池田真理
(ルカ 20:27-40)
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死者の復活
今日はルカ20:27-40から、死者の復活についてお話します。私たちは、聖書で教えられていることに従って、死者が復活すると信じています。死者の中から復活した最初の人、そして今のところ唯一の人がイエス様です。死人が蘇るというのは、それだけで聞くと、ゾンビが墓からフラフラ出てくるようなイメージを持ってしまいまうかもしれません。私はそうでした。だから最初は受け入れがたい信仰だと思いました。パウロも、このことを話し始めた途端にギリシャ人からバカにされたという記録が使徒言行録(17章)にあります。でももちろん、聖書が教える死者の復活というのは、そんなものではありません。それはいつも私たちが信じているものの延長です。永遠の方である神様と永遠に共に生きる新しい命を与えられるということです。ただ、世界の終末と同じように、復活が具体的にどのように起こるのか、誰も確かなことは言えないので、教会が始まった当初からいろいろな憶測が飛び交い、意見が割れていたようです。今日の箇所は、そんな教会の状態に対する、ルカの心配も現れているのかもしれません。でもイエス様の答えは大変きっぱりとしています。最初に27-33節を読んでいきましょう。
1. 愚かな議論 (27-33)
27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30 次男、31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。32 最後にその女も死にました。33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
正直言って、ここでこのサドカイ派の人たちが何を言いたかったのか、よく分かりません。7人の兄弟すべてと結婚した女性は、復活した時に誰の妻になるのか、それが説明できなければ復活はないと言いたいのでしょうか?その論理もよく分かりません。ただ、彼らの議論が愚かなものだということは言えます。彼らがここで持ち出している、兄弟の結婚に関する決まりは、モーセの教えとして旧約聖書(申命記25:5以下、創世記38:8)にあります。兄が死んだら、弟は兄の妻と結婚して、家の名前が存続するようにしなければならないという決まりです。サドカイ派の人たちは、この決まりを文字通りに受け取って、兄弟7人全員が死んだ場合という無茶な場面設定をしています。その上で、復活があるとしたら、この教えに矛盾が出てくるのではないか、と考えているようです。彼らの根本的な間違いは、復活をこの世の再現としか考えていない点です。それは、復活はないと信じていれば当然のこととも言えます。彼らにとっては、この世が全てだったということです。だから、こんな愚かな議論になってしまったのかもしれません。
私たちが信じる死者の復活というのは、このサドカイ派の人たちが想像したような、単なるこの世の繰り返しではありません。ではどういうものなのか、イエス様の答えを聞いていきましょう。34-40節全部を読みます。
2. 死者の復活とは (34-40)
34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
このイエス様の答えは、前半と後半に分けることができます。34-36節と37-38節です。前半は「復活するとはどういうことか」について、後半は「復活はある」ということについて言われています。順番が逆になりますが、まず、「復活はある」ということについて、後半の37-38節を詳しく読んでいきましょう。
a. 神様によって生かされること (37-38)
37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。
サドカイ派の人たちがモーセを重んじていることを知っていて、イエス様はモーセ自身も復活について証言していると言っています。「柴の箇所」というのは、柴が燃えているのに燃え尽きない不思議な光景をモーセが見て、そこで神様と出会ったという箇所です。出エジプト記3章にあります。神様はそこでご自分のことを「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とモーセに告げました。出エジプト記はモーセによって書かれたと信じられていたので、イエス様はここで「モーセがそう呼んでいる」と言っています。では、それがどのように死者の復活と結びつくのかというと、ポイントは、アブラハムもイサクもヤコブも、モーセより前にすでに死んだ人々だという点です。彼らはすでに死んでいるにもかかわらず、神様は彼らのことを覚えていて、自分は彼らの神だと言っているということです。つまり、神様にとって、アブラハム・イサク・ヤコブとの関係は、彼らの死によって終わったわけではないということです。彼らは肉体的には死にましたが、神様にとっては死んではおらず、生き続けていました。だから、彼らには復活の希望がある、というイエス様の主張に結びつきます。
少しややこしいので、人間関係のことを考えてみたいと思います。人間関係は、死によって断絶します。誰かが亡くなると、その人との時間は止まり、私たちの関係はそこで終わりになります。でも、本当に親しい人との関係というのは、片一方が死んでも、残された人の中で生き続けるものだと思います。その人の記憶は私たちの間で鮮やかに残っており、そこにその人がいなくても、その人なら何と言うか、想像することができます。だから、その人のことを覚えている人がいる限り、その人は生き続けていると言えます。反対に、覚えている人がいなくなった時、その人は本当に死ぬのだと聞いたことがあります。そういう意味で考えると、私たちが肉体的に生きているか死んでいるかと、私たちが誰かにとって生きているか死んでいるかは、少し違うと言えます。肉体的に生きていても関係がなければ死んでいるも同然かもしれません。
神様と私たちの関係もそれに似ています。本当に親しい人との関係がその人の死によって終わるものではないように、神様との関係も決して死によって終わるものではありません。それは神様が永遠の方で、ご自分の子とした人々のことを決して忘れることのない良い方だからです。神様が私たちのことを覚えておられるのは、私たちがこの世界で生きている間だけではありません。死を超えて、私たちの存在を覚えておられます。ですから、私たちが信じている死者の復活というのは、神様との関係に生きるということの延長にあります。神様に覚えられて、いつか復活させられるという希望が与えられています。
