠惰な大食漢」ということになってしまいます。今日の主題とは違いますが、私たちに対する教訓ともなるので少し確認しておきたいと思います。皆さんは、何人はこういう人という先入観を持ってはいないでしょうか?どの国にも「うそつき、悪い獣、怠惰な大食漢」はいるのです。ユアチャーチには様々な国籍の人々が集まっています。国家主義者、民族主義者にはいたたまれない教会だと思いますが、私はこの教会が大好きです。宗教は国家主義、民族主義に結びつきやすいものです。それらに利用されて暗い歴史を残してきました。もちろんキリスト教も例外ではありません。福音書をどう読んでも、イエスの教えは国家主義、民族主義とは正反対です。誰にとっても、民族主義的、国家主義的偏見から自由であることは難しいものです。特にキリスト教国の人は注意しなければなりません。日本の場合であれば、それは神道や天皇崇拝(70年前まで日本は「神の国」でした。天皇が神とされていたのです。与党の政治家には今も「日本は神の国」という人がいるくらいです。イエスを救い主と公言することはパウロのように投獄されることを意味していました。)に結びつくものなので、日本のクリスチャンの多くは意識的に警戒できています。ところがキリスト教国であれば、イエスの名によって、実はイエスの喜ばれないことをキリスト教徒を自認する指導者達によって行われます。彼らこそ、パウロがここで嫌悪すべき汚れた者だと言っている「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定している」者達です。先週紹介されたボンフェファーの立ち向かったナチスドイツでも、ほとんどの教会はナチスに協力していました。ボンフェファーたちは少数派でした。教会もユダヤ人に対する人種的偏見の渦に巻き込まれてホロコーストに加担してしまったのです。キリスト教国の教会は十字軍的過ちを犯しやすいということです。 これから国際環境がどう変わろうと、皆さんは何人だからどうという偏見を持たないでください。
2)清い人には、すべてが清い
ここから分かることは、権力者も私たちもすべきことは同じで、悪を行わずに善を行うことを求められているということです。そのことを次のcでお話ししていきますが、その前に注目しておきたい点があります。それは、ここでパウロが「権威者は神に仕える者」だと明言していることです。ここでの権威者はローマ帝国の支配者を指すとお話ししました。ですから、パウロはここで異教の支配者も「神に仕える者」だと言っているということです。これは多くのユダヤ人にとって考えられない発言だったはずです。現代ですら、ここまで宗教的に寛容な態度は誰もが持てるものではありません。宗教が多くの戦争の原因になったのは、それぞれが自分達こそが神の側にいると信じて、相手は神の敵だと信じたからです。その教訓がやっと信教の自由という形で法律で守られるようになったのは、人権という概念と共にここ数百年のことです。しかも今でも、法律はあっても忘れられたり、実際は対立が続いている場合も多くあります。その中で、このパウロの発言はとてもオープンで時代の先をいく考え方でした。それはパウロがイエス様と出会って、神様は全ての人を愛し、ユダヤ人も異邦人も関係ないのだということに確信を持っていたからです。そして、誰が正しいか間違っているのか、最終的な判断は神様のみが下すのであり、私たちは一人一人が自分の行動に責任を持つことに集中すべきだと信じていました。では何を基準に私たちは行動すべきかということが、「善を行い、悪を避けなさい」ということです。
メッセージのポイント
教会には健全なリーダーシップが必要です。その理由は、教会の中に誤った教えが広まることを防ぎ、誰もがイエスから離れて行くのではなくイエスに従って歩み続けることができるようにするためです。教会は、その外側にいる人々を非難したり攻撃するためにあるのではなく、そこにいる人々がイエスに従って歩むことを支えるためにあります。清い人とは本当に神様に従って歩んでいる人、汚れた者とは神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定している人です。「清い人」として歩み続けましょう。
話し合いのために
1) 教会のリーダはなぜここに書かれているような資質を求められるのですか?
2) 清い人、汚れた者、それぞれどのような人を指していますか?
子供たちのために
なぜ私たちは日曜ごとにここにいるのか、質問してみてください。そして彼らの親たちが、神様にしっかりと従ってゆくことができるように、礼拝の時を大切にしていることを伝えてください。聖書には、子供にとっては難しいところが沢山ありますが、わかりやすいところもあるので、そういうところを両親と共に読み続けることを勧めてください。
今日のテキストは読むなら、9節までと15節だけでいいと思います。ここに書かれている事が現代の教会の牧師やリーダーたちに求められていることだと教えてください。15節に関しては、神様が作った教会は全てが良いもので満ちていること、けれども神様に背く人が指導者になれば、その教会は神様に喜ばれないものになってしまう危険があること、だから私たちはよく聖書を読み、互いのためによく祈り、励まし合ってイエスに従ってゆくことが大切だと教えてください。