2016/8/28 神の恵みに基づく勧め

永原アンディ
(テトス 2:1-15)

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神の恵みに基づく勧め

 今日はテトスへの手紙の2章を読みます。1章では、教会のリーダーに求められる資質と、教会の中で人々の心をイエスから引き離そうとする偽りのリーダーを警戒することについて書かれていました。今日のテキストでは、教会の中の様々な立場の人々に対する具体的な勧めとその根拠が書かれています。なぜそのようでなければならないかという根拠を理解した上で具体的な勧めについて考えてみたいので、まず全体を読んでから、先に後半の11-15節を見ていきたいと思います。

1 しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。

2 年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。

3 同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。

4 そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、

5 分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。これは、神の言葉が汚されないためです。

6‐7 同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、

 8 非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。

9 奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、

10 盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。

11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。

12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、

13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

15 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。

A. 勧めの根拠としての神の恵み

 11節の最初に、共同訳では「実に」とありますが、原語は、英訳のように「なぜならば」と訳されるのが一般的な言葉です。その方が、前半が具体的な勧めで後半はその根拠だという関係がわかりやすいと思います。

1) 恵みはもたらされた

 さて、11節に神の恵みが現れたとあります。そして13節には、その神の恵みが私たちに「救い主イエスキリストの栄光の現れを待ち望むように」教えている、とあります。それは「神様の恵み」は、すでに与えられているけれども、もっと素晴らしいものとなるということです。すでに与えられているのは、イエスはすでに来られて十字架につけられ死んで、三日目によみがえられているからです。でも話はまだ終わってはいません。「イエスはやがてこられる」と聖書は未来についても教えています。別の言い方をすれば、「神の国は来ている。しかし、まだ完成はしていない」ということです。  神様の恵みと様々なことが考えられるでしょう。素晴らしい1日が与えられた、悲しいことに直面したが深く慰められた、願っていたものが与えられた。しかし今日考えることは「救いの恵み」です。「救い」はいろいろな恵みのうちの一つではありません。恵みの核心なのです。救いとはイエスキリストによってあなたに与えられる神さまとの関係回復です。救いがあるので、いろいろな恵みを受け取れるのです。 今日のコンテキストでは、ほぼ「恵み=救い」です。そこで、神様が私たちに、イエスとしての働きを通して「救いという木」の苗を下さったと考えてみてください。それだけでもありがたいことです。神様はイエスとしてあなたに出会ってくださり、今イエスと共に歩んでいる=その意味ではすでに「救い」はあなたのもにです。しかし「救いの木」は成長するのです。季節が来れば、葉が茂り、花が咲き、実を実らせます。私たちは「愛する」という作業を通して、この木の成長に関わるのです。神様はご自身が創られた全ての人にこの木の所有権をくださいました。しかし、その価値に気付かず世話をするどころか、木を弱らせるような事をしてしまう人もいます。中には自分の人生には意味がないと枯らせてしまう人もいます。そんな中で、愛する事がどんなに素晴らしい事か、私たちはイエスに出会って知る事ができました。それ自体が他に比べようのない大きな恵みです。しかしそれは、もっと大きなものとなろうとしているのです。私たちは神様の愛があらゆる人間関係の中に働いて、いつか世界がその愛によって完成する事を知っています。今それは目に見える、キリストの体としての教会、神の家族である教会として、地球上のいたるところに表されています。しかし、神様は私たちがこの家の中で満足していることを望んではおられません。というのは、神の恵みは個人的なものに留まるものではないからです。出発点はイエスとの個人的関係です。しかし恵みは、社会全体の希望でもあるのです。

2) 恵みは完成に向かっている

 12-14節をもう一度読んでみましょう

12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、

13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

 つまり私たちは私たちは、神の恵みを与えられて新しい人生を歩み始め、完成の時に向かって歩んでいるということです。パウロは別の手紙でこのことを取り上げてこう言っています。

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。 (エフェソの信徒への手紙 1:10)

最初の時代の教会の理解では、終わりの日がすぐにでもやってくるものとされていましたが、この手紙にはそれほどの切迫感が感じられません。それも、かなり後の時代に書かれたと考えられる理由の一つです。そして2000年が経ちました。私たちにはそれがいつかはわかりません。私たちがすることは一つだけです。それがいつ来るか、どんなことが起こるかを詮索することではありません。宗教改革者ルターは「たとえ明日、世の終わりが来ることを知っていたとしても、今日私はリンゴの木を植える」(Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.)と言ったそうです。 私たちはリンゴの木ではなく、「救いの木」の世話を生かされている限りし続けるのです。愛し続けるのです。誰をですか?神様を、お互いを、そしてこの世界とそこに住む人々をです。

B. 具体的な勧め

 聖書の基本的な読み方として注意しておかなければならないことですが、聖書は神様の言葉ですが、神様はあえて、特定の時代や文化の制約の中に生きる人のことばとして表されたということです。突然天から降ってきたり、夢のお告げで土を掘ったら出てきたものではありません。長い間言い伝えられてきたことが多くの人々によって書かれた聖書となったのです。ですから、文字通り、一語一句を、誰もが時代も文化も超えてそのまま受け取りなさいと言われているわけではありません。そこを間違うと結局、聖書の表面に印刷されている文字には忠実でもイエスが望まないことを教えることになってしまいます。翻訳の過程で違う意味にもとることのできる言葉や文も多くあります。それで、メッセージの中でも時々、原語について説明しなければならないことが出てくるのです。ですからこれから見ていく部分は当時のクレタ島の教会のそれぞれの立場の人々の状況に即した勧めなのであって、決して普遍的に、おじいさんはこう、おばあさんはこう、若い男はこういうものだと言っているのではありません。