そう思うと、38節のイエス様の言葉も納得できます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。He is not the God of the dead, but of the living, for to him all are alive.”」ここで日本語と英語に微妙な差があります。日本語も間違っているわけではありませんが、より原語に忠実なのは英語の方です。「すべての人は、神に対して生きている」、つまり、すべての人は神様との関係において生きているか死んでいるかなのだということです。神様によって生きている人は、神様にとって生きている人です。反対に、神様によって生きていない人は、神様にとって生きているとは言えません。アブラハムもイサクもヤコブも、神様によって、神様との関係を中心にして、生きた人たちでした。だから、彼らは神様にとって生きている人たちでした。
ここまでをまとめると、死者の復活というのは、神様に頼って生きている人に与えられた希望で、神様によって生かされるということです。だから、死者の復活は、今を神様によって生かされている人たちが、死を超えて生かされるということです。
では次に、イエス様の言葉の前半、復活するとはどういうことかについて34-36節を振り返ってみたいと思います。
b. 神様と共に永遠に生きる (34-36)
34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
イエス様はここで、「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされる人々 those who are considered worthy of taking part in the age to come and in the resurrection from the dead」という言い方をしています。このことは今日すでにお話ししてきたことの繰り返しですが、復活は誰にでも起こるわけではりません。神様との関係に生きている人に起こることです。神様との関係に生きているかどうか、決めるのは私たちではなく、神様です。だから、復活するのにふさわしいのかどうか、決めるのも神様です。ユアチャーチに長くいる皆さんは、このことが何を意味していて、何を意味していないか、もう耳にたこができているかもしれません。神様を中心に生きるということは、日曜日の礼拝にどれだけ熱心に通っているか、聖書の知識がどれだけあるかではありません。それよりもまず第一に、それぞれが心から神様のことを喜び、神様を愛していることです。それが具体的にどういう行動に表れるか、それは人それぞれの状況によって違っていいのです。人から見てどうなのかではなく、神様から見てどうなのかだけに集中して、もっと神様に喜んでいただけるように、それぞれ求め続けましょう。
本題に戻って、復活するとはどういう状態のことなのか、イエス様の言葉を振り返りましょう。まず「めとることも嫁ぐこともない」と言われています。神様は、私たち人間をお互いに補い合い、助け合うように造られましたが、結婚はそのうちで最も重要な人間関係です。でも、復活の時には、私たちはもう互いに補い合う必要はなくなります。神様ご自身が全てにおいて私たちを完全なものとしてくださるからです。それは続きのイエス様の言葉からもわかります。復活するとは、「天使に等しい者となり、神の子になる」ということです。そして、「もはや死ぬことがない」と言われています。これは、私たちにとって想像するのが非常に難しいことです。死ぬことがなく、全てにおいて完全とされた状態というのは、私たちの今の状況とはあまりにかけ離れています。私たちは皆、この世界に生まれた時から罪の中で生き、不完全な者同士で隣り合わせながら生きています。そうではない世界を知りません。そして、苦労して赦しの恵みを知り、不完全な中で完全なものを目指して、どうにか戦っています。この世界の中で、傷つけ合う悲しみも知りましたが、赦し合う喜び、補い合う喜びも知っています。私たちの戦いが神様の目に敵い、復活の時を迎えたとしても、そこでどういう私たちにされるのか、今は想像に限界があります。
でも、私たちには素晴らしいヒントが与えられています。それは、今のところ死から蘇った最初で唯一の人、イエス様です。イエス様が死からよみがった時のことを思い起こして下さい。イエス様の手には釘の跡があり、お腹には刺された傷が残っていました。それは十字架の苦しみの証で、イエス様が罪のために戦った証拠です。復活は、罪との戦いをなかったことにするものではありません。神様がその戦いを見ておられるからこそ与えられるものです。復活の時、私たちにはそれぞれ違うところに戦いの跡が残っているでしょう。その時には、その傷が痛むことはなくなります。そして、神様の元で永遠に満たされて、神様と共に生きることになります。その時まで、与えられている限られた時間を有効に使いましょう。神様にとって生きている者となれるように、もっと神様の力を期待して、神様を求め続けましょう。世話のかかる子供を愛する親のように、神様はいつでも喜んで答えてくださるはずです。
メッセージのポイント
私たちは死者の復活を信じています。イエス様は、私たちが神様と共に生きることを望むなら、肉体的に死んでも、世界の終末の時にはイエス様と同じように復活させられると約束されました。復活とは、死を超えて、罪から自由になって、神様と共に永遠に生きるということです。それは、今肉体がある時から、日々神様によって生かされることによって、すでに始まっていることとも言えます。
話し合いのために
1) 復活するのはどういう人ですか?
2) 今生きている私たちと復活させられた時の私たちは、何が違い、何が同じですか?
子供たちのために
死者の復活というのは、普段あまり考えないことだと思うので、この機会に自由に話し合ってみてください。1コリント15章も参考になると思います。復活する時、生前の性格や好みがどうなるのかとか、子供達には疑問に感じることがたくさんあるかもしれません。分からないことは分かりません。でも、イエス様が復活された時、その手には釘の跡があり、お腹には傷があったこと、そして、弟子たちにはすぐにそれがイエス様だと分かったことを参考にすると、私たちも復活する時には同じように、生前の姿をある程度保っているだろうということは言えます。