1) 年老いた男たちへ (1, 2)

しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。

 とても常識的なことです。しかしそうなっていない現実があったということです。信仰、愛、忍耐というイエスに従うことにおいて最も中心的な価値観も、本来なら人々の間で模範となるべき年長の男性の間でさえ欠けていたということです。当時のクレタの教会には、こんな基本的なことを言われなければならない不良老人がいたということです。

 信仰、愛、忍耐こそ「救いの木」を強く大きく育てる基本作業です。水をやる、肥料を施す、周りの草をぬく、病気や害虫から守る。毎日毎日の積み重ねであり、季節によってはつらい作業でもあります。数日サボったくらいでは多きな変化は起こりません。しかしそれに油断して、手を抜くことが多くなれば「救いの木」は弱ってしまいます。このことに気をつけていなければならないのは、いい歳のおじさんだけではありません。

2) 年老いた女たちへ (3-5)

同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、 分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。これは、神の言葉が汚されないためです。

 おばあさんたちへの警告も、私たちみんなにとって有益です。クレタ島は昔も今も温暖な気候に恵まれた自然の豊かな島で今では人気のあるリゾートです。オリーブ、ワイン、シーフードと美味しいものがたくさんあります。自然の幸に恵まれれば、その恵みがもともとどこから来たのか忘れてしまいがちです。「中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者となりなさい」とクレタの教会のおばあさんたちは言われなければなりませんでした。繰り返しますが、そう教えられなければならなかったのは、そこに特定の問題があったからです。いつでもどこでも年長の女性とはそういうものだということでは決してありません。

3) 若い男たちへ (6-8)

同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、 非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。

 ここでパウロはテトスも含めて、クレタの教会の若い男たちへの勧めをしています。若者全体に対しては、年長者に対する勧めの中にもあった、セルフコントロール(新共同訳は、2節、5節では「分別」、ここでは「思慮深く振る舞う」と訳している)だけしか書かれていません。しかしテトス個人に対しては、少し付け加えて幾つかのことを勧めています。そして敵対者に対して非難の余地のないものであるためにとその理由も付け加えています。

4) 奴隷の身分の者へ (9-10)

奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、 盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。

 「奴隷」も、今の私たちが思い浮かべる、全く非人間的な扱いを受けてきた近代の奴隷と同じではなかったようです。少なくとも、その身分であっても、そうでない人々とともに、一人の人間として神様を礼拝できる自由を持っている人々でした。自由な人が、経済的な理由によって自分を売って奴隷となるということもありました。

 クレタでは奴隷が反抗したり、盗んだりすることが起こっていました。しかしパウロは、イエスに従う者となった奴隷たちに、あえて人間の主人に従いなさいと言います。その主人がイエスを知らない人であれば、その奴隷を通してイエスに出会うこともできるからです。もちろんこのことは人間としての尊厳を守られている限りであって、主人の不法な行いにも黙って従いなさいということではありません。

 お話ししてきたように、私たちは特殊で高度な道徳を持つように命じられているのではありません。イエスが非難したファリサイ派はそのように誤解して、清さを保つための細かい規則を生み出しました。しかし、皮肉にもそれは人々を神さまから遠く引き離してしまう結果を生みました。私たちは決して無理な要求をされているわけではありませんが、神様の助けなしにできることでもありません。ですから完成するまで毎日祈り求めながら、日々の愛という作業を行っていくのです。私たちはなんとか神様の愛を人々に伝えたいと思っています。それは誰にとっても魅力的なものなのですが目で見ることができません。私たちはそれが自分の内にあることを伝えるしかないのです。私たちは包装紙のようなものです。中身が大切なのですが、それがあまりにもひどく汚れていれば、誰も開いてみたいとは思いません。それが、生かされている社会の中で良識とされていることを守りなさい、と命じられている理由です。

 しかし社会の良識でさえ、守ることは簡単ではありません。そこに「信仰、愛、忍耐」の必要があります。このことを完璧に行ったのはイエス・キリストだけです。私たちは決してキリストには成れませんが、イエスについて行くことはできます。聖書の一字一句について行くのではなく、聖書に証言されているイエス・キリストについて行きましょう。

メッセージのポイント

聖書は道徳の教科書ではありませんが、中にはこの箇所のように徳目が列記されているところがあります。一見、当時の社会を反映する常識的なものですが、聖書はただこうありなさいというだけでなくその根拠を示します。それはイエス・キリストによって現された神の恵みと、やがてこられて恵みを完成されるイエスへの期待です。

話し合いのために

1) すべての人々に救いをもたらす神の恵みとは?

2) 奴隷に対する勧めはあなたに何を教えてくれますか?

子供達のために

ここには子供に対する教えは書かれていません。もしパウロがそれも書いたとすればどのようなことを勧められたと思うか、考えさせてみてください。そのあと、大人であれ、子供であれ、誰にも求められていることは、すべてのことの根底に、イエスと共に歩む者とされた感謝と、やがてイエスが完成させる神の国への期待があることを伝えてください。イエスの原則は単純です。すなわち「自分のしてほしいことを人にもしてあげなさい」(マタイ7:12)です。